鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

トゥルナの独り言②

私は仕事が好きでした。

16歳のアルバイト時代から、病気になるまでの正社員時代を全て含め、私の半生を一言で表すとすれば、「仕事」と答えると思います。

私にとって「働く」という事は、将来役に立つか定かでない事を学校で学ぶより、遥かに充実感があるものでした。

きっかけは、父の存在でした。 父が仕事嫌いの人間だったからです。

私は、仕事を嫌う事を間違いだとは思っていません。然し、何か少しでも嫌な事があれば、人と揉めて辞めてくる様な責任感の無い父が嫌いでした。家では自分が王様で、母を召使いの様に扱う父が嫌いでした。自分が優先されないと気が済まない子どもの様な父が嫌いでした。実の子どもに興味も愛情も薄い父が嫌いでした。大きな物音を立てて生活し、怒鳴り散らす様に大声で喋り、大きな態度で周りの人間を萎縮させ、支配しようとする様な父が嫌いでした。

親に向かってこんな事を思ってしまう娘は酷いのかもしれません。それでも、私は父が嫌いでした。父の様にはなりたくない。そうなる位なら、死んだ方がマシとさえ思いました。

そんな子どもの頃の私に、大人たちは「どんな人間にも必ず一つは良い所があるものだ」と言いました。私はそれを信じ、此方から歩み寄ろうとした事もありましたが、肝心の父の方は、私からいつも目を逸らしていました。

結局、父を好きになれる様な所は見つけられませんでした。もし、何が何でも良い所を挙げろと言われたなら、反面教師になってくれた事・・・それだけです。

勿論、父だけが悪いとは言いません。私も娘として至らない所が沢山あったのだと思います。それに対しては、こんな娘で申し訳なかったと思っています。

この話をすれば、人から「寂しかったのね」と言われる事があります。そう言われれば、それまでなのかもしれません。けれど私の心の中は、その一言では片付けられない程の想いがありました。

私は、父の生きてきた人生からは出来るだけ遠い場所で生きようとしています。現在の病気によって自らの考え方や生活が大きく変化したけれど、残念な事にこれだけは今でも揺るぎなく私の中に在り続けています。

それでも、何処まで行っても「親子」という現実は変えられず、私の身体には父の遺伝子が受け継がれています。本当に申し訳ない事ですが、自分の中に少しでも父と似た部分が見つかれば、生きる事が余計に苦しく、絶望を感じてしまうのです。

 

 

 

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私の家庭は決して裕福ではありませんでした。

食べていくだけで精一杯なのだろうと感じていて、私はいつも密かにお金の心配をする様な子どもでした。その為、少しでも母や兄弟達に苦労をかけない様に、早く大人になって働きたかったのです。

子どもなりにやりたい事もあったけれど、それを打ち明ける事は出来ませんでした。両親や担任の先生には、金銭面以外の理由を適当に作り上げて説得し、進学はしない事を押し通しました。

例え将来その選択を後悔する日が来たとしても、決して他人の所為にはしない。そう自分に固く誓いました。父の様に言い訳ばかりする人間にはなりたくなかったからです。当時の私は、誰にも助けを求める事はせず、全て自分で選んで決めました。

 

念願の社会人になると、大学に進学してキャンパスライフを楽しむ同級生たちを尻目に、夢中で働きました。

思い返せば、当時は心の中の痛い部分を誰かに触れられるのを異常に怖がっていたのだと思います。もし誰かが触れようものなら、その手に噛み付きそうな程尖っていて、自分が壊れてしまわない様に必死でした。私は、無意識のうちに世間に対して嫉妬や劣等感を抱いていたのかもしれません。

そんなに生き急ぐ必要はなかったのかもしれません。それでも、当時の私はそんな風にしか生きられず、傷だらけになっても立ち向かうのが当たり前だと思っていました。

 

働くとは、本当に大変な事でした。どんな職業を選ぼうと、現実はきっとどれも過酷なものなのでしょう。

何処に身を置こうとも当然好きな人も苦手な人も居て、一番嫌だったのは、自分の事は棚に上げて口うるさく言う人や、自分の機嫌に左右されて他人に意地悪をする人、嫌いな誰かを陥れようと陰湿に企んでいる様な人でした。

