鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

剥き出しの足黒人鳥

 

ガスストーブでガンガンに暖めたリビングに一人、私は楽しみにしていたテレビ番組を観ている。リアルタイムで観ることが叶わなかったため、仕方なく録画なのだけれど。

最初は意識して背筋を伸ばしながら座っていたのに、気を抜けば猫背になる私の背部。

それにしがみつき、「おんぶしてよ〜」と言わんばかりに二足立ちをしながら甘える愛猫、マル。

その名の通りマルは本当に真ん丸で、年々球体に近付いていっている。いつかはボールになるつもりなのだろうか、と思う程に。

これは飼い主の甘やかし過ぎと、本人ののんびりした性格がそのまま体型に現れた結果なのだろう。

然し、そこもまた愛おしい。

 

「お前は本当に可愛いな〜。」

マルを膝元に手繰り寄せ、頭、喉元、背中、お腹、兎に角至る所を優しく撫でてやる。

マルはゴロゴロと喉を鳴らしながら、気持ち良さそうに目を閉じる。

 

あぁ、私も猫になりたい。

猫になって、マルと仲良く遊んだり、話をしてみたい。そして、私も人間から優しく撫でられてみたい。

 

ずっと一緒に居られたらいいな。

そんな幸せな願望の後には、叶わないことへの寂しさが必ず追いかけてくる。

 

誰かが言った。

「動物はきっと自分より早く死ぬのだから、常に覚悟はしておいた方がいいよ。」

そんなこと、言われなくても解ってるよ。

そうじゃないんだ。頭では追いつけたとしても、心はいつも追いつけないんだよ。

覚悟なんて出来るなら、居なくなってしまう前からこんな気持ちにはならないし、例え今覚悟したつもりになっていても、きっと本当にそんな日が来た時、そんな「覚悟」なんて硝子のように簡単に粉々に割れてしまうものだって思い知り、余計に辛くなってしまうだろう。

 

「愛は人を強くする」と言う人も居るけれど、私にとって「愛」は、心が直接傷付いてしまわないように周りに張っていた結界を溶かしてしまう程に熱くて、弱さが剥き出しになってしまうものなのだ。

愛を知る度に私の弱さは直接空気に晒されて、心の形が変わる位に傷が付いたり穴が空いたりして、歯を食いしばる程本当に痛い。

痛いのに、愛を量産しては、また傷付いている。

 

あぁ、それでもずっと一緒に居られたらいいな。

この幸せな願望と、叶わないと解っている寂しさの追いかけっこは、きっと私が死ぬまで続くのだ。

 

 

 

 

 

しまった。テレビを観ている途中だったのに、ついマルのことや自分の感情に夢中になって、全然観ていなかった。

マルを撫でる右手は止めないまま、再びテレビの方へ目をやる。左手でリモコンを操作し、観ていたところまで巻き戻す。

そうそう、いい所だったんだ。

 

毎年この時期に放送するこの番組が好きで、初回から欠かさず観ている。

ふと気になって調べてみると、初回放送は20年も前のことだった。

その頃、私はまだ子どもだった。

子どもだったんだな。

今どきの言葉で表すと、こういう気持ちを「エモい」と言うのだろうか、と思ったが、私はこの気持ちを一言で片付けてしまうような寂しいだけの感情にしたくなかった。

 

テレビの向こう側のあの人達は、毎年この一瞬のために長い人生を賭けているように見える。

子どもの頃は何も考えずにただただ楽しむだけだったのだけれど、大人になると、自分の経験や感情に重ね合わせてしまうものなのだろうか。

 

身振り手振りを大きくしておどけてみせる人、息継ぎの暇も無く声を張り続ける人、動きは少ないけれど言葉の表現力で勝負をする人、様々だった。

これだけの人で溢れているのに、全く同じものはそこには無かった。皆、納得いく「らしさ」を突き詰めている。

それは自分だけのためじゃなく、誰かのためだけじゃなく、自分のためであり、誰かのため。

 

言葉で、声の音程・強弱で、表情で、全身で表現をして、名前も顔も知らない誰かを笑わせようとする。

結果、万人受けしなかったとしても、この世の中の誰かを確実に笑わせていることに違いないのだから、本当に凄いことではないだろうか。

格好をつけない、寧ろ格好悪く見せている、格好良い人達ばかりだ。

 

当たり前だけれど、皆本気だから、もはや格闘技を観ているような気分にさえなってくる。故に、あのタイトルなのだろうけれど。

勝って喜ぶ者が出てくるということは、当然負けて悲しむ者や悔しがる者も出てくるということ。だからこそ、真剣にふざけている様が残酷な程美しく思えた。

 

こういうものを見た時に涙が出るのは、様々な感情がミキサーにかけられてぐちゃぐちゃになるからだ。とてもじゃないけれど整理がつかない。

だけどそれを言葉で表したくて、私はいつも気持ちに追いかけられて、浮かんでくる言葉たちに揉みくちゃにされて、出そうとする声にぐるぐる巻きにされる。

 

この気持ち、何ていうんだっけ。

どう表せばいいんだろう。

どう言えば伝わるのかな。

こういった気持ちの整理に「悩んでいる」と言えば聞こえが良すぎるし、「苦しんでいる」というには言い過ぎなような気がして、私は言葉にならない此処に縛り付けられて動けなくなった。

 

その時、おじさんがテレビの向こう側でみっともなく涙を流しながら、たった5文字の言葉を発した時、ハッとした。

 

それに勝る言葉を私はずっと捜し続けてきた。

そのために遠回りをしてきたけれど、結局そいつには敵わない。

敵わない。本当に狡い言葉だな。

 

私のこの気持ちは、きっといつまで経ってもどんな言葉に表したとしてもスッキリと腑に落ちることは無いのかもしれないけれど、こういう瞬間があるだけで随分と違う。

背中の痒いところに、ほんの一瞬だけ指先が届いた時のような、微かな気持ち良さと達成感に似たような気持ち。

 

 

 

「あ、マル・・・寝ちゃったのね。」

私はテレビを消して、マルと共に寝そべって目を閉じた。

 

 

 

 

 

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 𓅹 足黒人鳥・・・足黒ペンギン(ケープペンギン)

鳥言葉:傷つきやすい心

 

モザイクの、その先へ ⑵

 

「青木〜、ちょっと。」

先程私が淹れた珈琲を片手に、課長が手招きをしてくる。

「昨日、小鳥遊君来たの?」

「はい。伝達事項は其方の付箋に書いてある通りです。」

「定時過ぎに来るなんてあの子も忙しいね〜。」

「そうですね。」

他所の社員の忙しさは認めているのだな。身近に居る私の事は見ようともしない癖に。

「これからもこういう事があったらオフィス開けてあげてよ。折角来たのに追い返すのも可哀想だしさ。」

「分かりました。」

課長に会釈をし、自席へ戻る。

私は複雑な気持ちだった。定時過ぎにしか来られない時もある位に小鳥遊さんがお忙しいのは重々承知している。若しかしたらまた2人きりで話せる機会があるかもしれないというのも嬉しい。

然し、私が毎日の様に定時過ぎまで仕事をしているのは、他でもない課長達の仕事まで請け負っているから・・・という不満は拭えない。

今更もう自分の仕事くらい自分でやれとは言わない。言わないけれど、せめて私にも一言くらい労いの言葉を掛けてくれたっていいのに・・・。

いやいや、この人達に期待するだけ無駄なんだってば。ただ自分の傷が増えていくだけ。兎に角、無心で仕事をしよう。

あーあ・・・もし小鳥遊さんが私と同じ立場なら、私の様に他人を僻んだりしないのだろうな。

 

    さて、仕事仕事・・・。

私は今日も代わり映えのない1日を過ごすのだ。

 

 

 

 

 

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「こういうのは、青木さんに任せておけばいいから。」

学生の頃からよく言われてきた台詞だ。誰もなりたがらない学級委員にも、多数決によって決められる事が何度もあった。

それは決して私に人望があった訳では無い。何事も期限通りにきっちりとこなし、馬鹿真面目に生きている私だから、周りからいい様に使われていただけだ。

「青木さんって本当頼りになるよね。」

その言葉も所詮上辺なのだという事くらい分かっていた。人からそういう風に言われる度、私はどんどん誰の事も頼れなくなった。

 

 

 

 

 

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「お疲れさまです、山本製紙です。」

「お〜!小鳥遊君。昨日はわざわざ定時過ぎに顔出してくれたみたいで。」

昨日の記憶が鮮明に残っているため、彼の名前が耳に入る度に心拍数が上がる。而も、まさに今本人が来ている。自分の心臓の音が余りに煩く、耳の辺りにまで振動が響いてくる。

    落ち着け、私・・・。

「とんでもないです。此方こそ遅い時間に押し掛けてしまい、申し訳ありませんでした。でも青木さんが居て下さって助かりました。」

本人や周囲に気付かれないよう、一瞬だけ彼の方を見る。今日も爽やかな笑顔。いつ見ても日頃の仕事の疲れを微塵も感じさせない。

「これからも時間気にせず遠慮なく来てよ。青木が居ると思うから。」

課長が私の背中に指を差す。私をぞんざいに扱う姿が隣のデスクの作動していないパソコン画面に映っており、此方からしっかり見えている。

    本当、いちいち腹立つ・・・。

「青木さん、昨日は遅い時間に申し訳ありませんでした。でも、ありがとうございます。」

指を差された上に嫌味を言われ、穴の空いてしまった私の背中に彼が優しく声を掛けてくれる。それだけであっという間に傷口は塞がり、私の口元は綻びそうになる。

そんな心情を悟られない様に余裕のある大人風に笑顔を作り、キャスターチェアのままくるりと後ろを振り返って彼に会釈をした。

「あぁ、お礼なんていいのいいの。こういうのは青木に任せておけば。」

顔の前で横に手を振り、馬鹿にした様な態度で笑う。彼の私に対する優しさや、私のちょっとした乙女心を無下にする男。うんざりした私は小さく溜め息を吐いた。

「こんなに信頼して全てを任せられる優秀な部下に恵まれていて、本当に山田課長が羨ましいです。」

課長の嫌味に対し、更に笑顔で返す彼。課長と小鳥遊さんは親子ほど年が離れているが、年下である彼の方が何枚も上手だった。

あぁ・・・そうだよな、うん、ありがとう、と言ってお茶を濁す課長を見て、私は少しスッキリした。誰一人不快な気持ちにさせる事なく、この場を丸く収めた彼。

    流石、爽やか男子・・・。

 

私は感心しながらキーボードを打っていると、急に後ろに気配を感じる。前かがみの体勢になって腕を組みながら、私の後頭部に顔を近付けてパソコンを覗き込む彼だった。

「やっぱり青木さんは流石です。本当に仕事が早いですよね。」

耳元で彼の声が聴こえる。その所為で私の脳はフリーズし、全く集中出来ない。周囲にバレない様に、ただただ平然を保つのに必死だった。

「いやいや、褒めすぎですよ・・・。」

キーボードに置いている指が、過度な緊張によって小さく震える。

「いや、本当に凄いですよ。誰でも出来る事じゃありません。尊敬します。」

    は、早く離れてくれませんか・・・。

「・・・また青木さんの話を聞きに来てもいいですか?ご迷惑でなければ。」

より一層私の耳元へ近付き、誰にも聞こえない様に先程よりも小さく囁く彼。

「此方こそ・・・ご迷惑でなければ。」

「本当ですか?嬉しいです。」

私の耳元で、喜んでいる様な声を出す無邪気な彼。そこから少し離れると、今度は飛びっきりの笑顔を私だけに見せ、何事も無かったかの様に他の社員たちに挨拶をして帰って行った。

    彼とまた話せるなんて夢みたいだ・・・。

そんな喜びの感情の後に、ふと不安感が襲う。

何故、私なんかの話を聞きたいと言ってくれるのだろう。よくよく考えれば、おかしくはないだろうか。

私は彼よりかなり年上だ。特別美人でもスタイルが良い訳でも無いし、性格は暗くて卑屈で、大して話が面白い訳でも無い。

一方の彼は、若くて、爽やかな青年。性格は明るく社交的で、大勢から好かれる様な所謂陽キャだ。

    それなのに、何故私に・・・?

