鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

モザイクの、その先へ ⑵

 

「青木〜、ちょっと。」

先程私が淹れた珈琲を片手に、課長が手招きをしてくる。

「昨日、小鳥遊君来たの?」

「はい。伝達事項は其方の付箋に書いてある通りです。」

「定時過ぎに来るなんてあの子も忙しいね〜。」

「そうですね。」

他所の社員の忙しさは認めているのだな。身近に居る私の事は見ようともしない癖に。

「これからもこういう事があったらオフィス開けてあげてよ。折角来たのに追い返すのも可哀想だしさ。」

「分かりました。」

課長に会釈をし、自席へ戻る。

私は複雑な気持ちだった。定時過ぎにしか来られない時もある位に小鳥遊さんがお忙しいのは重々承知している。若しかしたらまた2人きりで話せる機会があるかもしれないというのも嬉しい。

然し、私が毎日の様に定時過ぎまで仕事をしているのは、他でもない課長達の仕事まで請け負っているから・・・という不満は拭えない。

今更もう自分の仕事くらい自分でやれとは言わない。言わないけれど、せめて私にも一言くらい労いの言葉を掛けてくれたっていいのに・・・。

いやいや、この人達に期待するだけ無駄なんだってば。ただ自分の傷が増えていくだけ。兎に角、無心で仕事をしよう。

あーあ・・・もし小鳥遊さんが私と同じ立場なら、私の様に他人を僻んだりしないのだろうな。

 

    さて、仕事仕事・・・。

私は今日も代わり映えのない1日を過ごすのだ。

 

 

 

 

 

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「こういうのは、青木さんに任せておけばいいから。」

学生の頃からよく言われてきた台詞だ。誰もなりたがらない学級委員にも、多数決によって決められる事が何度もあった。

それは決して私に人望があった訳では無い。何事も期限通りにきっちりとこなし、馬鹿真面目に生きている私だから、周りからいい様に使われていただけだ。

「青木さんって本当頼りになるよね。」

その言葉も所詮上辺なのだという事くらい分かっていた。人からそういう風に言われる度、私はどんどん誰の事も頼れなくなった。

 

 

 

 

 

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「お疲れさまです、山本製紙です。」

「お〜!小鳥遊君。昨日はわざわざ定時過ぎに顔出してくれたみたいで。」

昨日の記憶が鮮明に残っているため、彼の名前が耳に入る度に心拍数が上がる。而も、まさに今本人が来ている。自分の心臓の音が余りに煩く、耳の辺りにまで振動が響いてくる。

    落ち着け、私・・・。

「とんでもないです。此方こそ遅い時間に押し掛けてしまい、申し訳ありませんでした。でも青木さんが居て下さって助かりました。」

本人や周囲に気付かれないよう、一瞬だけ彼の方を見る。今日も爽やかな笑顔。いつ見ても日頃の仕事の疲れを微塵も感じさせない。

「これからも時間気にせず遠慮なく来てよ。青木が居ると思うから。」

課長が私の背中に指を差す。私をぞんざいに扱う姿が隣のデスクの作動していないパソコン画面に映っており、此方からしっかり見えている。

    本当、いちいち腹立つ・・・。

「青木さん、昨日は遅い時間に申し訳ありませんでした。でも、ありがとうございます。」

指を差された上に嫌味を言われ、穴の空いてしまった私の背中に彼が優しく声を掛けてくれる。それだけであっという間に傷口は塞がり、私の口元は綻びそうになる。

そんな心情を悟られない様に余裕のある大人風に笑顔を作り、キャスターチェアのままくるりと後ろを振り返って彼に会釈をした。

「あぁ、お礼なんていいのいいの。こういうのは青木に任せておけば。」

顔の前で横に手を振り、馬鹿にした様な態度で笑う。彼の私に対する優しさや、私のちょっとした乙女心を無下にする男。うんざりした私は小さく溜め息を吐いた。

「こんなに信頼して全てを任せられる優秀な部下に恵まれていて、本当に山田課長が羨ましいです。」

課長の嫌味に対し、更に笑顔で返す彼。課長と小鳥遊さんは親子ほど年が離れているが、年下である彼の方が何枚も上手だった。

あぁ・・・そうだよな、うん、ありがとう、と言ってお茶を濁す課長を見て、私は少しスッキリした。誰一人不快な気持ちにさせる事なく、この場を丸く収めた彼。

    流石、爽やか男子・・・。

 