それでも、仕事を嫌いにはなれませんでした。自分が働く事によって、時には人の為にもなるのだと実感する時、純粋に幸せを感じられたからです。

私の身体は、働く事で溢れていました。眠る時も、休みの日でさえも考えていました。周囲の人はそれを心配したけれど、私は「頑張っている自分」が好きだったし、そうする事で少しでも父の存在を遠ざける事が出来る様な気がして嬉しかったのです。

 

 

 

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19歳の時、大切に思える人が出来ました。

仕事に対する責任感が人一倍あり、周囲への思いやりがあり、仕事が出来る人でした。彼を好きになったのは、単純に尊敬の気持ちがあったのと、父とは違うと感じられたからです。

然し、年月が経つにつれてお互いに良くない方へと堕ちていきました。共に過ごしてみると、彼は私の父と似た部分が多くある人でした。そういった言動が目に付くと、私はそれが煩わく感じてしまう様になりました。

最初はお互いを尊重し合える関係を望んでいた筈なのに、年下と言うだけで子供扱いされ、常に意見は否定され、行動を制限されたり束縛され、疑われ、私が他の誰よりも劣っていると蔑まれる様になりました。それは彼の思惑通りなのか、私は日々自信を失っていきました。

私も私で、本当に強情で可愛げの無い女でした。彼の思考や言動が理解出来ず、対等に見てもらえない事に憤り、感情的に反発してしまう事も数え切れない程にありました。

言うまでもなく、それは争いの火種となるもので、酷い時は相手に殴られたり、此方が相手に物を投げつけてしまう様な事もありました。

彼と過ごしたのはとても長い年月でしたが、思い返せば、楽しい思い出より争った思い出の方が多いかもしれません。

勿論、好きな所も沢山ありました。だからこそ、文句を言い合いながらも離れられず、長年一緒に居たのだと思います。

一方で、どんどん自分を見失い、醜くなっていく様が自分自身でも恐ろしく感じていきました。そして、幾ら彼に対して愛情はあっても、二人の生活は居心地の悪い場所でしかなくなっていきました。

実の父とでさえ上手く付き合っていけないのだから、他人の男性となんて上手く付き合っていける筈ないのだな。私はとうとう自分を嫌いになりました。

 

 

 

気付けば、26歳。

一人になった時、多少の寂しさはありました。然しそれは誰と一緒に居ても同じ事であったので、干渉される事も無いと思えば精神的負担も減りました。自由になれた事への解放感も徐々に湧き上がり、改めて仕事への意欲が増しました。

周囲がどう思うかは別として、私にとっては一人になってから病気になるまでの数年間が一番充実していたのです。

 

 

 

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ある時期を境に、体重がみるみる減少していきました。ご飯は食べているのに・・・。元々痩せ型でない私にとっては、勝手に痩せてくれるなんて大歓迎でしたが、今ならそれが病気になる前兆だったのだと理解しています。

それから体調を崩すまで、さほど時間は掛かりませんでした。仕事を終えても常に興奮状態、心臓の音が煩くて落ち着く事が出来ず、眠れない日々が続きました。朝の支度をしている最中に、理由の解らない涙が溢れる事もありました。

そこで気付ければ引き返せたのかもしれないけれど、当時は“まだやれる”、“もっと頑張らなくては”、と鞭を打ち続け、自分を過信してしまいました。

在職中も病院に行ってみた事があります。然しいざ初対面の人を前にすると、自分の事を知りもしない人に話をするのも気が引けてしまいました。兎に角眠りたいという事だけを伝え、睡眠導入剤を処方してもらうだけでした。それによって一時の不眠は解消されたため、勝手な自己判断により再診してもらう事はありませんでした。

案の定、薬が切れると再び眠れなくなりましたが、それと反比例して身体は元気でよく動きました。眠れないという理由だけで、病院受診の為に仕事の休みを貰う事も申し訳なく、周りに心配を掛けない様に隠していました。

そのうち、悪夢を見たり、幻聴や幻覚なども現れました。朝の支度や身嗜みに気を使う事が辛くなり、すっぴんをマスクで隠して出勤する日が続きました。やがて布団から出られなくなり、カーテンすら開けられなくなり、あっという間に動けなくなりました。