若しかして、彼も心の中では私の事を馬鹿にしているのだろうか。男性に慣れていない私の事をからかっているのではないだろうか。

いや・・・彼はそんな人じゃない。あの笑顔は嘘じゃない事くらい私が一番分かっている筈だ。

いや、でも・・・。

考えれば考える程、思考が良くない方へ向かっていく。この目で見て、感じたものさえ簡単に信じられなくなる私。

私が、今目の前に座っている後輩の様な性格だったら、もっと素直に可愛く喜ぶ事が出来たのだろうか。

私はとことん何も持っていない女だ。大きな波に飲み込まれ、まるで溺れてしまっているかの様に苦しくなった。

 

 

 

 

 

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「あらら、また同じところをミスしてるよ。」

「あっ、またやっちゃったぁ・・・。本当ごめんなさぁい・・・。」

何度も言ってるけれど、仕事中に謝罪の言葉を口にする時は、“ごめんなさい”じゃなくて“すみません”でしょう?

入社して半年以上経つのよ。未だに同じミスを繰り返してばかり。一体、何度言えば分かるの?

私も時間が無い中で必死に教えてるのに・・・これって私の教え方が悪いの?

でも私は指導者だから・・・こういう感情的な不満は誰にも言ってはいけないのよね。言わないという事には慣れたつもりでいたけれど、やはりふとした瞬間に辛さを感じてしまう。

私のこの心は、一体何処へ飛んで行けば良いのだろう。

 

「今まで指摘された所をメモしたり、何か対策はしてる?」

「してるつもりなんですけどぉ・・・ごめんなさぁい・・・。」

口を尖らせて俯く彼女。

    あぁ、また泣いてしまうのね。

本当に貴女は可愛い。人から愛されやすい女性だと思うし、私はそれがとても羨ましいわ。でもね、ここで泣かれてしまったら、私は貴女に言いたい事の1割も言えずに終わってしまうのよ。

また、私が悪者。もういい加減疲れた・・・。

 

 

 

 

 

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そう言えば、あれから1週間以上が経つ。

小鳥遊さんは、定時過ぎに一度も来ない。 ただ忙しいだけなのかもしれない。若しくは社交辞令だったのかもしれない。何方にせよ、勝手に期待してしまった私が馬鹿なのだ。

自分のモチベーションを他人任せにしてはいけないと、私は改めて感じていた。その結果、こんなにも感情の浮き沈みが激しくなり、他でもない自分自身がどんどん苦しくなってしまったのだから。

私みたいな冴えない人間が、あんな太陽の様な眩しい人に好意を寄せたり憧れを抱いたりするなんて、きっと最初から許されなかったのだ。

    そんなのわかってるよ・・・。

 

 

 

 

 

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「青木、お前何やってんの?」

彼女が泣いている所を目撃した同僚が、此方に向かって吠えている。私はその声で我に返った。

「お前さぁ、後輩泣かせてばっかじゃん。いい加減にしろよ。お前それでも指導係か?」

「違います、私が悪いんです。私が全然仕事出来ないから・・・。」

彼女は涙声で弱々しく否定している。

    ねぇ、本当にそう思っているの?思っていないよね?どうせ私が悪いって思っているんだよね?

「後輩ちゃんは悪くないって。」

ほらね・・・どうせ皆、彼女の味方だ。今「泣いている」という結果が全てで、そこまでの過程など全く興味がないような連中。

ていうか、この小さな世界における“味方”とは一体何だろう。此処は大人が働く会社なのに、まるで幼い子どもが通う学校みたいだ。

あぁ、情けない。全身が鉛の様に重たくなっていく。

何が情けないって、私の今の状況もそうであるし、周りは今日まで一度だって私の気持ちなんか察してくれた事がないと言うこと。

 

鬼である私を退治してやろうと少しずつ人が集まってくる。大勢の視線が全身を突き刺す様に痛いのに、私は平然を装う事しか出来ない。鬼に囚われたお姫様である彼女は、何も言わず泣いている。

私は一体、今何を責められていて、何を言い訳したらいいのだろう。何も考えられないまま立ち止まっている。暫く時間が止まった様に感じた。

    泣きたいのは私の方だ。

そんな弱い気持ちを抑え、表情を変えないままふと目線を外した。オフィスの玄関の前で、課長と小鳥遊さんが立っている。いつの間に来たのだろう。彼は驚いた様な顔をして此方を見ている。

    あぁ、全部見ていたのだろうな。

社内の気まずい空気を察し、課長が小鳥遊さんを連れて外の喫煙所へと消えて行った。いつもは先頭に立って私を悪者にする様な課長だが、流石に取引先の人に見られるのは恥ずかしかったのだろう。

こういうのが“恥”という事は解っているのか・・・。って事は、この状況がおかしいという事は前から解っていたって事だよな。

    それなら尚更・・・如何してなの?

 

ご覧の通り、私の周りには敵しか居ない。その事に今日改めて実感させられた。強い絶望感。いや、疎外感?孤独感?とてもじゃないけど、言葉では言い表せない。

ただ真面目に仕事をしているだけなのに、何故こんなにも屈辱を味わわなければならないのだろう。自分なりに必死に生きていて、こんなにも良い事は巡ってこないものなのだろうか。

いっそこの窓から飛び降りて、全てを終わらせてしまおうか。たった今、彼等の目の前で。華麗に空を飛ぶところを見せつけてやるの。

いや・・・駄目、そうじゃない。私が居なくなった後に周りが何かに気付いたって、そんなの私にとっては無意味だ。何故、彼等の為に私が死ななければならないのだ。大体、私の様な人間が1人居なくなったところで、馬鹿は何も感じないだろう。

こんな思考になってしまう私は、どうやらもう限界みたいだ。

 

 

 

 

 

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キーボードを打つ音だけが響く。時刻は19時。この時間のオフィスに居るのは、いつもの様に私一人だけ。

溜まっていた仕事は、今取り掛かっているものが終われば全て片付く。終わらせてスッキリしたら、何年も前から書いて仕舞っておいた御守り代わりの退職届に今日の日付を書き足し、課長のデスクに出して帰る。

もう、身軽になりたい。

 

 

 

 

 

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10年前・・・22歳。

新卒の私は、右も左も分からないままこの会社に就職した。同期は4人で、女は私1人だった。 当時は女性の先輩が3人居て、その内の一人はかなり年配の方で、大ベテランだった。所謂、御局様だ。

その御局様が私の指導係だった。彼女から全てを教えてもらった・・・というよりは、厳しくされてきたと言う方が近い。それはもう、話し方や見た目などの細部まで色々と注意を受けてきた。

他の2人の先輩は優しかったが、決して守ってくれる訳ではなく、御局様とも波風を立てず上手くやっていければ良いという平和主義な人達だった。そして、その2人は20代後半と若かった事もあり、私が入社した1年後には次々と寿退社していった。

その後は、中途採用などで若い女性が入社してきた事もあったが、御局様の厳しさに耐えきれず、皆辞めていった。

暫くは入れ替わり立ち替わりを繰り返していたが、何時しか求人募集しなくなり、女性は御局様と私の2人だけになった。

私が一人立ちして仕事を任せられる様になってからも、御局様はひたすらあれこれと厳しく指導してきた。今で言うパワハラらしい言葉も散々言われた。

どれだけ辛くても、傷付いたとしても、私は泣かなかった。どうしても我慢出来ない時は、トイレに行くふりをして一人で泣いた。それだけは強く心に決めていた。

そんな負けん気の強い私の姿を見て、同期達は「お前って可愛げねぇよな。」と笑った。泣いたら泣いたで「女は泣けばいいと思っている。」 と言う癖に。無神経な言葉に傷付いた事もあったが、そんな事を平気で口にする様な彼等に屈したくはなかった。見返すためにも、私は此処に居る誰よりも仕事が出来る人間になりたかった。

そうやって、必死で会社に食らいついた20代前半だった。

 

私が入社して6年目。御局様は定年退職をした。彼女は誰よりも厳しかったし、在職中は決して好きにはなれなかったが、仕事だけはきっちりと私に叩き込んでくれた。「青木は此処に居る誰よりも仕事が早くて丁寧だった。」と、最後の最後に褒めてくれた。

私も単純なのかもしれないが、何だか今までが報われた様な気がした。嫌な事も沢山あったが、これからも頑張っていこうと思えた。

御局様の退職後、私の仕事は一気に増えた。きっと御局様も色んな仕事を押し付けられていたけれど、そこから私を守ってくれていたのだと、その時初めて知った。

どれだけ沢山の仕事量をこなせそうとも、私の処遇は変わらなかった。どれだけ頑張っても、蓋を開けてみれば出世するのは男ばかり。それを少しでも指摘しようものなら、「女が出世するなんて前例のない話だ。」と鼻で笑われた。女である私は、面倒でややこしい仕事を押し付けられるか、お茶汲みをさせられるかに留まった。

それでもいつかは・・・と会社にしがみついた20代後半だった。

 

そうこうしているうちに、あっという間に10年が経っていた。 今年で32歳。仕事に追われる様に日々を過ごしていたら、気付けば結婚もせず子供も居ない一人の生活だけが残った。

友達は結婚し、時間が合わず遊ぶ事も無くなり、疎遠になった。残業続きで呑みに出掛ける気力も無い。家と職場の往復で出逢いも無く、彼氏すらまともに出来ない。それに気付いていながらずっと目を逸らしていた。

そんな頃、私より10歳も若い新人が入社した。偶然にも、新卒で入社したあの頃の私と同じ年。彼女を成長させる為に、まだまだ私も奮闘しなければならないと希望を抱いた。

然し、歓迎会の席で彼女は私にだけコソッと言った。「ここだけの話、彼との結婚が決まったらすぐ辞めるつもりなんです。私、仕事が出来る女より、私生活が充実している女になりたいので。」と。悪気のない無邪気な笑顔で。

彼女は私に無いものばかり持っている。私には仕事しか無かったのに、彼女はそれ以外のものを全て持っている。勝手だけれど、何だか私の10年を否定された様な気がした。

私とは何もかも違いすぎる彼女に、一体何を指導すれば良いのだろう。日々悩み、考え、彼女なりに仕事が充実すればいいと思ってきたけれど、一人前になってテキパキと働く彼女の姿が、私には最後まで想像出来なかった。何より、彼女も最初からそんな事は望んでいなかっただろう。

 

この10年、私なりに頑張ってきたつもりだった。然し、一体誰が私の頑張りを認めてくれただろう。誰が私の味方になってくれただろう。 

「自分が自分を認めてあげればいい。」なんてよく言うけれど、そんなの綺麗事だ。誰だって少しは自分以外からも認められたい筈でしょう?