私は感心しながらキーボードを打っていると、急に後ろに気配を感じる。前かがみの体勢になって腕を組みながら、私の後頭部に顔を近付けてパソコンを覗き込む彼だった。

「やっぱり青木さんは流石です。本当に仕事が早いですよね。」

耳元で彼の声が聴こえる。その所為で私の脳はフリーズし、全く集中出来ない。周囲にバレない様に、ただただ平然を保つのに必死だった。

「いやいや、褒めすぎですよ・・・。」

キーボードに置いている指が、過度な緊張によって小さく震える。

「いや、本当に凄いですよ。誰でも出来る事じゃありません。尊敬します。」

    は、早く離れてくれませんか・・・。

「・・・また青木さんの話を聞きに来てもいいですか?ご迷惑でなければ。」

より一層私の耳元へ近付き、誰にも聞こえない様に先程よりも小さく囁く彼。

「此方こそ・・・ご迷惑でなければ。」

「本当ですか?嬉しいです。」

私の耳元で、喜んでいる様な声を出す無邪気な彼。そこから少し離れると、今度は飛びっきりの笑顔を私だけに見せ、何事も無かったかの様に他の社員たちに挨拶をして帰って行った。

    彼とまた話せるなんて夢みたいだ・・・。

そんな喜びの感情の後に、ふと不安感が襲う。

何故、私なんかの話を聞きたいと言ってくれるのだろう。よくよく考えれば、おかしくはないだろうか。

私は彼よりかなり年上だ。特別美人でもスタイルが良い訳でも無いし、性格は暗くて卑屈で、大して話が面白い訳でも無い。

一方の彼は、若くて、爽やかな青年。性格は明るく社交的で、大勢から好かれる様な所謂陽キャだ。

    それなのに、何故私に・・・?

若しかして、彼も心の中では私の事を馬鹿にしているのだろうか。男性に慣れていない私の事をからかっているのではないだろうか。

いや・・・彼はそんな人じゃない。あの笑顔は嘘じゃない事くらい私が一番分かっている筈だ。

いや、でも・・・。

考えれば考える程、思考が良くない方へ向かっていく。この目で見て、感じたものさえ簡単に信じられなくなる私。

私が、今目の前に座っている後輩の様な性格だったら、もっと素直に可愛く喜ぶ事が出来たのだろうか。

私はとことん何も持っていない女だ。大きな波に飲み込まれ、まるで溺れてしまっているかの様に苦しくなった。

 

 

 

 

 

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「あらら、また同じところをミスしてるよ。」

「あっ、またやっちゃったぁ・・・。本当ごめんなさぁい・・・。」

何度も言ってるけれど、仕事中に謝罪の言葉を口にする時は、“ごめんなさい”じゃなくて“すみません”でしょう?

入社して半年以上経つのよ。未だに同じミスを繰り返してばかり。一体、何度言えば分かるの?

私も時間が無い中で必死に教えてるのに・・・これって私の教え方が悪いの?

でも私は指導者だから・・・こういう感情的な不満は誰にも言ってはいけないのよね。言わないという事には慣れたつもりでいたけれど、やはりふとした瞬間に辛さを感じてしまう。

私のこの心は、一体何処へ飛んで行けば良いのだろう。

 

「今まで指摘された所をメモしたり、何か対策はしてる?」

「してるつもりなんですけどぉ・・・ごめんなさぁい・・・。」

口を尖らせて俯く彼女。

    あぁ、また泣いてしまうのね。

本当に貴女は可愛い。人から愛されやすい女性だと思うし、私はそれがとても羨ましいわ。でもね、ここで泣かれてしまったら、私は貴女に言いたい事の1割も言えずに終わってしまうのよ。

また、私が悪者。もういい加減疲れた・・・。

 

 

 

 

 

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そう言えば、あれから1週間以上が経つ。

小鳥遊さんは、定時過ぎに一度も来ない。 ただ忙しいだけなのかもしれない。若しくは社交辞令だったのかもしれない。何方にせよ、勝手に期待してしまった私が馬鹿なのだ。

自分のモチベーションを他人任せにしてはいけないと、私は改めて感じていた。その結果、こんなにも感情の浮き沈みが激しくなり、他でもない自分自身がどんどん苦しくなってしまったのだから。