暗い部屋の中で一人ぼっち。まるで長い金縛りにでもあっている様でした。その時、大袈裟でも何でもなく「私の人生は終わった」と感じました。

身体が動けなくなっても頭は余計な働きをし続けて、自分を責める言葉ばかりを量産していきました。そして、それが私の心を哀しく蝕んでいくのです。

一人で居るのが怖い。でも、誰にも会いたくない。皆がこんな私の姿を見れば、きっと怠け者だと思うだろう。怖くて堪りませんでした。

通話は勿論、携帯電話を見る事さえ恐ろしくて震えてしまい、いっそ壊してやろうかと何度も思いました。上司に休みの連絡を入れるのも億劫でしたが、社会人としてせめて休みの連絡位しなければ・・・と、それがグルグルと頭の中を駆け回り、まるで何か恐ろしいものから追われている様な感覚でした。

普段なら難なく行動出来るような事でも、当時の私にとっては、一つ一つの試練が宇宙まで伸び続ける壁の様に高く感じました。何をするにも、果てしなく時間が掛かる。そんな自分に苛立って涙が溢れる。

やっとの思いで職場に連絡を入れても、涙が溢れるばかりで言葉にする事が出来ない。そんな状況を上司が察してくれて、「今まで頑張りすぎたんだよ。仕事の事は何も気にせず、ゆっくり休みなさい。」と仰ってくれました。本来、そんな風に優しい言葉を掛けて貰えるのは物凄く有難い事だと解っています。人に恵まれている私は何て幸せ者なのだろうと今なら思えても、当時はそれすら私の首を締めている様に感じました。

想いは心の底の方から止めどなく溢れ出してくるのに、形にならず、言葉にさえならず、誰にも伝わらない。きっとその時は誰が私に優しかろうと冷たかろうと、周りに誰が居ようが居まいが、哀しい事に全てが無意味だったのだと思います。何も見えないし、聴こえない。暗いトンネルの中に置き去りにされたみたいに。

仕事を休んだとしても、頭や心は休めない。食べる事が大好きだったのに食欲も無くなり、入浴も、歯磨きも、掃除も、洗濯も、ゴミ捨ても、何一つ出来ない。私の心に比例する様に、部屋も汚れていく。眠りたいのに眠れない。眠れたかと思えば、また悪夢を見る。「誰も助けてくれないよ」と幼い女の子の声が聴こえる。いっそ殺して、と懇願しながら泣きました。

今までの私は、全て自分で考えて選んで進んできたし、自分なりに頑張ってきた筈でした。それなのに、それを努力とも思えなくなり、“なりたい自分”から一番遠い姿になりました。

 

 

 

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胸騒ぎがしたと言って、たまたま母が私の元へやってきました。荒れきった部屋と変わり果てた私の姿を見た時、愕然としたそうです。今となっては笑顔で当時の事を話す母だけれど、きっと傷付いたと思います。

布団の中に篭っている私は、部屋に入ってくる母の気配を感じ、こんな風になってしまった自分自身を何度も責めては泣きました。

休職が決まり、実家へ帰る事になりました。その為には、バスや新幹線に乗らなければならなくて、それがまた辛かったのです。思うように動けない、そして誰とも接触したくないのに、酷い姿の私が他人の目に触れる事になるという被害妄想からでした。私の事を考え、必死に行動してくれている母に対しても、恨みの様な感情を抱いてしまいました。

而も、間の悪い事にイベントシーズンで、駅にはカップルや子連れの家族、友人とはしゃぐ若者達の人混み・・・。私は少しでも浮かれた音が聴こえない様に耳栓をして、何も見ない様に自身の足元だけを見つめました。幼い子どもの様に母に手を引かれて・・・。本当に情けなく、消えてしまいたかった。地面にボロボロ涙を溢し、新幹線に乗るまでの長い道のりを俯きながら歩きました。

新幹線の中では、窓側の席から外の景色を眺めていたけれど、何も感じられず、全てが一つの線になっていく様に見えました。トンネルに入ると、暗くなった窓ガラスに映る自分の顔。マスクで隠していても、泣き腫らした重たい瞼や目の下の立派な隈は隠しきれない。この醜い顔の持ち主は、「頑張れなくて人に迷惑をかけた、情けなくて弱い私」。仕事が好きで溌剌とした私、冗談を言って思い切り笑う私、人前では決して泣かない私・・・。そんな私は、もう何処にも居ない。枯れる事無く涙は溢れる。誰も私の事なんて見てはいないのに、まるで自分が世間の晒し者にされてしまった様な気分でした。

 

 

 

