鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

モザイクの、その先へ ⑴

 

目の前で後輩が瞳を潤ませている。まるで仔犬の様なその姿を見ていると、簡単に怯みそうになる。それでも、私は必死に心を鬼にする。

    ・・・どうせ私は悪者なのだろうな。

こんな風に被害的な思考になってしまうのは、この会社に居る馬鹿な男達の所為だ。“男達”とは、どうせこの後に嫌でも登場してくるため、今は敢えて説明しない。

 

話は戻るが、私は後輩の指導係をしている。年齢が22歳と、私より10歳も若い女の子である。それはもうジェネレーションギャップが半端ない。考え方も話の内容も全くと言っていいほど噛み合わない。

然し、指導者となればそんな事は一切関係無いのだ。どんな相手でも、公平に、且つ冷静に指導しなければならない。

当たり前ではあるが、私は彼女に対して一方的に怒鳴ったり人格を否定するような事は決してしていない。万が一そんな事でもしようものなら、このご時世パワハラで訴えられてしまうだろう。

三者の前で叱らない。かと言って、密室では話をしない事。感情的になって“怒る”のでは無く、愛情を持って“叱る”。この他にも、心掛けている事が幾つも有る。

よく考え、慎重に言葉を選びながら接する。掛ける言葉をたった一度でも間違えれば命取りになる。現代社会から追放されない様に日々命懸けだ。

本当に、揚げ足取りが上手な時代になったものだ。こんな時代の中で指導しなければならない方の身にもなって欲しい。

そんな普段の努力も虚しく、私は“怖い先輩”。もう八方塞がりだ。

 

 

 

「また怒られちゃったの?大丈夫?」

「後輩ちゃんが可愛いからって、そんなに虐めなくてもいいのにね〜。」

「こわ〜い。」

話を終えた私が自席へ戻ると、必ずと言っていいほど後輩の彼女の元へ駆け寄る“男達”。異性の同僚や、上司だ。この様に、彼等は普段から私を馬鹿にし、面白可笑しくネタにして周囲の笑いを誘っている。

    一体、何が面白いのだろう。

彼等が私を嘲笑する声は、今や耳にこびり付いてしまった。それも、耳掻きをしてもギリギリ取れないような所に。おかげで自宅へ帰っても空耳が聞こえる始末だ。

然し、彼女も彼女。「私が悪いんです・・・。」なんて言葉にしながら、口元が一瞬ニヤついたのを私は見逃さなかった。男に優しくされて満更でもないのだろう。

上辺だけ、若しくは下心のある様な言葉に喜ぶのは勝手だが、私の言葉は何一つ伝わっていないのか・・・。それを思うと情けなく、急に全身が重くなった様に感じた。

 

「だからアイツは行き遅れるんだよな・・・。」

「嫌だ嫌だ・・・あんな怖い女。」

小声で言ったつもりだろうが、全て聞こえている。いや、彼等の事だからわざと聞こえる様に言っているのかもしれない。

    大人になっても子供のままか・・・。

この小さな世界では、指導をする私が“悪”で、簡単に涙を見せる彼女が“善”。そして、馬鹿な男達が“中立”である。その理不尽な構図が私の頭を過ぎる度、心の中は負の感情がモヤモヤと渦巻いていく。

頭がおかしくなりそうだ。そもそも、私だってやりたくて指導係をしている訳じゃないのよ。気ままに自分の仕事をこなすだけの方が遥かに楽なのだから・・・。

「異性が指導すれば、パワハラモラハラ、下手したらセクハラにもなり兼ねない。」と謎の言い訳をして逃げた上司や同僚。その皺寄せが全て私に来ているのだ。

    いいよなぁ・・・男は。

甘い言葉を囁くのなんて簡単だ。然し、結局それはただの自己満足ではないだろうか。此処で働く男達は、何の犠牲も払わず、仕事の質が悪かろうと関係無く、入社した順番に出世していく。面倒な仕事は全て私に押し付けて。女である私に、出世の順番は永遠に回ってこない。