 

 

 

 

 

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「・・・終わった。」

私の仕事が、私の10年が、終わった。

印刷の開始ボタンをクリックする。私は退職届を右手に持ち、ふらつきながらもゆっくりとコピー機の方へ向かった。

 

その時、オフィスの扉がノックされ、控えめに扉が開いた。

「お疲れさまです。遅くに申し訳ありません。」

顔を見なくても、声を聞いただけで分かる。 

「・・・お疲れさまです。」

身体は正直なもので、胸は高鳴っている。然し、私はもう笑顔を作る事もせず、無表情で会釈をした。

「あ、もしかしてもうお仕事終わられましたか?」

「はい、たった今。」

「あぁ・・・ちょっと遅過ぎたかな。すみません。」

彼は困った様な笑顔を作り、ポリポリと頭を掻きながら此方へ歩いてくる。コピー機の隣にある課長のデスクに伝票を置きに来たようだ。

 

「青木さん・・・これ・・・何方のですか?」

課長のデスクに置かれた退職届を彼が指差す。先程、コピー機の方へ来るついでに私が置いたものだ。

「あぁ・・・私のです。もう辞めようと思って。あ、小鳥遊さんも昼間見たでしょう?今まで頑張ってきたつもりだったけれど、私は所詮、悪者にしかなれなかったんです。」

先程まで無表情に対応していた癖に、自分にとって辛い事を話す時だけは必死に笑顔を繕う私。こういう所が本当に可愛くない。

「そんな事・・・」

「あるんです!」

優しくて穏やかな彼の声に、強めの口調を被せた。私とした事が、珍しく声を荒らげてしまった。慣れない様な大きい声を出してしまった所為で、つい涙が溢れてきた。

その事に気付かれないよう、私は慌てて彼に背を向け、自席へ戻って荷物整理を始めた。

 

彼は遠慮気味に私の方へ近付いてくる。

「あの・・・こんな時にこんな話して良いのか分かりませんが・・・僕、実はずっと前から青木さんと話がしてみたかったんです。」

    嘘つき。今日まで来なかった癖に。

「でも・・・また来ますねって此方から言ったものの、毎日通うのも気持ち悪いだろうし迷惑かなとか色々考えて、時間を空けてしまって・・・。」

    もう遅い。私はずっと待っていたのに・・・。

そんな子供みたいな事を考えているなんて、意地でも気付かれたくない。

「でも・・・今思えば、そんな小さな事気にするんじゃなかったって後悔しています。」

不意に後ろから抱き締められる。

「あの・・・すみません。嫌だったら、振り払ってもらって大丈夫ですから。」

突然の事に驚き、身体が硬直して動けなかった。

「俺・・・青木さんの事、好きみたいです。」

更に驚く事を言われた所為で、流れていた涙が一気に引っ込んだ。先程まで自分の事を“僕”と言ってビジネスモードで話していた彼が、急に“俺”と言った事にもドキッとした。

「この会社の前の通りが帰り道なんですけど、定時過ぎに通りがかってもいつも明かりが付いていて・・・。何となく思ってたんです。きっと青木さんが居るんだろうなって。」

背中を丸めながら私を抱き締めている彼の顔が、耳の辺りにある。低くて優しい声が一番近くにあるのが何とも心地好くて、私は彼の話をただ黙って聴いている。

「あの日も本当は急ぎの用件なんて無かったんです。ただ青木さんに会いたかったから思い切って来てみただけで・・・。でも、そしたら本当に居て。なんか俺、青木さんの笑顔見たら嬉しくなっちゃって。あの日、仕事で嫌な事あったんですけど、疲れも吹き飛んだんです。」

再び、涙が溢れてきた。彼の心の中を覗けた事への嬉しさと、彼の事を信じられなかった自分自身への情けなさが混ざった様な涙だった。

「あ、あと青木さんが愚痴ってくれた時、凄く嬉しかったんですよ。なんて言うか・・・仕事が出来ていつも冷静で隙の無い女性が、あんなに感情丸出しで話してる姿がなんか可愛くて。仕事中のキリッとした青木さんも素敵だと思って見てたけど、そうじゃない青木さんの事ももっと知りたいなって思ったんです。」

彼は聞き上手な人だと思っていた。でも、こんな風にお喋りな一面もあるんだ。そんな風に私の事を見てくれていたのだと思うと、純粋に嬉しかった。

 

私を抱き締めている手をゆっくりと離し、その大きな手で私の身体を軽々と回転させた。

向かい合う2人。意外にも、彼の顔は真っ赤になっている。私の顔も同じ様に赤いのは、きっと彼のが伝染してしまった所為だと思い込もうとした。

「青木さん・・・もう一人で泣かないで。貴女は悪者なんかじゃない。多分、本当はきっと誰も悪者なんかじゃないんです。それでも・・・もし誰かが貴女を悪者にしたがるのなら、俺が貴女を守ります。」

ついに私は自分の都合の良い風に妄想してしまう位、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

頬を抓ってみる。しっかり痛い。パニックのあまり、漫画のヒロインがやりがちな行動を取ってしまった自分が恥ずかしい。

彼の気持ちはとても嬉しい。でも・・・

「小鳥遊さん・・・今おいくつですか?」

「え?えっと、26です。」

    やだ・・・6つも年下じゃない。

「私、32なんです。」

「はい。」

「かなり年上だし・・・美人でもスタイルが良い訳でも無いし、稼ぎが多い訳でも無いし、それどころか会社辞めるから暫くは無職になるし、年齢の事を考えると、この先必ず子供が産めるとも限らない。」

自分で言っていて哀しくなる。それでも、これが現実なのだ。

「それにひきかえ貴方はまだ若いし、見た目も性格も凄く素敵だし、これからまだまだ色んな女性と出逢えると思うの。私の事を好きだって言った事も、すぐに後悔すると思う。」

化粧が崩れてしまっているのが自分でも分かる。こんな姿を見られて恥ずかしい。

「本当の私を知ってガッカリすると思う。」

人前で泣くなんてどうかしている。こんなの今まで有り得なかったのに。

「私は、私は・・・」

言いかけて、突然視界が真っ暗になった。

彼の腕の中。私は今まで感じた事の無い位に強く抱き締められている。息が出来なくて凄く苦しい。その癖、何故だか幸福に満ち溢れている。このまま・・・息が出来ないまま死んでもいいと思えるくらい。

「そんな事ない、そんな事ないから・・・。」

彼は繰り返す。 私がずっと誰かに言って欲しかった言葉を。今まで他人に使ってばかりで、誰からも言って貰えなかった魔法の言葉。

 

彼は暫く抱き締めていた私の身体を離し、大きな両手で私の頬を包み、涙を拭う。

「青木さん、今凄く酷い顔してますよ。」

彼が笑う。それは、私を馬鹿にする様な顔とは程遠い、ただただ愛しい笑顔だった。

「見ないで・・・。」

私が恥ずかしがるのを見て、彼は更に笑う。

「ねぇ、青木さん。下の名前は?」

「・・・涼子です。」

「涼子さん、好きです。僕と付き合ってくれませんか?」

 

 

 

 

 

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私は、10年間勤めた会社を退職した。

退職届をデスクに置いた翌朝、珍しく課長が取り乱して私を呼び出し、「青木に辞められたら困る!」と何度も言ってくるのを見た時、少しだけ可哀想になった。

然し、私の心は変わらなかった。

課長が私に辞められると困るのは、自分の仕事が増えて面倒だから。そうやって私の存在を惜しむのも、最初だけだ。仕事なんて、代わりは幾らでもいる。きっと何処へ行ってもそんなもんなんだろう。必死でしがみつく程のものでは無かったのだと、やっと気付いた。

 

私の10年間、何だったのだろう。何かを必死に積み上げてきたつもりだったけれど、一体何を積み上げてきたのだろうか。

仕事は私に自信をくれたけれど、職場は私から自信を奪っていった。私の心は少しずつモザイクがかかった様に霞んでいき、何時しか自分でも見失ってしまう程だった。自分でも見えないのだから、他人から見られる筈が無いのは当然なのだと今なら思える。

今まで、上司や同僚、後輩までもが私の存在を馬鹿にしたり悪者にしていた様に感じていたけれど、きっと私自身も自分に対して同じ気持ちだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

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「涼子さん、おはよう。」

今、目の前には愛しい人が居て、此方に向かって優しく微笑んでくれている。

「おはよう。」

彼は、目に見える私だけでなく、目に見えない様な部分の私も含めて受け容れてくれた。だからこそ、私はもう一度自分自身を見つめ直したい。こうして彼を愛しているのと同じ位、自分の事も愛せる様に。

 

いつか、今まで見た事もない澄んだ景色を観に行こう。その時、彼が隣に居てくれたら幸せ。

 

モザイクの、その先へ・・・

 

 

 

モザイクの、その先へ ⑴

 

目の前で後輩が瞳を潤ませている。まるで仔犬の様なその姿を見ていると、簡単に怯みそうになる。それでも、私は必死に心を鬼にする。

    ・・・どうせ私は悪者なのだろうな。

こんな風に被害的な思考になってしまうのは、この会社に居る馬鹿な男達の所為だ。“男達”とは、どうせこの後に嫌でも登場してくるため、今は敢えて説明しない。

 

話は戻るが、私は後輩の指導係をしている。年齢が22歳と、私より10歳も若い女の子である。それはもうジェネレーションギャップが半端ない。考え方も話の内容も全くと言っていいほど噛み合わない。

然し、指導者となればそんな事は一切関係無いのだ。どんな相手でも、公平に、且つ冷静に指導しなければならない。

当たり前ではあるが、私は彼女に対して一方的に怒鳴ったり人格を否定するような事は決してしていない。万が一そんな事でもしようものなら、このご時世パワハラで訴えられてしまうだろう。

三者の前で叱らない。かと言って、密室では話をしない事。感情的になって“怒る”のでは無く、愛情を持って“叱る”。この他にも、心掛けている事が幾つも有る。

よく考え、慎重に言葉を選びながら接する。掛ける言葉をたった一度でも間違えれば命取りになる。現代社会から追放されない様に日々命懸けだ。

本当に、揚げ足取りが上手な時代になったものだ。こんな時代の中で指導しなければならない方の身にもなって欲しい。

そんな普段の努力も虚しく、私は“怖い先輩”。もう八方塞がりだ。

 