私みたいな冴えない人間が、あんな太陽の様な眩しい人に好意を寄せたり憧れを抱いたりするなんて、きっと最初から許されなかったのだ。

    そんなのわかってるよ・・・。

 

 

 

 

 

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「青木、お前何やってんの?」

彼女が泣いている所を目撃した同僚が、此方に向かって吠えている。私はその声で我に返った。

「お前さぁ、後輩泣かせてばっかじゃん。いい加減にしろよ。お前それでも指導係か?」

「違います、私が悪いんです。私が全然仕事出来ないから・・・。」

彼女は涙声で弱々しく否定している。

    ねぇ、本当にそう思っているの?思っていないよね?どうせ私が悪いって思っているんだよね?

「後輩ちゃんは悪くないって。」

ほらね・・・どうせ皆、彼女の味方だ。今「泣いている」という結果が全てで、そこまでの過程など全く興味がないような連中。

ていうか、この小さな世界における“味方”とは一体何だろう。此処は大人が働く会社なのに、まるで幼い子どもが通う学校みたいだ。

あぁ、情けない。全身が鉛の様に重たくなっていく。

何が情けないって、私の今の状況もそうであるし、周りは今日まで一度だって私の気持ちなんか察してくれた事がないと言うこと。

 

鬼である私を退治してやろうと少しずつ人が集まってくる。大勢の視線が全身を突き刺す様に痛いのに、私は平然を装う事しか出来ない。鬼に囚われたお姫様である彼女は、何も言わず泣いている。

私は一体、今何を責められていて、何を言い訳したらいいのだろう。何も考えられないまま立ち止まっている。暫く時間が止まった様に感じた。

    泣きたいのは私の方だ。

そんな弱い気持ちを抑え、表情を変えないままふと目線を外した。オフィスの玄関の前で、課長と小鳥遊さんが立っている。いつの間に来たのだろう。彼は驚いた様な顔をして此方を見ている。

    あぁ、全部見ていたのだろうな。

社内の気まずい空気を察し、課長が小鳥遊さんを連れて外の喫煙所へと消えて行った。いつもは先頭に立って私を悪者にする様な課長だが、流石に取引先の人に見られるのは恥ずかしかったのだろう。

こういうのが“恥”という事は解っているのか・・・。って事は、この状況がおかしいという事は前から解っていたって事だよな。

    それなら尚更・・・如何してなの?

 

ご覧の通り、私の周りには敵しか居ない。その事に今日改めて実感させられた。強い絶望感。いや、疎外感?孤独感?とてもじゃないけど、言葉では言い表せない。

ただ真面目に仕事をしているだけなのに、何故こんなにも屈辱を味わわなければならないのだろう。自分なりに必死に生きていて、こんなにも良い事は巡ってこないものなのだろうか。

いっそこの窓から飛び降りて、全てを終わらせてしまおうか。たった今、彼等の目の前で。華麗に空を飛ぶところを見せつけてやるの。

いや・・・駄目、そうじゃない。私が居なくなった後に周りが何かに気付いたって、そんなの私にとっては無意味だ。何故、彼等の為に私が死ななければならないのだ。大体、私の様な人間が1人居なくなったところで、馬鹿は何も感じないだろう。

こんな思考になってしまう私は、どうやらもう限界みたいだ。

 

 

 

 

 

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キーボードを打つ音だけが響く。時刻は19時。この時間のオフィスに居るのは、いつもの様に私一人だけ。

溜まっていた仕事は、今取り掛かっているものが終われば全て片付く。終わらせてスッキリしたら、何年も前から書いて仕舞っておいた御守り代わりの退職届に今日の日付を書き足し、課長のデスクに出して帰る。

もう、身軽になりたい。

 

 

 

 

 

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10年前・・・22歳。

新卒の私は、右も左も分からないままこの会社に就職した。同期は4人で、女は私1人だった。 当時は女性の先輩が3人居て、その内の一人はかなり年配の方で、大ベテランだった。所謂、御局様だ。

その御局様が私の指導係だった。彼女から全てを教えてもらった・・・というよりは、厳しくされてきたと言う方が近い。それはもう、話し方や見た目などの細部まで色々と注意を受けてきた。