    ただ私が女と言うだけで。

本当に腹が立つ。図体や態度がデカいだけの阿呆丸出しなあの背中たちを、目の前のペン立てに入っているこの鋭利なハサミで滅多刺しにしてやりたくなる時がある。

然し私も馬鹿じゃない。理性も保てない様ならこんな会社とっくに辞めているし、あんな阿呆共のために自分の価値をこれ以上下げるなんて真っ平御免だ。

    さて、仕事仕事・・・。

誰にも聞こえない位の小さな溜め息を吐き、力強くマウスを握り締める。

 

今日も今日とて仕事が溜まっている。私はこのオフィスに居る誰よりも沢山の仕事を片付けなければならない。

本当に理不尽だ。然し、どんな理不尽も飲み込まなくては、とてもじゃないけどこの席には座って居られない。若い子の様に主張したり、戦う事も出来ない。そんなエネルギーさえも残ってはいないのだ。

この小さな世界の住人は、目に見えるものしか信じない。私が何を感じて何を思おうが、誰も興味が無い。私さえ悪者になっていれば、全てが丸く収まる。そんなクソみたいな世界だ。

 

ふと、考える時がある。私も人前で簡単に泣ける様な女だったら人生変わっていたのだろうか、と・・・。

 

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                モザイクの、その先へ

 

 

 

 

 

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「課長、店の予約18時です!急ぎましょう!」

「あぁ、そうだったな。後輩ちゃんも行く?」

「私はちょっと・・・。」

「あれれ、彼氏〜?」

「やだぁ。それセクハラですよぉー!」

「やべ、訴えられちゃう?」

「急がないと遅れちゃいますよぉ!お疲れさまでしたぁ〜!」

「はいは〜い!お疲れさ〜ん!」

こういう中身の無い会話ほど大声で喋る人間が多く、私は耳をもいでしまいたくなるほど参っている。

時刻は17時半。定時は30分過ぎている。上司や同僚は、呑気に酒を飲むために退社する。私は、そんな彼等から押し付けられた仕事が終わらず、未だパソコンに向かっている。毎日の様にサービス残業だ。

 

オフィスに取り残された後輩が、ゆっくりと私の方へやって来る気配を感じる。

「あの、先輩・・・今日はごめんなさい。私、本当に覚えが悪くて・・・。」

「次から気を付けてくれたらいいからね。」

「はい!じゃあ、お先失礼します!お疲れさまでしたぁ!」

「お疲れさま。」

先程まで萎らしい顔をしていたのに、私が少し笑顔を見せれば、簡単に晴れ晴れとした顔に戻る。単純だ。然し、それが可愛らしい所なのだろう。私は、持ち合わせていない。

 

彼女は足早に帰って行った。そしてオフィスに一人、取り残される私。

窓の外を眺める。つい先程まで朱の一色が広がっていた筈。それが今や、朱、紫、紺という風にグラデーションになっている。

    だんだんと日が短くなってきたのだな・・・。

何だか無性に自分の事を惨めに感じた。

    ・・・“私”って何なんだろう。

 

 

 

思い返せば、幼い頃からずっとそうだった。他人に対して「大丈夫だよ」、「そんな事ないよ」という様な慰めの言葉を、今まで何千回、何万回と使ってきただろう。

自分の至らない所を他人から指摘されれば、母はいつも「お母さんの所為だね」と言って私に謝った。私はその度に、「そんな事ないよ」と母を慰めた。私が悪いのだから、と自分を貶めてまで。

そうすると、あからさまにホッとした様な顔をする。母は、そういった慰めの言葉に守られたいのだろうなと幼心に感じた。更には私の口からその言葉が出てくるのを待っている様にも見えた。