 

 

「また怒られちゃったの?大丈夫?」

「後輩ちゃんが可愛いからって、そんなに虐めなくてもいいのにね〜。」

「こわ〜い。」

話を終えた私が自席へ戻ると、必ずと言っていいほど後輩の彼女の元へ駆け寄る“男達”。異性の同僚や、上司だ。この様に、彼等は普段から私を馬鹿にし、面白可笑しくネタにして周囲の笑いを誘っている。

    一体、何が面白いのだろう。

彼等が私を嘲笑する声は、今や耳にこびり付いてしまった。それも、耳掻きをしてもギリギリ取れないような所に。おかげで自宅へ帰っても空耳が聞こえる始末だ。

然し、彼女も彼女。「私が悪いんです・・・。」なんて言葉にしながら、口元が一瞬ニヤついたのを私は見逃さなかった。男に優しくされて満更でもないのだろう。

上辺だけ、若しくは下心のある様な言葉に喜ぶのは勝手だが、私の言葉は何一つ伝わっていないのか・・・。それを思うと情けなく、急に全身が重くなった様に感じた。

 

「だからアイツは行き遅れるんだよな・・・。」

「嫌だ嫌だ・・・あんな怖い女。」

小声で言ったつもりだろうが、全て聞こえている。いや、彼等の事だからわざと聞こえる様に言っているのかもしれない。

    大人になっても子供のままか・・・。

この小さな世界では、指導をする私が“悪”で、簡単に涙を見せる彼女が“善”。そして、馬鹿な男達が“中立”である。その理不尽な構図が私の頭を過ぎる度、心の中は負の感情がモヤモヤと渦巻いていく。

頭がおかしくなりそうだ。そもそも、私だってやりたくて指導係をしている訳じゃないのよ。気ままに自分の仕事をこなすだけの方が遥かに楽なのだから・・・。

「異性が指導すれば、パワハラモラハラ、下手したらセクハラにもなり兼ねない。」と謎の言い訳をして逃げた上司や同僚。その皺寄せが全て私に来ているのだ。

    いいよなぁ・・・男は。

甘い言葉を囁くのなんて簡単だ。然し、結局それはただの自己満足ではないだろうか。此処で働く男達は、何の犠牲も払わず、仕事の質が悪かろうと関係無く、入社した順番に出世していく。面倒な仕事は全て私に押し付けて。女である私に、出世の順番は永遠に回ってこない。

    ただ私が女と言うだけで。

本当に腹が立つ。図体や態度がデカいだけの阿呆丸出しなあの背中たちを、目の前のペン立てに入っているこの鋭利なハサミで滅多刺しにしてやりたくなる時がある。

然し私も馬鹿じゃない。理性も保てない様ならこんな会社とっくに辞めているし、あんな阿呆共のために自分の価値をこれ以上下げるなんて真っ平御免だ。

    さて、仕事仕事・・・。

誰にも聞こえない位の小さな溜め息を吐き、力強くマウスを握り締める。

 

今日も今日とて仕事が溜まっている。私はこのオフィスに居る誰よりも沢山の仕事を片付けなければならない。

本当に理不尽だ。然し、どんな理不尽も飲み込まなくては、とてもじゃないけどこの席には座って居られない。若い子の様に主張したり、戦う事も出来ない。そんなエネルギーさえも残ってはいないのだ。

この小さな世界の住人は、目に見えるものしか信じない。私が何を感じて何を思おうが、誰も興味が無い。私さえ悪者になっていれば、全てが丸く収まる。そんなクソみたいな世界だ。

 

ふと、考える時がある。私も人前で簡単に泣ける様な女だったら人生変わっていたのだろうか、と・・・。

 

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                モザイクの、その先へ

 

 

 

 

 

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「課長、店の予約18時です!急ぎましょう!」

「あぁ、そうだったな。後輩ちゃんも行く?」

「私はちょっと・・・。」

「あれれ、彼氏〜?」

「やだぁ。それセクハラですよぉー!」

「やべ、訴えられちゃう?」

「急がないと遅れちゃいますよぉ!お疲れさまでしたぁ〜!」

「はいは〜い!お疲れさ〜ん!」

こういう中身の無い会話ほど大声で喋る人間が多く、私は耳をもいでしまいたくなるほど参っている。

時刻は17時半。定時は30分過ぎている。上司や同僚は、呑気に酒を飲むために退社する。私は、そんな彼等から押し付けられた仕事が終わらず、未だパソコンに向かっている。毎日の様にサービス残業だ。

 

オフィスに取り残された後輩が、ゆっくりと私の方へやって来る気配を感じる。

「あの、先輩・・・今日はごめんなさい。私、本当に覚えが悪くて・・・。」

「次から気を付けてくれたらいいからね。」

「はい!じゃあ、お先失礼します!お疲れさまでしたぁ!」

「お疲れさま。」

先程まで萎らしい顔をしていたのに、私が少し笑顔を見せれば、簡単に晴れ晴れとした顔に戻る。単純だ。然し、それが可愛らしい所なのだろう。私は、持ち合わせていない。

 

彼女は足早に帰って行った。そしてオフィスに一人、取り残される私。

窓の外を眺める。つい先程まで朱の一色が広がっていた筈。それが今や、朱、紫、紺という風にグラデーションになっている。

    だんだんと日が短くなってきたのだな・・・。

何だか無性に自分の事を惨めに感じた。

    ・・・“私”って何なんだろう。

 

 

 

思い返せば、幼い頃からずっとそうだった。他人に対して「大丈夫だよ」、「そんな事ないよ」という様な慰めの言葉を、今まで何千回、何万回と使ってきただろう。

自分の至らない所を他人から指摘されれば、母はいつも「お母さんの所為だね」と言って私に謝った。私はその度に、「そんな事ないよ」と母を慰めた。私が悪いのだから、と自分を貶めてまで。

そうすると、あからさまにホッとした様な顔をする。母は、そういった慰めの言葉に守られたいのだろうなと幼心に感じた。更には私の口からその言葉が出てくるのを待っている様にも見えた。

今日の後輩も、あの頃の母と同じ。「自分が悪い」と口では言いながら、周囲から「そんな事ないよ」と言ってもらうのを待っている。

何もそれに対して悪いなどとは思っていない。自分を肯定してもらったり守られたいと思うのは、人間誰しもきっと同じなのだから。

私だってそういう気持ちは持っている。然し、私も皆と同じである筈なのに、誰も私にそんな言葉を掛けてくれない。誰も私に構わない。私はいつも、言う役止まりだ。

何の為かも解らないのに、私は今でも誰かの期待に答えようとし続けている。

 

 

 

時刻は18時半。

いけない。考え事をした所為で手が止まっていた。少しでも早く帰れる様に急がなくては・・・。

再びパソコンと睨めっこをする。

    あと少し・・・あと少しだ・・・頑張れ私・・・。

だんだんと画面が滲み、視界が揺れて見えなくなっていく。勝手に溢れてくる涙。

「何で私ばっかり・・・。」

小さく呟いた瞬間、オフィスの扉がノックされ、ゆっくりと開いた。

 

「お疲れさまです・・・すみません、こんな時間に。」

「あぁ、山本製紙の・・・。お疲れさまです。」

泣いているのを気付かれないよう、私は急いで涙を拭いた。咳払いをし、震える声を抑えて笑顔を繕いながら、椅子から立ち上がる。

「定時過ぎているのに・・・すみません。」

彼は取引先の営業の小鳥遊さん。普段は課長の無駄話に付き合わされているため、社員とはほぼ接点がない。然し、日頃からオフィスに居る全員に笑顔で挨拶をしてくれる、とても感じの良い青年。多分、年齢は20代半ば位だろうか。私よりずっと若い事だけは確かで、彼はいつも溌剌としている。

    いつもは昼間に顔を出すのに。どうしたのだろう。

 

「青木さん、残業中でしたよね。お忙しいところ申し訳ありません。今日は別件が長引いてしまって、いつもの時間に伺えなくて。流石に皆さんお帰りかとは思ったんですが、通りがかったら明かりが付いてたので・・・まだ何方かいらっしゃるのかな、と思いまして。」

「そうなんですね。遅くまでお疲れさまです。生憎、課長は退社しておりまして・・・。用件は私が伺っても宜しいですか?」

私の名前を覚えてくれている。流石は営業マンだな、と感心しつつ、密かに嬉しくなってしまった。

「いやいや、寧ろ青木さんが居て下さって良かったです。」

私は、「此方で宜しければお掛けください。」と言いながら、自分の隣の席の椅子を指差す。彼は小走りで此方へ近付き、会釈をしながらゆっくりと腰掛けた。それを確認した後、私も自分の椅子に腰掛ける。

2人の目線が同じ位の高さになると、彼は私に向かってニコリと笑いかけた。爽やかな笑顔が眩しい。なんの嫌味もなく、本当に感じの良い人。彼はきっと自分の会社の人達からも好かれているのだろうな。

 

「青木さんが一番把握されているから、本当は普段から山田課長じゃなくて青木さんと話したいんですよね。・・・あ、これ皆さんには内緒ですよ。」

口角を上げた薄い唇の前に、長い人差し指を立てる彼。

「いやいや、とんでもないです。私なんて・・・。」

彼の爽やかなオーラに押され、私の方は可愛くない性格が全面に出ている事に自分でも気付いている。

だって、こんな素敵な人に褒められてもどう返したらいいかなんて分からない。パニックに陥った結果、ただただ謙遜した。結局こうやって相手の厚意を無駄にしてしまうんだよな。然し、この面倒な性格は長年染み付いているものなので咄嗟にはどうする事も出来ないのだ。

 

「青木さんって、いつも誰よりも多い仕事量を迅速にこなされてますよね。それでいて、新人の方への指導も丁寧ですし、僕達みたいな他社の人間にも笑顔で対応して下さいますし。」

もはや褒め殺しだ。恥ずかしすぎて身体中が熱い。いつも貶されながら仕事をしているため、こういう時どう返すのが正解なのか本当に分からない。

「小鳥遊さんはそう言ってくださいますけど、この会社の人達は私の事そんな風に思っていませんよ。」

「そうなんですか?」

「そうなんです。今日だってーーー・・・」

取引先の、而も年下の男性を目の前にして、私は何故自分の話を始めてしまっているのだろう。自分に呆れつつも、口は止まってくれない。よっぽど溜まっていたのだろうか。

彼は嫌な顔一つせず、相槌を打ちながら話を聞いてくれている。こんな私の話を・・・。

 

「それは大変でしたね・・・。」

んー・・・と唸りながら眉間に皺を寄せて腕を組み、真剣に考えてくれている彼の姿を見て、私は我に返った。

「すみません・・・。取引先の方にこんな話・・・。」

他人を上手く褒める事の出来るような素敵な人を前にして、愚痴ばかり言ってしまう醜い自身を恥じた。後ろめたさから彼の顔が見られず、俯く。

    ついさっき褒めてくれたばかりなのに・・・期待外れな奴だと幻滅されたかな・・・。

「いえ、普段は冷静に見える青木さんが、こんなに話して下さって嬉しいですよ。こういうのは人に話すのが一番です。僕で良ければまた聞かせて下さいね。」

予想外の言葉に、私は驚いて顔を上げた。彼は私の瞳を真っ直ぐ見つめて微笑んでいる。この笑顔は、私を馬鹿にする様な同僚達の笑い方とは全く違う。心がじんわりと温かくなるのを感じた。