他の2人の先輩は優しかったが、決して守ってくれる訳ではなく、御局様とも波風を立てず上手くやっていければ良いという平和主義な人達だった。そして、その2人は20代後半と若かった事もあり、私が入社した1年後には次々と寿退社していった。

その後は、中途採用などで若い女性が入社してきた事もあったが、御局様の厳しさに耐えきれず、皆辞めていった。

暫くは入れ替わり立ち替わりを繰り返していたが、何時しか求人募集しなくなり、女性は御局様と私の2人だけになった。

私が一人立ちして仕事を任せられる様になってからも、御局様はひたすらあれこれと厳しく指導してきた。今で言うパワハラらしい言葉も散々言われた。

どれだけ辛くても、傷付いたとしても、私は泣かなかった。どうしても我慢出来ない時は、トイレに行くふりをして一人で泣いた。それだけは強く心に決めていた。

そんな負けん気の強い私の姿を見て、同期達は「お前って可愛げねぇよな。」と笑った。泣いたら泣いたで「女は泣けばいいと思っている。」 と言う癖に。無神経な言葉に傷付いた事もあったが、そんな事を平気で口にする様な彼等に屈したくはなかった。見返すためにも、私は此処に居る誰よりも仕事が出来る人間になりたかった。

そうやって、必死で会社に食らいついた20代前半だった。

 

私が入社して6年目。御局様は定年退職をした。彼女は誰よりも厳しかったし、在職中は決して好きにはなれなかったが、仕事だけはきっちりと私に叩き込んでくれた。「青木は此処に居る誰よりも仕事が早くて丁寧だった。」と、最後の最後に褒めてくれた。

私も単純なのかもしれないが、何だか今までが報われた様な気がした。嫌な事も沢山あったが、これからも頑張っていこうと思えた。

御局様の退職後、私の仕事は一気に増えた。きっと御局様も色んな仕事を押し付けられていたけれど、そこから私を守ってくれていたのだと、その時初めて知った。

どれだけ沢山の仕事量をこなせそうとも、私の処遇は変わらなかった。どれだけ頑張っても、蓋を開けてみれば出世するのは男ばかり。それを少しでも指摘しようものなら、「女が出世するなんて前例のない話だ。」と鼻で笑われた。女である私は、面倒でややこしい仕事を押し付けられるか、お茶汲みをさせられるかに留まった。

それでもいつかは・・・と会社にしがみついた20代後半だった。

 

そうこうしているうちに、あっという間に10年が経っていた。 今年で32歳。仕事に追われる様に日々を過ごしていたら、気付けば結婚もせず子供も居ない一人の生活だけが残った。

友達は結婚し、時間が合わず遊ぶ事も無くなり、疎遠になった。残業続きで呑みに出掛ける気力も無い。家と職場の往復で出逢いも無く、彼氏すらまともに出来ない。それに気付いていながらずっと目を逸らしていた。

そんな頃、私より10歳も若い新人が入社した。偶然にも、新卒で入社したあの頃の私と同じ年。彼女を成長させる為に、まだまだ私も奮闘しなければならないと希望を抱いた。

然し、歓迎会の席で彼女は私にだけコソッと言った。「ここだけの話、彼との結婚が決まったらすぐ辞めるつもりなんです。私、仕事が出来る女より、私生活が充実している女になりたいので。」と。悪気のない無邪気な笑顔で。

彼女は私に無いものばかり持っている。私には仕事しか無かったのに、彼女はそれ以外のものを全て持っている。勝手だけれど、何だか私の10年を否定された様な気がした。

私とは何もかも違いすぎる彼女に、一体何を指導すれば良いのだろう。日々悩み、考え、彼女なりに仕事が充実すればいいと思ってきたけれど、一人前になってテキパキと働く彼女の姿が、私には最後まで想像出来なかった。何より、彼女も最初からそんな事は望んでいなかっただろう。

 

この10年、私なりに頑張ってきたつもりだった。然し、一体誰が私の頑張りを認めてくれただろう。誰が私の味方になってくれただろう。 

「自分が自分を認めてあげればいい。」なんてよく言うけれど、そんなの綺麗事だ。誰だって少しは自分以外からも認められたい筈でしょう?