今日の後輩も、あの頃の母と同じ。「自分が悪い」と口では言いながら、周囲から「そんな事ないよ」と言ってもらうのを待っている。

何もそれに対して悪いなどとは思っていない。自分を肯定してもらったり守られたいと思うのは、人間誰しもきっと同じなのだから。

私だってそういう気持ちは持っている。然し、私も皆と同じである筈なのに、誰も私にそんな言葉を掛けてくれない。誰も私に構わない。私はいつも、言う役止まりだ。

何の為かも解らないのに、私は今でも誰かの期待に答えようとし続けている。

 

 

 

時刻は18時半。

いけない。考え事をした所為で手が止まっていた。少しでも早く帰れる様に急がなくては・・・。

再びパソコンと睨めっこをする。

    あと少し・・・あと少しだ・・・頑張れ私・・・。

だんだんと画面が滲み、視界が揺れて見えなくなっていく。勝手に溢れてくる涙。

「何で私ばっかり・・・。」

小さく呟いた瞬間、オフィスの扉がノックされ、ゆっくりと開いた。

 

「お疲れさまです・・・すみません、こんな時間に。」

「あぁ、山本製紙の・・・。お疲れさまです。」

泣いているのを気付かれないよう、私は急いで涙を拭いた。咳払いをし、震える声を抑えて笑顔を繕いながら、椅子から立ち上がる。

「定時過ぎているのに・・・すみません。」

彼は取引先の営業の小鳥遊さん。普段は課長の無駄話に付き合わされているため、社員とはほぼ接点がない。然し、日頃からオフィスに居る全員に笑顔で挨拶をしてくれる、とても感じの良い青年。多分、年齢は20代半ば位だろうか。私よりずっと若い事だけは確かで、彼はいつも溌剌としている。

    いつもは昼間に顔を出すのに。どうしたのだろう。

 

「青木さん、残業中でしたよね。お忙しいところ申し訳ありません。今日は別件が長引いてしまって、いつもの時間に伺えなくて。流石に皆さんお帰りかとは思ったんですが、通りがかったら明かりが付いてたので・・・まだ何方かいらっしゃるのかな、と思いまして。」

「そうなんですね。遅くまでお疲れさまです。生憎、課長は退社しておりまして・・・。用件は私が伺っても宜しいですか?」

私の名前を覚えてくれている。流石は営業マンだな、と感心しつつ、密かに嬉しくなってしまった。

「いやいや、寧ろ青木さんが居て下さって良かったです。」

私は、「此方で宜しければお掛けください。」と言いながら、自分の隣の席の椅子を指差す。彼は小走りで此方へ近付き、会釈をしながらゆっくりと腰掛けた。それを確認した後、私も自分の椅子に腰掛ける。

2人の目線が同じ位の高さになると、彼は私に向かってニコリと笑いかけた。爽やかな笑顔が眩しい。なんの嫌味もなく、本当に感じの良い人。彼はきっと自分の会社の人達からも好かれているのだろうな。

 

「青木さんが一番把握されているから、本当は普段から山田課長じゃなくて青木さんと話したいんですよね。・・・あ、これ皆さんには内緒ですよ。」

口角を上げた薄い唇の前に、長い人差し指を立てる彼。

「いやいや、とんでもないです。私なんて・・・。」

彼の爽やかなオーラに押され、私の方は可愛くない性格が全面に出ている事に自分でも気付いている。

だって、こんな素敵な人に褒められてもどう返したらいいかなんて分からない。パニックに陥った結果、ただただ謙遜した。結局こうやって相手の厚意を無駄にしてしまうんだよな。然し、この面倒な性格は長年染み付いているものなので咄嗟にはどうする事も出来ないのだ。

 

「青木さんって、いつも誰よりも多い仕事量を迅速にこなされてますよね。それでいて、新人の方への指導も丁寧ですし、僕達みたいな他社の人間にも笑顔で対応して下さいますし。」