「ありがとう・・・ございます。」

先程までボキボキに折れてしまっていた筈の私の心。その破片たちはまるで砂鉄が磁石に引き寄せられる様に集まり、綺麗にくっついていく。彼の笑顔は、魔法みたいだ。

 

 

 

その後は、仕事の用件を聞いたり雑談をしたりしながら、取り敢えずひと段落着いた。

時刻は19時半。また今日も帰るのが遅くなってしまったが、彼に話を聞いてもらったおかげで嫌な出来事がチャラになった様な気がする。穏やかな心を取り戻せたので、寧ろプラスかもしれない。愚痴を言ってしまった事に対しての恥ずかしさも残るが、それでも彼と初めて話せて嬉しかった方が大きい。

 

「あ、もうこんな時間。すみません、つい長居してしまいました。」

「いえ、私の方こそ、話を聞いてもらって・・・。」

「あの・・・青木さん、もう退社されますか?」

「はい。」

もう遅いので駅までお送りしますよ、と優しく彼は言ってくれたが、他に寄る所があるので大丈夫です、と言って断った。

本当は何処かに寄る元気など無いし、もう少し彼と居たかったのだが、こんな年上の女と並んで歩く彼が不憫に感じたのと、私自身気後れしてしまったのだ。

「では、お気をつけてお帰りください。」

「ありがとうございます。小鳥遊さんも。」

「はい、ありがとうございます。」

彼は丁寧にお辞儀をして、オフィスの扉をそっと閉めた。

 

彼の姿が完全に見えなくなった後、私は自分の胸に手を当ててみた。心拍数が上がっていて、心臓の辺りが痛い程だ。

“話してくれて嬉しいです”

“僕で良ければまた聞かせて下さい”

“もう遅いので駅までお送りしますよ”

こんな私が女性扱いされている。而も、あんな素敵な男性に。この会社に入社して10年。プライベートですら男性からこんなに優しくされた事は一度も無かった。こんな一時を過ごせるなんて、夢にも思わなかった。

先程まで一人で流していた悔し涙が嘘の様に、今はかなり仕事のモチベーションが上がっている。

「恐るべし、爽やか男子・・・。」

デスク周りの片付けをしながら、つい独り言が零れてしまう位には浮かれていた。

片付けが終わり、携帯電話で電車の時刻表を確認する。ちょうどいい時間に電車が来る事を知り、私は急いでオフィスの扉に鍵を掛けて飛び出した。

心が踊っている所為なのか、珍しく走っていた。まるで自分の身体ではないかの様に、足取りが軽やかだった。

 

 

 

 

 

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トゥルナの独り言②

私は仕事が好きでした。

16歳のアルバイト時代から、病気になるまでの正社員時代を全て含め、私の半生を一言で表すとすれば、「仕事」と答えると思います。

私にとって「働く」という事は、将来役に立つか定かでない事を学校で学ぶより、遥かに充実感があるものでした。

きっかけは、父の存在でした。 父が仕事嫌いの人間だったからです。

私は、仕事を嫌う事を間違いだとは思っていません。然し、何か少しでも嫌な事があれば、人と揉めて辞めてくる様な責任感の無い父が嫌いでした。家では自分が王様で、母を召使いの様に扱う父が嫌いでした。自分が優先されないと気が済まない子どもの様な父が嫌いでした。実の子どもに興味も愛情も薄い父が嫌いでした。大きな物音を立てて生活し、怒鳴り散らす様に大声で喋り、大きな態度で周りの人間を萎縮させ、支配しようとする様な父が嫌いでした。

親に向かってこんな事を思ってしまう娘は酷いのかもしれません。それでも、私は父が嫌いでした。父の様にはなりたくない。そうなる位なら、死んだ方がマシとさえ思いました。

そんな子どもの頃の私に、大人たちは「どんな人間にも必ず一つは良い所があるものだ」と言いました。私はそれを信じ、此方から歩み寄ろうとした事もありましたが、肝心の父の方は、私からいつも目を逸らしていました。

結局、父を好きになれる様な所は見つけられませんでした。もし、何が何でも良い所を挙げろと言われたなら、反面教師になってくれた事・・・それだけです。

勿論、父だけが悪いとは言いません。私も娘として至らない所が沢山あったのだと思います。それに対しては、こんな娘で申し訳なかったと思っています。

この話をすれば、人から「寂しかったのね」と言われる事があります。そう言われれば、それまでなのかもしれません。けれど私の心の中は、その一言では片付けられない程の想いがありました。

私は、父の生きてきた人生からは出来るだけ遠い場所で生きようとしています。現在の病気によって自らの考え方や生活が大きく変化したけれど、残念な事にこれだけは今でも揺るぎなく私の中に在り続けています。

それでも、何処まで行っても「親子」という現実は変えられず、私の身体には父の遺伝子が受け継がれています。本当に申し訳ない事ですが、自分の中に少しでも父と似た部分が見つかれば、生きる事が余計に苦しく、絶望を感じてしまうのです。

 

 

 

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私の家庭は決して裕福ではありませんでした。

食べていくだけで精一杯なのだろうと感じていて、私はいつも密かにお金の心配をする様な子どもでした。その為、少しでも母や兄弟達に苦労をかけない様に、早く大人になって働きたかったのです。

子どもなりにやりたい事もあったけれど、それを打ち明ける事は出来ませんでした。両親や担任の先生には、金銭面以外の理由を適当に作り上げて説得し、進学はしない事を押し通しました。

例え将来その選択を後悔する日が来たとしても、決して他人の所為にはしない。そう自分に固く誓いました。父の様に言い訳ばかりする人間にはなりたくなかったからです。当時の私は、誰にも助けを求める事はせず、全て自分で選んで決めました。

 

念願の社会人になると、大学に進学してキャンパスライフを楽しむ同級生たちを尻目に、夢中で働きました。

思い返せば、当時は心の中の痛い部分を誰かに触れられるのを異常に怖がっていたのだと思います。もし誰かが触れようものなら、その手に噛み付きそうな程尖っていて、自分が壊れてしまわない様に必死でした。私は、無意識のうちに世間に対して嫉妬や劣等感を抱いていたのかもしれません。

そんなに生き急ぐ必要はなかったのかもしれません。それでも、当時の私はそんな風にしか生きられず、傷だらけになっても立ち向かうのが当たり前だと思っていました。

 

働くとは、本当に大変な事でした。どんな職業を選ぼうと、現実はきっとどれも過酷なものなのでしょう。

何処に身を置こうとも当然好きな人も苦手な人も居て、一番嫌だったのは、自分の事は棚に上げて口うるさく言う人や、自分の機嫌に左右されて他人に意地悪をする人、嫌いな誰かを陥れようと陰湿に企んでいる様な人でした。

それでも、仕事を嫌いにはなれませんでした。自分が働く事によって、時には人の為にもなるのだと実感する時、純粋に幸せを感じられたからです。

私の身体は、働く事で溢れていました。眠る時も、休みの日でさえも考えていました。周囲の人はそれを心配したけれど、私は「頑張っている自分」が好きだったし、そうする事で少しでも父の存在を遠ざける事が出来る様な気がして嬉しかったのです。

 

 

 

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19歳の時、大切に思える人が出来ました。

仕事に対する責任感が人一倍あり、周囲への思いやりがあり、仕事が出来る人でした。彼を好きになったのは、単純に尊敬の気持ちがあったのと、父とは違うと感じられたからです。

然し、年月が経つにつれてお互いに良くない方へと堕ちていきました。共に過ごしてみると、彼は私の父と似た部分が多くある人でした。そういった言動が目に付くと、私はそれが煩わく感じてしまう様になりました。

最初はお互いを尊重し合える関係を望んでいた筈なのに、年下と言うだけで子供扱いされ、常に意見は否定され、行動を制限されたり束縛され、疑われ、私が他の誰よりも劣っていると蔑まれる様になりました。それは彼の思惑通りなのか、私は日々自信を失っていきました。

私も私で、本当に強情で可愛げの無い女でした。彼の思考や言動が理解出来ず、対等に見てもらえない事に憤り、感情的に反発してしまう事も数え切れない程にありました。

言うまでもなく、それは争いの火種となるもので、酷い時は相手に殴られたり、此方が相手に物を投げつけてしまう様な事もありました。

彼と過ごしたのはとても長い年月でしたが、思い返せば、楽しい思い出より争った思い出の方が多いかもしれません。

勿論、好きな所も沢山ありました。だからこそ、文句を言い合いながらも離れられず、長年一緒に居たのだと思います。

一方で、どんどん自分を見失い、醜くなっていく様が自分自身でも恐ろしく感じていきました。そして、幾ら彼に対して愛情はあっても、二人の生活は居心地の悪い場所でしかなくなっていきました。

実の父とでさえ上手く付き合っていけないのだから、他人の男性となんて上手く付き合っていける筈ないのだな。私はとうとう自分を嫌いになりました。

 

 

 

気付けば、26歳。

一人になった時、多少の寂しさはありました。然しそれは誰と一緒に居ても同じ事であったので、干渉される事も無いと思えば精神的負担も減りました。自由になれた事への解放感も徐々に湧き上がり、改めて仕事への意欲が増しました。

周囲がどう思うかは別として、私にとっては一人になってから病気になるまでの数年間が一番充実していたのです。

 

 

 

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ある時期を境に、体重がみるみる減少していきました。ご飯は食べているのに・・・。元々痩せ型でない私にとっては、勝手に痩せてくれるなんて大歓迎でしたが、今ならそれが病気になる前兆だったのだと理解しています。

それから体調を崩すまで、さほど時間は掛かりませんでした。仕事を終えても常に興奮状態、心臓の音が煩くて落ち着く事が出来ず、眠れない日々が続きました。朝の支度をしている最中に、理由の解らない涙が溢れる事もありました。

そこで気付ければ引き返せたのかもしれないけれど、当時は“まだやれる”、“もっと頑張らなくては”、と鞭を打ち続け、自分を過信してしまいました。

在職中も病院に行ってみた事があります。然しいざ初対面の人を前にすると、自分の事を知りもしない人に話をするのも気が引けてしまいました。兎に角眠りたいという事だけを伝え、睡眠導入剤を処方してもらうだけでした。それによって一時の不眠は解消されたため、勝手な自己判断により再診してもらう事はありませんでした。

案の定、薬が切れると再び眠れなくなりましたが、それと反比例して身体は元気でよく動きました。眠れないという理由だけで、病院受診の為に仕事の休みを貰う事も申し訳なく、周りに心配を掛けない様に隠していました。