実家に帰って一度横になると、もうなかなか起き上がれず、殆ど一日中寝たきりの状態でした。誰とも言葉を交わせない。家族の問い掛けにも答える事が出来ない。誰に何を強要される訳でもないのに、勝手に恐れては涙が溢れる。あれだけ好きだったテレビや音楽も、全て雑音に聞こえてしまう。誰とも関わりたくない。無音のイヤフォンを付け、音楽を聴いている振りをして暗い部屋に閉じこもっていました。

病院受診も、私は子どもの様に俯いているだけでした。その所為で、母が代理で私の状態を説明してくれました。全て私のためにしてくれている事なのに、「私の本心なんて解らないくせに」と思ってしまいました。

上司も同僚も後輩も友人も家族も皆、もうこんな役立たずの私なんかに期待しない。呆れているだろうな。嫌いになっただろうな。離れてしまうだろうな。でも、もういいや。どうでもいい。私なんか最初から存在していなかったかの様に皆の記憶の中から抹消して欲しい。そうすれば楽に死ねる。 私は、心の中で何度も私を殺しました。

病気になった事で、本当に離れていってしまった人も居ました。覚悟していた癖に、諦めていた癖に、それでも傷付いてしまう自分が嫌でした。

それでも、母や兄弟たちは諦めずに私を愛してくれました。執拗くて嫌になる位に。私だって、出来る事なら治したい。でも、自分の身体なのに、言う事を聞いてくれないんだよ。自分ではどうしようも出来ない。どうしようも出来ないから、疑いながらも処方された薬を服用し、眠りにつく事にしました。

明くる日、目が覚めた事に絶望し、ただ息をするだけで日が暮れる。起きているのに何も出来ない。その事に強い罪悪感を抱く。再び夜になり、薬を服用して眠りにつく・・・。長い間、その繰り返しでした。

症状が180度急変し、今度は眠り過ぎてしまったり、食欲を抑えられなくなる時期もやって来ました。それはそれでまた別の罪悪感が襲ってくるのです。

そんな事を繰り返す日々。私は本当に少しずつしか進めなくなりました。進んだと思った矢先、その何倍も後退することも珍しくありませんでした。沢山絶望して、泣いて、私はとことん自分の弱さを思い知りました。

今でも、病気になる前の自分にはもう二度と戻れないのだと実感する瞬間が幾度となく訪れ、その度に、如何してこんなになるまで見て見ぬふりをしたのかと悔やんでしまいます。 自分で自分を追い込み、虐めて、傷付けてしまった結果、失ってしまったものが沢山ある。家族にも、散々心配をかけてしまいました。

病気によって得たものや、気付けた事もあるのかもしれません。けれど、あまりにも犠牲が多過ぎました。「病気になって良かった」なんて美しい事は、私はこの先も言えないかもしれません。

 

 

 

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「あの頃の私」と「今の私」が、背中をくっ付け合いながら立っている所をよく夢に見ます。両者は同じ道を進む事が出来ないから、此処で別れなければなりません。

「あの頃の私」は、何事も全速力で駆け抜ける私でした。向かい風で飛んでくる障害物を跳ね除け、時にはそれらが当たって傷だらけになろうとも、誰かを守れる様に強く在ろうとした私。自分の弱さは見ない振りをして。

「今の私」は、些細な障害物にさえ躓き、簡単に転けてしまう様な私です。歩ける様になるまで休憩しなければなりません。休憩しながら後ろを振り返り、反対の方へ走っていくあの頃の私の背中を見ると、やっぱりまた少し羨んでしまうのです。

色んな想いが巡るけれど、それでもまた“自分にとっての前”を向いて歩き出します。本当に、驚く程ゆっくりと。それが、これからの私です。

私はきっとこの先も仕事が好きなのだと思います。それは変われないだろうし、変わらなくてもいいとも思います。けれど、以前と変わらなければならない事は、“仕事をするために生きる私”ではなく、“生きるために仕事をする私”になる事です。それだけは、忘れないでいたいのです。

どんな形でも、この先も歩き続けなければならないし、若しかしたら更に辛い事が待っているのかもしれないと想像すると、恐ろしくて震えてしまいそうです。然し、もう強がったりせずに思い切り恐がって泣いてやる位の気持ちでいれたらいいなと思います。沢山泣いた後に、少しだけでも笑える様に。

今、私の“なりたい自分”は、自分を赦し、愛せる自分になる事です。