 

 

 

 

 

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「・・・終わった。」

私の仕事が、私の10年が、終わった。

印刷の開始ボタンをクリックする。私は退職届を右手に持ち、ふらつきながらもゆっくりとコピー機の方へ向かった。

 

その時、オフィスの扉がノックされ、控えめに扉が開いた。

「お疲れさまです。遅くに申し訳ありません。」

顔を見なくても、声を聞いただけで分かる。 

「・・・お疲れさまです。」

身体は正直なもので、胸は高鳴っている。然し、私はもう笑顔を作る事もせず、無表情で会釈をした。

「あ、もしかしてもうお仕事終わられましたか?」

「はい、たった今。」

「あぁ・・・ちょっと遅過ぎたかな。すみません。」

彼は困った様な笑顔を作り、ポリポリと頭を掻きながら此方へ歩いてくる。コピー機の隣にある課長のデスクに伝票を置きに来たようだ。

 

「青木さん・・・これ・・・何方のですか?」

課長のデスクに置かれた退職届を彼が指差す。先程、コピー機の方へ来るついでに私が置いたものだ。

「あぁ・・・私のです。もう辞めようと思って。あ、小鳥遊さんも昼間見たでしょう?今まで頑張ってきたつもりだったけれど、私は所詮、悪者にしかなれなかったんです。」

先程まで無表情に対応していた癖に、自分にとって辛い事を話す時だけは必死に笑顔を繕う私。こういう所が本当に可愛くない。

「そんな事・・・」

「あるんです!」

優しくて穏やかな彼の声に、強めの口調を被せた。私とした事が、珍しく声を荒らげてしまった。慣れない様な大きい声を出してしまった所為で、つい涙が溢れてきた。

その事に気付かれないよう、私は慌てて彼に背を向け、自席へ戻って荷物整理を始めた。

 

彼は遠慮気味に私の方へ近付いてくる。

「あの・・・こんな時にこんな話して良いのか分かりませんが・・・僕、実はずっと前から青木さんと話がしてみたかったんです。」

    嘘つき。今日まで来なかった癖に。

「でも・・・また来ますねって此方から言ったものの、毎日通うのも気持ち悪いだろうし迷惑かなとか色々考えて、時間を空けてしまって・・・。」

    もう遅い。私はずっと待っていたのに・・・。

そんな子供みたいな事を考えているなんて、意地でも気付かれたくない。

「でも・・・今思えば、そんな小さな事気にするんじゃなかったって後悔しています。」

不意に後ろから抱き締められる。

「あの・・・すみません。嫌だったら、振り払ってもらって大丈夫ですから。」

突然の事に驚き、身体が硬直して動けなかった。

「俺・・・青木さんの事、好きみたいです。」

更に驚く事を言われた所為で、流れていた涙が一気に引っ込んだ。先程まで自分の事を“僕”と言ってビジネスモードで話していた彼が、急に“俺”と言った事にもドキッとした。

「この会社の前の通りが帰り道なんですけど、定時過ぎに通りがかってもいつも明かりが付いていて・・・。何となく思ってたんです。きっと青木さんが居るんだろうなって。」

背中を丸めながら私を抱き締めている彼の顔が、耳の辺りにある。低くて優しい声が一番近くにあるのが何とも心地好くて、私は彼の話をただ黙って聴いている。

「あの日も本当は急ぎの用件なんて無かったんです。ただ青木さんに会いたかったから思い切って来てみただけで・・・。でも、そしたら本当に居て。なんか俺、青木さんの笑顔見たら嬉しくなっちゃって。あの日、仕事で嫌な事あったんですけど、疲れも吹き飛んだんです。」

再び、涙が溢れてきた。彼の心の中を覗けた事への嬉しさと、彼の事を信じられなかった自分自身への情けなさが混ざった様な涙だった。

「あ、あと青木さんが愚痴ってくれた時、凄く嬉しかったんですよ。なんて言うか・・・仕事が出来ていつも冷静で隙の無い女性が、あんなに感情丸出しで話してる姿がなんか可愛くて。仕事中のキリッとした青木さんも素敵だと思って見てたけど、そうじゃない青木さんの事ももっと知りたいなって思ったんです。」

彼は聞き上手な人だと思っていた。でも、こんな風にお喋りな一面もあるんだ。そんな風に私の事を見てくれていたのだと思うと、純粋に嬉しかった。

 