そのうち、悪夢を見たり、幻聴や幻覚なども現れました。朝の支度や身嗜みに気を使う事が辛くなり、すっぴんをマスクで隠して出勤する日が続きました。やがて布団から出られなくなり、カーテンすら開けられなくなり、あっという間に動けなくなりました。

暗い部屋の中で一人ぼっち。まるで長い金縛りにでもあっている様でした。その時、大袈裟でも何でもなく「私の人生は終わった」と感じました。

身体が動けなくなっても頭は余計な働きをし続けて、自分を責める言葉ばかりを量産していきました。そして、それが私の心を哀しく蝕んでいくのです。

一人で居るのが怖い。でも、誰にも会いたくない。皆がこんな私の姿を見れば、きっと怠け者だと思うだろう。怖くて堪りませんでした。

通話は勿論、携帯電話を見る事さえ恐ろしくて震えてしまい、いっそ壊してやろうかと何度も思いました。上司に休みの連絡を入れるのも億劫でしたが、社会人としてせめて休みの連絡位しなければ・・・と、それがグルグルと頭の中を駆け回り、まるで何か恐ろしいものから追われている様な感覚でした。

普段なら難なく行動出来るような事でも、当時の私にとっては、一つ一つの試練が宇宙まで伸び続ける壁の様に高く感じました。何をするにも、果てしなく時間が掛かる。そんな自分に苛立って涙が溢れる。

やっとの思いで職場に連絡を入れても、涙が溢れるばかりで言葉にする事が出来ない。そんな状況を上司が察してくれて、「今まで頑張りすぎたんだよ。仕事の事は何も気にせず、ゆっくり休みなさい。」と仰ってくれました。本来、そんな風に優しい言葉を掛けて貰えるのは物凄く有難い事だと解っています。人に恵まれている私は何て幸せ者なのだろうと今なら思えても、当時はそれすら私の首を締めている様に感じました。

想いは心の底の方から止めどなく溢れ出してくるのに、形にならず、言葉にさえならず、誰にも伝わらない。きっとその時は誰が私に優しかろうと冷たかろうと、周りに誰が居ようが居まいが、哀しい事に全てが無意味だったのだと思います。何も見えないし、聴こえない。暗いトンネルの中に置き去りにされたみたいに。

仕事を休んだとしても、頭や心は休めない。食べる事が大好きだったのに食欲も無くなり、入浴も、歯磨きも、掃除も、洗濯も、ゴミ捨ても、何一つ出来ない。私の心に比例する様に、部屋も汚れていく。眠りたいのに眠れない。眠れたかと思えば、また悪夢を見る。「誰も助けてくれないよ」と幼い女の子の声が聴こえる。いっそ殺して、と懇願しながら泣きました。

今までの私は、全て自分で考えて選んで進んできたし、自分なりに頑張ってきた筈でした。それなのに、それを努力とも思えなくなり、“なりたい自分”から一番遠い姿になりました。

 

 

 

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胸騒ぎがしたと言って、たまたま母が私の元へやってきました。荒れきった部屋と変わり果てた私の姿を見た時、愕然としたそうです。今となっては笑顔で当時の事を話す母だけれど、きっと傷付いたと思います。

布団の中に篭っている私は、部屋に入ってくる母の気配を感じ、こんな風になってしまった自分自身を何度も責めては泣きました。

休職が決まり、実家へ帰る事になりました。その為には、バスや新幹線に乗らなければならなくて、それがまた辛かったのです。思うように動けない、そして誰とも接触したくないのに、酷い姿の私が他人の目に触れる事になるという被害妄想からでした。私の事を考え、必死に行動してくれている母に対しても、恨みの様な感情を抱いてしまいました。

而も、間の悪い事にイベントシーズンで、駅にはカップルや子連れの家族、友人とはしゃぐ若者達の人混み・・・。私は少しでも浮かれた音が聴こえない様に耳栓をして、何も見ない様に自身の足元だけを見つめました。幼い子どもの様に母に手を引かれて・・・。本当に情けなく、消えてしまいたかった。地面にボロボロ涙を溢し、新幹線に乗るまでの長い道のりを俯きながら歩きました。

新幹線の中では、窓側の席から外の景色を眺めていたけれど、何も感じられず、全てが一つの線になっていく様に見えました。トンネルに入ると、暗くなった窓ガラスに映る自分の顔。マスクで隠していても、泣き腫らした重たい瞼や目の下の立派な隈は隠しきれない。この醜い顔の持ち主は、「頑張れなくて人に迷惑をかけた、情けなくて弱い私」。仕事が好きで溌剌とした私、冗談を言って思い切り笑う私、人前では決して泣かない私・・・。そんな私は、もう何処にも居ない。枯れる事無く涙は溢れる。誰も私の事なんて見てはいないのに、まるで自分が世間の晒し者にされてしまった様な気分でした。

 

 

 

実家に帰って一度横になると、もうなかなか起き上がれず、殆ど一日中寝たきりの状態でした。誰とも言葉を交わせない。家族の問い掛けにも答える事が出来ない。誰に何を強要される訳でもないのに、勝手に恐れては涙が溢れる。あれだけ好きだったテレビや音楽も、全て雑音に聞こえてしまう。誰とも関わりたくない。無音のイヤフォンを付け、音楽を聴いている振りをして暗い部屋に閉じこもっていました。

病院受診も、私は子どもの様に俯いているだけでした。その所為で、母が代理で私の状態を説明してくれました。全て私のためにしてくれている事なのに、「私の本心なんて解らないくせに」と思ってしまいました。

上司も同僚も後輩も友人も家族も皆、もうこんな役立たずの私なんかに期待しない。呆れているだろうな。嫌いになっただろうな。離れてしまうだろうな。でも、もういいや。どうでもいい。私なんか最初から存在していなかったかの様に皆の記憶の中から抹消して欲しい。そうすれば楽に死ねる。 私は、心の中で何度も私を殺しました。

病気になった事で、本当に離れていってしまった人も居ました。覚悟していた癖に、諦めていた癖に、それでも傷付いてしまう自分が嫌でした。

それでも、母や兄弟たちは諦めずに私を愛してくれました。執拗くて嫌になる位に。私だって、出来る事なら治したい。でも、自分の身体なのに、言う事を聞いてくれないんだよ。自分ではどうしようも出来ない。どうしようも出来ないから、疑いながらも処方された薬を服用し、眠りにつく事にしました。

明くる日、目が覚めた事に絶望し、ただ息をするだけで日が暮れる。起きているのに何も出来ない。その事に強い罪悪感を抱く。再び夜になり、薬を服用して眠りにつく・・・。長い間、その繰り返しでした。

症状が180度急変し、今度は眠り過ぎてしまったり、食欲を抑えられなくなる時期もやって来ました。それはそれでまた別の罪悪感が襲ってくるのです。

そんな事を繰り返す日々。私は本当に少しずつしか進めなくなりました。進んだと思った矢先、その何倍も後退することも珍しくありませんでした。沢山絶望して、泣いて、私はとことん自分の弱さを思い知りました。

今でも、病気になる前の自分にはもう二度と戻れないのだと実感する瞬間が幾度となく訪れ、その度に、如何してこんなになるまで見て見ぬふりをしたのかと悔やんでしまいます。 自分で自分を追い込み、虐めて、傷付けてしまった結果、失ってしまったものが沢山ある。家族にも、散々心配をかけてしまいました。

病気によって得たものや、気付けた事もあるのかもしれません。けれど、あまりにも犠牲が多過ぎました。「病気になって良かった」なんて美しい事は、私はこの先も言えないかもしれません。

 

 

 

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「あの頃の私」と「今の私」が、背中をくっ付け合いながら立っている所をよく夢に見ます。両者は同じ道を進む事が出来ないから、此処で別れなければなりません。

「あの頃の私」は、何事も全速力で駆け抜ける私でした。向かい風で飛んでくる障害物を跳ね除け、時にはそれらが当たって傷だらけになろうとも、誰かを守れる様に強く在ろうとした私。自分の弱さは見ない振りをして。

「今の私」は、些細な障害物にさえ躓き、簡単に転けてしまう様な私です。歩ける様になるまで休憩しなければなりません。休憩しながら後ろを振り返り、反対の方へ走っていくあの頃の私の背中を見ると、やっぱりまた少し羨んでしまうのです。

色んな想いが巡るけれど、それでもまた“自分にとっての前”を向いて歩き出します。本当に、驚く程ゆっくりと。それが、これからの私です。

私はきっとこの先も仕事が好きなのだと思います。それは変われないだろうし、変わらなくてもいいとも思います。けれど、以前と変わらなければならない事は、“仕事をするために生きる私”ではなく、“生きるために仕事をする私”になる事です。それだけは、忘れないでいたいのです。

どんな形でも、この先も歩き続けなければならないし、若しかしたら更に辛い事が待っているのかもしれないと想像すると、恐ろしくて震えてしまいそうです。然し、もう強がったりせずに思い切り恐がって泣いてやる位の気持ちでいれたらいいなと思います。沢山泣いた後に、少しだけでも笑える様に。

今、私の“なりたい自分”は、自分を赦し、愛せる自分になる事です。

トゥルナの独り言

私は父が嫌いです。人間の中で一番憎悪を抱く位には嫌っています。

彼に対して“父”という固有名詞を使うのも、本当は鳥肌が立ってしまう程です。然し、事情の知らない他人に彼の話をする時には、仕方が無いので父と呼んでいます。

 

物心ついた頃から、私にとって父は負の存在でしかありませんでした。気に入らない事があれば大声で怒鳴り散らすのは当たり前で、それが食事中であれば、箸や茶碗などの物が飛んでくる事も屡々でした。食事中はまるで葬式の様で、家族で楽しく会話をしながら食事をした記憶などありません。

子どもの頃は色んな所へ連れて行ってくれたりもしたけれど、父の機嫌を損ねない様に皆で気を遣わなければならないので、正直言って全く楽しさは感じられませんでした。

また、此方は何も悪い事をしていなくても、人混みや待ち時間が長い場所で必ずと言っていいほど機嫌が悪くなるのです。

私はそういった当時の記憶が強く根付いているため、今でも外に遊びに出掛けるのが(人に気を遣わなければならないという潜在意識があり)億劫で、どうも得意になれません。

 

父が仕事から帰ってくると、家の中の空気は一気に張り詰めました。その不穏な空気は、もはや目に見えるのではないかと思われるほど最悪なものでありました。

男兄弟たちは、そんな父の事を何処か恐れている様に見えました。反抗している所など、見た事がありません。

私は女だからなのか、父が怖いと言うよりは半ば呆れている様な感情に近かったのです。兄弟たちは父からいつも目を逸らしていたけれど、私は父を睨み付けていました。

 

父は、母や子どもである私達に向かって、「誰が養ってやってると思ってるんだ」、「父親に向かってその口の聞き方は何だ」という代表的なクズ台詞をよく使っていました。私は、その言葉の意味が全く理解出来ず、ただただうんざりしていました。

私は一度も養って欲しいなどと頼んではいないし、この人が父親で無ければ良かったと嘆く事はあっても、父親になって欲しいと懇願した覚えもありません。

「恩着せがましい」とは、まさにこの人の為にある言葉なのだと思いました。

 