もはや褒め殺しだ。恥ずかしすぎて身体中が熱い。いつも貶されながら仕事をしているため、こういう時どう返すのが正解なのか本当に分からない。

「小鳥遊さんはそう言ってくださいますけど、この会社の人達は私の事そんな風に思っていませんよ。」

「そうなんですか?」

「そうなんです。今日だってーーー・・・」

取引先の、而も年下の男性を目の前にして、私は何故自分の話を始めてしまっているのだろう。自分に呆れつつも、口は止まってくれない。よっぽど溜まっていたのだろうか。

彼は嫌な顔一つせず、相槌を打ちながら話を聞いてくれている。こんな私の話を・・・。

 

「それは大変でしたね・・・。」

んー・・・と唸りながら眉間に皺を寄せて腕を組み、真剣に考えてくれている彼の姿を見て、私は我に返った。

「すみません・・・。取引先の方にこんな話・・・。」

他人を上手く褒める事の出来るような素敵な人を前にして、愚痴ばかり言ってしまう醜い自身を恥じた。後ろめたさから彼の顔が見られず、俯く。

    ついさっき褒めてくれたばかりなのに・・・期待外れな奴だと幻滅されたかな・・・。

「いえ、普段は冷静に見える青木さんが、こんなに話して下さって嬉しいですよ。こういうのは人に話すのが一番です。僕で良ければまた聞かせて下さいね。」

予想外の言葉に、私は驚いて顔を上げた。彼は私の瞳を真っ直ぐ見つめて微笑んでいる。この笑顔は、私を馬鹿にする様な同僚達の笑い方とは全く違う。心がじんわりと温かくなるのを感じた。

「ありがとう・・・ございます。」

先程までボキボキに折れてしまっていた筈の私の心。その破片たちはまるで砂鉄が磁石に引き寄せられる様に集まり、綺麗にくっついていく。彼の笑顔は、魔法みたいだ。

 

 

 

その後は、仕事の用件を聞いたり雑談をしたりしながら、取り敢えずひと段落着いた。

時刻は19時半。また今日も帰るのが遅くなってしまったが、彼に話を聞いてもらったおかげで嫌な出来事がチャラになった様な気がする。穏やかな心を取り戻せたので、寧ろプラスかもしれない。愚痴を言ってしまった事に対しての恥ずかしさも残るが、それでも彼と初めて話せて嬉しかった方が大きい。

 

「あ、もうこんな時間。すみません、つい長居してしまいました。」

「いえ、私の方こそ、話を聞いてもらって・・・。」

「あの・・・青木さん、もう退社されますか?」

「はい。」

もう遅いので駅までお送りしますよ、と優しく彼は言ってくれたが、他に寄る所があるので大丈夫です、と言って断った。

本当は何処かに寄る元気など無いし、もう少し彼と居たかったのだが、こんな年上の女と並んで歩く彼が不憫に感じたのと、私自身気後れしてしまったのだ。

「では、お気をつけてお帰りください。」

「ありがとうございます。小鳥遊さんも。」

「はい、ありがとうございます。」

彼は丁寧にお辞儀をして、オフィスの扉をそっと閉めた。

 

彼の姿が完全に見えなくなった後、私は自分の胸に手を当ててみた。心拍数が上がっていて、心臓の辺りが痛い程だ。

“話してくれて嬉しいです”

“僕で良ければまた聞かせて下さい”

“もう遅いので駅までお送りしますよ”

こんな私が女性扱いされている。而も、あんな素敵な男性に。この会社に入社して10年。プライベートですら男性からこんなに優しくされた事は一度も無かった。こんな一時を過ごせるなんて、夢にも思わなかった。

先程まで一人で流していた悔し涙が嘘の様に、今はかなり仕事のモチベーションが上がっている。

「恐るべし、爽やか男子・・・。」

デスク周りの片付けをしながら、つい独り言が零れてしまう位には浮かれていた。

片付けが終わり、携帯電話で電車の時刻表を確認する。ちょうどいい時間に電車が来る事を知り、私は急いでオフィスの扉に鍵を掛けて飛び出した。

心が踊っている所為なのか、珍しく走っていた。まるで自分の身体ではないかの様に、足取りが軽やかだった。

 

 

 

 

 

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