私を抱き締めている手をゆっくりと離し、その大きな手で私の身体を軽々と回転させた。

向かい合う2人。意外にも、彼の顔は真っ赤になっている。私の顔も同じ様に赤いのは、きっと彼のが伝染してしまった所為だと思い込もうとした。

「青木さん・・・もう一人で泣かないで。貴女は悪者なんかじゃない。多分、本当はきっと誰も悪者なんかじゃないんです。それでも・・・もし誰かが貴女を悪者にしたがるのなら、俺が貴女を守ります。」

ついに私は自分の都合の良い風に妄想してしまう位、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

頬を抓ってみる。しっかり痛い。パニックのあまり、漫画のヒロインがやりがちな行動を取ってしまった自分が恥ずかしい。

彼の気持ちはとても嬉しい。でも・・・

「小鳥遊さん・・・今おいくつですか?」

「え?えっと、26です。」

    やだ・・・6つも年下じゃない。

「私、32なんです。」

「はい。」

「かなり年上だし・・・美人でもスタイルが良い訳でも無いし、稼ぎが多い訳でも無いし、それどころか会社辞めるから暫くは無職になるし、年齢の事を考えると、この先必ず子供が産めるとも限らない。」

自分で言っていて哀しくなる。それでも、これが現実なのだ。

「それにひきかえ貴方はまだ若いし、見た目も性格も凄く素敵だし、これからまだまだ色んな女性と出逢えると思うの。私の事を好きだって言った事も、すぐに後悔すると思う。」

化粧が崩れてしまっているのが自分でも分かる。こんな姿を見られて恥ずかしい。

「本当の私を知ってガッカリすると思う。」

人前で泣くなんてどうかしている。こんなの今まで有り得なかったのに。

「私は、私は・・・」

言いかけて、突然視界が真っ暗になった。

彼の腕の中。私は今まで感じた事の無い位に強く抱き締められている。息が出来なくて凄く苦しい。その癖、何故だか幸福に満ち溢れている。このまま・・・息が出来ないまま死んでもいいと思えるくらい。

「そんな事ない、そんな事ないから・・・。」

彼は繰り返す。 私がずっと誰かに言って欲しかった言葉を。今まで他人に使ってばかりで、誰からも言って貰えなかった魔法の言葉。

 

彼は暫く抱き締めていた私の身体を離し、大きな両手で私の頬を包み、涙を拭う。

「青木さん、今凄く酷い顔してますよ。」

彼が笑う。それは、私を馬鹿にする様な顔とは程遠い、ただただ愛しい笑顔だった。

「見ないで・・・。」

私が恥ずかしがるのを見て、彼は更に笑う。

「ねぇ、青木さん。下の名前は?」

「・・・涼子です。」

「涼子さん、好きです。僕と付き合ってくれませんか?」

 

 

 

 

 

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私は、10年間勤めた会社を退職した。

退職届をデスクに置いた翌朝、珍しく課長が取り乱して私を呼び出し、「青木に辞められたら困る!」と何度も言ってくるのを見た時、少しだけ可哀想になった。

然し、私の心は変わらなかった。

課長が私に辞められると困るのは、自分の仕事が増えて面倒だから。そうやって私の存在を惜しむのも、最初だけだ。仕事なんて、代わりは幾らでもいる。きっと何処へ行ってもそんなもんなんだろう。必死でしがみつく程のものでは無かったのだと、やっと気付いた。

 

私の10年間、何だったのだろう。何かを必死に積み上げてきたつもりだったけれど、一体何を積み上げてきたのだろうか。

仕事は私に自信をくれたけれど、職場は私から自信を奪っていった。私の心は少しずつモザイクがかかった様に霞んでいき、何時しか自分でも見失ってしまう程だった。自分でも見えないのだから、他人から見られる筈が無いのは当然なのだと今なら思える。

今まで、上司や同僚、後輩までもが私の存在を馬鹿にしたり悪者にしていた様に感じていたけれど、きっと私自身も自分に対して同じ気持ちだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

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「涼子さん、おはよう。」

今、目の前には愛しい人が居て、此方に向かって優しく微笑んでくれている。

「おはよう。」

彼は、目に見える私だけでなく、目に見えない様な部分の私も含めて受け容れてくれた。だからこそ、私はもう一度自分自身を見つめ直したい。こうして彼を愛しているのと同じ位、自分の事も愛せる様に。

 

いつか、今まで見た事もない澄んだ景色を観に行こう。その時、彼が隣に居てくれたら幸せ。

 

モザイクの、その先へ・・・