確かに、「働く」という事は簡単ではなく、とても尊い事であると思います。自らも社会人になって働き出すと、それは身に染みて実感しました。然し、労働条件の下で働いている限りは、必ず「休み」もあるのです。

一方の母はどうだったでしょう。父の収入だけでは到底家族を養えない為、昼間はほぼ毎日の様にパートへ行き、夕方に帰ってくると、果てしない家事の山。その上、子育ては「休み」もないのです。

二人で始めた夫婦で、二人から生まれた子ども達の筈なのに、子育てもろくに参加せず、子育てに一人奮闘する母に対して感謝を述べるどころか、召使いの様に扱い、蔑み、偉そうな口を叩くのです。

私は、そんな父が嫌いです。

偉そうに言う割に大した収入もなく、真面目に働いてきた訳でもなく、色んな面倒臭い事から逃げてばかりの人生。

私は、そんな父が嫌いです。

全て、自分で選んできた筈の人生。自分が「幸せにしたい」と思ったから母と結婚し、私達を世に生み出したのに。

それなのに、何故そんなに恩着せがましい言葉ばかり出てくるのですか。その真意を私は知りたいのです。

妻や子どもから敬われたかったのなら、自分の選んだ人生に言い訳をしないで欲しかったのです。貴方が幼稚な台詞を吐く度に、私は情けなくなり、生まれてきた事を後悔してしまいます。

私は、結婚に対して憧れよりも恐怖が勝っています。そして、子どもを産む事も。本当は願っている事なのに、私と同じ様な人間を増やしてしまうかもしれないと怖いのです。

私は、父が嫌いです。そして、私自身の事も。

迷子になった背黒鴎

 

17の秋、ただの日曜日。

アルバイトの休憩時、店から割と近い公園のベンチに腰掛け、スーパーで購入したばかりのサンドイッチとブラックコーヒーを胃に流し込み、背もたれにゆったりと寄り掛かったまま煙草に火を付けた。

私はきっとこれからもこのチンケな田舎町で、未成年の癖にこうして生意気に煙草を燻らせながら、いつの間にか歳を取っていくんだろう。

溜め息と共に煙を吐いた。

 


天気も良いし、時間が来るまで昼寝でもしようかと考えていた頃、見知らぬ男が私の右隣にゆっくりと座った。20代半ば位だろうか。いや、童顔な顔立ちのため、若しかしたら推測する年齢より上かもしれない。

ていうか・・・何故わざわざ私の隣に?他にもベンチは空いているのに。怖。不審者だろうか。

吸いかけの煙草を咥えたまま、携帯電話を右手、スーパーのビニール袋を左手に持ち、さり気なく席を立とうと試みたのだが、それに気付いたのか、男はすかさず声を掛けてきた。

「お姉さん、これから遊びに行かない?」

耳を疑った。

この男は馬鹿なのだろうか。

私の全身を見れば、何処かの飲食店の制服を着ているということくらい一目瞭然だ。白シャツに黒パンツならまだしも、コックのようなデザインの服を堂々と着ているのだぞ。もし、これを私服だと捉えられているならば此方も癪だし、百歩譲ってこれが私服だったとして、そんな変な女をナンパするなんて、やっぱり変な男だと思った。

 


問い掛けが聞こえなかった振りをして、男の座っている右側は決して見ないように煙を吐く。煙草を持つ手が微かに震えている。

休憩時間よ、早く終われ・・・。

 


「お姉さんさぁ、今幸せ?」

男は無視されても諦めず、話題を変えて私に問い掛ける。空を仰ぎながら。

「どう・・・っすかねぇ。」

一点を見つめたまま棒読みで答える私の横顔を見た男は、「え〜幸せじゃないの〜?」と言って笑った。

「今日は空も青くて、こうして伸び伸びと煙草も吸えて、平和な日曜日なんだけどねぇ。」

男は再び空を仰ぎ、そして目を瞑った。その男の横顔を、つい見つめた。然し、私の表情は立派な呆れ顔。口は半開き、目は出来る限り細めて。

 


右の人差し指と中指に挟んでいた煙草の灰が地面に落ち、我に返る。殆ど吸えなかった勿体無い煙草。持ち手がかなり短くなっている。急いで火を消し、携帯灰皿にそれを入れる。

「じゃ、私はそろそろ・・・。」

やっとの思いで席を立ったが、男はそんなことはお構い無しで続ける。

「平和って・・・“何も無い”ってのはさ、幸福な筈なのにね。それでも多くの人々は、いつも何かを欲しがる。そして、目に見えない何かに縛られて、苦しそうに生きてる。」

男は、不思議なオーラを持っている。私はこの男のことを不審に思っている筈なのに、そう言いながらもこうして話を聞いてしまうような。

「私・・・縛られていますかねぇ。」

「現に今も大いに縛られてる。例えば、“与えられた”仕事とかね。学校だと、義務教育もそう言えるのかなぁ。」

「そんなの当たり前じゃないですか。例えそれが貴方には縛られているように見えても。生きるってそういうもんなんじゃないんですか。」

ついムッとした顔をして言い返してしまった。

「そうだねぇ、“当たり前”かぁ・・・。然し、そのルールや、それを守ろうとする責任感なんてものは、一体誰が決めたものなのかなぁ。」

男は、カラッとした晴天のような顔をして私に笑い掛ける。そして、太陽のように真っ直ぐな眩しい瞳を此方へ向ける。私は言葉に詰まった。

“誰が決めた”なんて、私に解る訳ないじゃん。

「まぁ、どう生きるべきか、何が自分にとっての幸せか、きっと人は死ぬまで探し続けるんだろうねぇ。例え最初からそれを持っていたとしても・・・そのことに気付かずにね。」

男は笑って私に手を振り、去って行く。

 


ちょっと。待って。勝手に何処かへ行かないでよ。解らなくなるじゃない。生まれてきたことも、生きていくことも、死んでゆくことも。“当たり前”でしょう?“当たり前”だったよね?“当たり前”だった筈なのに・・・。

花、草、木、空、順番にその色が消えていく。私の居る世界が色を失い、真っ白になっていく。

何も疑問を持たないまま、全てを諦めたままなら、私は、男に会う前の私のままで居られただろう。当たり前に、ただ何となく、生きていけた。それなのに・・・。

あの人は何故、私と出会ったの。

 


私は、一人取り残された。

小さな公園の中に。小さな田舎町の中に。小さな島国の中に。小さな世界の中に。

太陽には、程遠い。

 

 

 

 

 

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𓅿背黒鴎(セグロカモメ)

鳥言葉:流浪する魂。

 

ワタシはニジキジ ⑵

 

数年前、私は一度だけ彼に別れ話を持ち掛けたことがある。

理由は探せば幾らでも見つかるけれど、その中でも一番は、普段から私の意見に耳も貸さず、酷い時は私を馬鹿にし、いつも自分の意見が正しいという態度だったからだ。

この先もずっとこのままの調子では、私の心がもたないと思った。

 

別れ話をした時の彼は、意外にも冷静だった。

「別れるのに関しては、好きにしていいけど。誠は俺が居なくなっても生きていけるの?」

「家を借りたり家具を揃えたりするような金銭的な問題は大丈夫?貯金は残るの?赤字にでもなるようなら、誠の御両親が心配すると思うけどな。」

「別れても俺は女に困らないけど、誠は俺以外の男に好きになってもらえるとは思えないし・・・。現実、こんな平凡で我儘な女と長く付き合っていける寛大な男は、俺くらいだよ?」

 

頭が追いつかず、何も言い返せなかった。

確かに私の仕事は給料が高い訳では無いし、どちらかと言えば低い方だ。彼の給料に比べれば本当に微々たるもの。一人暮らしをするとなると、貯金する余裕など皆無で、その日暮らしになってしまうのも事実。

確かに彼は社交的で気配りも上手だから、女性からモテると思う。きっと私なんかより素敵な彼女をすぐに作れるだろう。それに引き替え、私は人見知りで男性とコミュニケーションを取るのも下手くそだ。その上警戒心も強いので、彼と別れた後は好きな人は疎か彼氏など出来ないだろう。万が一、付き合えたとしても、「思っていたのと違った。」と振られることが今まで多かったため、すぐに終わりを迎えるような気もする。ひょっとしたら、一生誰からも愛されないかもしれないとさえ思う。

 

彼は間違ったことは何一つ言っていない。だからこそ、痛いところを突かれた私は深く傷付き、いとも簡単に心が折れてしまい、自分にとっての正しい判断が出来なくなった。

今思えば、彼はそれも全て計算の上で、敢えてマウントを取っていたのかもしれない。

 

自分の中では、きっちりと筋道を通し、強い意思を持って別れ話をしたつもりだったのに、私より彼の方が何枚も上手だった。

彼はこの時、私の自己肯定感を下げる言葉を幾度となく並べ、「こんなどうしようもない私には彼しか居ない。」と思うように洗脳したのかもしれない。

彼は怖い人だ。決して敵に回してはいけない。この一件から、私は何処か彼に対して怯えのような感情を持っている。

 

 

 

 

 

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「誠、どうしたの?大丈夫?」

職場の同僚が私の顔色の悪さに気が付き、声を掛ける。

「え?・・・あ、大丈夫。」

「何か悩んでるんだったら言いなよ?」

言える訳が無い・・・。彼女は私の彼のことを評価しているし、もし私の本当の気持ちを打ち明ければ、逆に私の至らなさを指摘されたり嫌われてしまうかもしれない。何も出来ない性格の悪い女だとバレてしまうのが怖い。

「うん・・・大丈夫。ありがとう。」

最近、何処に居ても何をしていても地に足がついていないような感覚で、フワフワと気持ちが悪く、すぐに疲れてしまう。

 

 

 

 

 

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利用者達が椅子に座って体操をしている。私は後ろでそれを見守っている。

ふと目を逸らすと、窓際に飾っている笹と、その葉に付けられた短冊が目に入る。

 

“健康で長生き出来ますように”

“皆が健康に過ごせますように”

“長寿を全う出来ますように”

“いつまでも元気に歩けますように”

・・・

 

どれもよく似ている。震える手で懸命に字を書いている利用者の愛しい姿を浮かべながら、私は自然に微笑んでいた。

ふと、思い返す。

そう言えば、幼い頃は出来ないことだらけだった。そして、それが当たり前で、自分を責めたりすることなどなかった。初めて歩く時、初めて喋る時、何か一つでも出来るようになると、必ず大人達が褒めてくれた。些細なことでも褒められると、幼い私は素直に受け容れ、それが自信となった。

けれど、少し大きくなってくると、“出来る”が当たり前になった。特に秀でている子は褒められ、劣っている子は笑われるようになった。勉強が出来る、運動が出来る、歌を歌うのが上手、絵を描くのが上手・・・。目に見えてそれが“出来る子”と“そうでない子”との差が広がり始めた。

年頃になれば、顔立ちの美しさやスタイルの良さ等、容姿の良い人は異性から特別に評価されて持て囃されるようになり、逆に劣っていると判断されると見向きもされないことが増えた。然し、容姿の良い人にはその分悪い虫も寄って来るため、それはそれで苦労することも多くあるようだった。

成長する度に、色んな“オプション”が付け足されていく。そのせいで人はどんどん追い詰められるようになる。最初はどれも似たようなもんだった筈なのに。

いつしか苦しみの根源であるオプションの部分にばかり注目してしまいがちになり、核の部分からは目を背けられていた。そして、何が一番大切なことなのかが解らなくなってしまった。

 

今、私が当たり前に出来ていること。それは案外沢山あるのだ。

自力でベッドから起き上がること。トイレへ行くこと。ご飯を食べること。歩くこと。時に走ること。仕事をすること。家事をすること。読書をすること。お風呂へ入ること。朝までぐっすり眠ること。

歳を重ねていくと、きっと少しずつこれらのことが困難になり、遂には出来なくなる日が来るのだろう。私が今当たり前だと思っていることが、当たり前ではなくなっていくのだ。

 

「今更願うことなどない。死ぬのを待つだけだ。」と願い事を書かない人も居た。「若い頃はあれもこれもと欲しがっていたけれど、だんだんと多くは望まなくなってくる。最後に欲しいのは健康だけなのよ。」と仰った人も居た。

“出来ないこと”にスポットライトを当てる人生か、それとも“出来ること”に当てる人生か。きっと、どちらが良くて悪いという訳でもない。

 

ただ、私は一体どんな人生を生きたいのだろう。

 

 

 

 

 

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「最近、元気がないわね。如何したの?折角の可愛い顔が台無しよ。」

ぼんやりと考え事をしていると、女性の利用者に声を掛けられた。

「そんなことないですよー!心配して下さってありがとうございます。」

必死に笑顔を取り繕った私を見て、彼女は困ったように微笑んだ。

「年寄りはね、何も見ていないように見えるけれど、いつも若い貴女達を見ているのよ。座ったまま、一日が過ぎるのをただ黙って待っているように思うかもしれないけれど、意外と周りを見ているし、聴いている。“嗚呼、あの人は自分の好き嫌いやその日の気分で人への態度を変えているな”とか、“あの人はいつも誰に対しても優しく接してくれる”とかね。」

穏やかなさざ波のような声に、私は心を奪われる。

「貴女は、十分過ぎるくらいにいつも頑張ってくれてる。誰に対しても気配りを忘れず、一人一人と向き合ってくれているのが分かる。大丈夫。ちゃんと皆に伝わっているのよ。本当にいつもありがとうね。」

思いがけない言葉だった。喉の奥が締め付けられるように痛くて、涙が溢れてきそうなのを我慢するのに精一杯だった。気の利いた言葉を返すことさえ出来なかった。

 

私は何に対しても、この仕事に対してだって、“出来て当たり前”と思われているのだろうと思っていたし、何より自分が一番強くそう思っていた。そして、どれだけ心を尽くしても、誤解されたり嫌われたり疎まれることも沢山あるし、報われないことの方が多いのが当然だとも思っていた。

でも・・・私の存在をちゃんと見つめてくれて、そして認めてくれる人も中には居るんだ。こんな私を必要としてくれているんだ。

幼い頃、大人達が褒めてくれた時のように、私の心の中はじんわりと温かくなっていた。こんな気持ち、大人になってからは一度も無かった。

 

 

 

テーブルに置かれた彼女の手を見つめる。

彼女の手には皺が沢山入っていて、骨や血管も浮き出ている。数え切れない程シミもあるし、皮膚も伸びきっている。この手は、彼女が日々を積み重ねてきた証だ。きっと私が想像する以上に、辛いことも沢山経験してきたのだろう。だからこそ、それが愛しくて、優しくて、どんなものよりも温かく感じた。

私は無意識のうちにその手に触れ、そっと自分の両手で包み込んでいた。

心から“触れたい”と思う気持ちとは、きっとこういうことなのかもしれないと、私は納得した。

 

「綺麗な手ね。」

彼女が私の手を握り返して微笑んだ。

こうして二人の手を比べて見ると、本当に同じものなのかと疑う程だったが、私には彼女の手の方が何倍も美しく映っていた。

こんな風に歳を重ねて生きたい。

そのために、私はどうすれば良いだろう。

 

 

 

 

 

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「うわ、ビックリした・・・。どうしたの、帰ってきてるなら電気くらい付けなよ。」

「あ・・・ごめん。おかえりなさい。」

物思いに耽っていて、何時の間にか外が暗くなっていたことも、彼が帰ってきた玄関の扉の音も、全く気付かなかった。

「汗かいたからお風呂入りたいんだけど。」

「あ、ごめん。まだお湯入れてない。」

「・・・何やってんだよ、もう。」

静かな部屋に、彼が舌打ちをする音が響く。

「いいよな、女は。ボーっとしてても赦されるんだから。本当、いいご身分だよ。」

どうやら彼は機嫌が悪い。

仕事で何か嫌なことでもあった?上司に嫌味でも言われた?それともただ単に疲れているだけで、更にはお腹が空いていて、お風呂に入りたくて、眠たくて、私に優しい言葉を掛けてもらいたくて、その後に抱き締めてもらいたくてーーー・・・。

自分の欲求が満たされないから、そうやって私に八つ当たりをしたり、馬鹿にしたような物言いをするの?貴方は自分の機嫌が悪い時、そんな風に人を見下したら気分が晴れるの?

そうなのだとしたら・・・可哀想な人。

私はいつまで貴方に合わせていればいいの。結婚するまで?それとも死ぬ時まで?

あー、無理だ。申し訳ないけれど。

 

いつもみたいに、如何したのって心配してもらいたいの?

甘えないでよ。貴方はそれを私に言ってくれたことがあると思う?今まで自分のことだけで精一杯だっただろうから憶えてないわよね。一度も無いのよ。

話を聞いてもらった後、大変だったねって慰めてもらいたいの?

ちゃんちゃらおかしいわ。私は貴方に自分の話を聞いてもらえなくても、当たり前のことを当たり前に今日までやってきたのよ。

 

 

 

暫く一方的に彼を罵倒する言葉が頭の中で散らかっていたのを整理して、ひと段落着いた時に思った。

きっと彼を甘やかした私にも原因があるのよね。私がもっと自分の気持ちを上手く伝えられる人間だったら、こんな風に嘗められたり、我儘言われることも少なくて済んだのかな。“可哀想な貴方”にしてしまったのは、私にも少しは責任があるのかもしれない。

今までごめんね。

 

 

 

「文句ばっか言ってないで、お湯くらい自分で入れなさいよ。」

静かな部屋に、今度は私の低い声が響く。

「・・・は?」

彼は眉間に皺を寄せ、怒ったような、でも少し驚いたような、複雑な顔をして此方を睨んでいる。

「聞こえなかった?そんぐらい自分でやれって言ってんのよ!私はあんたの召使いじゃない!」

 

これから私は、彼を失う。

それを解っていて、こんな風に乱暴な言葉をわざと使っている。

本当は、こんな結末を迎えたかった訳ではない。きっと誰かと別れる時、多くの人は同じ気持ちなのだろうけれど。

 

これまで付き合ってきた誰よりも、彼との時間が長かった。抱えきれない程の思い出が、今この時間の中で少しずつ色褪せていくのを肌で感じている。

彼に告白された時、心から嬉しかった。誰よりも大好きだった。ずっと一緒に居たいと思っていた。一番に愛されたかった。嫌われたくなかった。見下されたくなかった。対等で居たかった。後ろから背中を眺めているのではなくて、隣同士で笑いたかった。心許し合いたかった。

こんなにも願いがあったことに、自分自身が一番驚いている。そんな彼への想いが、私の心の器から溢れ出しては消えていく。

彼に対して、不満は挙げればキリがないくらいあった。然しそれはお互い様で、それでもきっと私は彼が居たから今日まで生きてこられたのだと思う。この年月を憎んでいるというよりは、寧ろ感謝しなければならないと思う。

だけど、もうこれ以上自分自身を貶めて惨めにするのは終わりにしたい。お願い・・・。

 

「分かった・・・もういい。」

彼は、私から目を逸らして部屋から出て行った。

玄関の扉を開ける彼の後ろ姿を見て、もう二度と私達が顔を合わすことは無いだろうと思った。

 

 

 

 

 

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その後、私は新しい部屋を探し、二人で暮らしていた家を出た。彼は、私が仕事で家に居ない時間帯に帰ってきては、少しずつ荷造りをしているようだった。

引越しの前日、私は彼にLINEで家を出ることを報告し、最後に「今までありがとう。」と送った。彼からは、「こちらこそ。」とたった一言返ってきただけだった。

彼は最後の最後まで自分勝手で狡かった。そして、そういう私も同類だった。

 

今日まで生きてきて、私は初めてこんなに深く人を傷つけてしまったことを実感している。そして、今でもたまに思ってしまう時がある。「私さえ我慢すれば良かったのではないか。」「もっと優しくしてあげれば良かったのかもしれない。」と。その思いが頭を過る度に、自分を責めてしまいそうになる。どうせなら最後は笑顔の彼が見たかったし、私も怒っている醜い顔なんか見せたくなかったから。

然しそれは違うと我に返る。私は彼を傷付けたけれど、それは私の傷としても残る。そうだ。私だって、沢山傷付いたのだ。

傷つけ合わなければ、私達は前に進めなかった。これから先の未来は、彼は彼自身を大切にすればいいし、私は私自身を大切にしてあげればいい。

誰かに寄りかかって生きるのはもう止めよう。これからの私は、自分の足で歩くのだ。決して速くなくてもいい。自分の心地よい速度で、ゆっくり歩ければそれでいい。

それが私にとって人生を楽しむための一つの方法かもしれないから。

 

 

 

 

 

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休憩時間。

そういえば、今日は七夕。あの時に書けなかった短冊をテーブルへ置き、今度は迷わずペンを走らせた。

・・・出来た。笹の葉にくっつけよう。

窓の外を見る。空は曇っている。もしかすると、これから雨が降るかもしれない。何だか、七夕の日って毎年こんな風にスッキリしない天気のような気がするな。地上からは、今年も天の川を見ることは出来ないだろう。

二人は無事に逢えるのだろうか。

 

 

 

「あ、やっと書けたんだね。一つに絞れた?」

同僚が此方へ歩いてくる。

今度は、私の方から短冊を掲げた。

 

“自分の足で歩ける人になる!”

 

「どうかな?」

「うん、格好良いよ!ただ・・・願い事じゃなくて、目標じゃん。」

「・・・確かに。」

同僚の言葉に納得し、自然と笑みがこぼれた。

 

私は、もう願わない。自分の力で叶えてみせるんだ。私は、私の思う強さを手に入れるために。

 

 

 

 

 

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「何だか以前にも増して元気になったわね。」

美しい手を持った彼女が、私を見て微笑んだ。

「はい、お陰様で。足取りが軽くなりました。」

私も彼女に微笑み返した。

 

 

 

 

 

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

 

𓅯ニジキジ・・・七月七日のバースデーバード。

    鳥言葉:七変化。