鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

ワタシはニジキジ ⑴

七月七日。

それは彦星と織姫が一年に一度だけ逢える日だという。多くの人はそれを悲劇だと嘆いたり同情したりするのかもしれないが、私からすれば彼等は羨望の対象だ。

想い人とはたまに逢うからこそ更に愛しく感じるし、美しいのだと私は思っている。近くに居れば見なくていいものも目にするし、見られたくないものだってあるから。

そういう私は変わっているのかしら。

 

 

 

 

 

「誠は何を書いた?」

施設のイベントで、利用者と共に職員も一つずつ願い事を書いている。同僚の一人が私の短冊を覗き込んだ。

「なーんだ、まだ書いてないの。」

「願い事がありすぎて困る?」

利用者と同僚が茶化してくるのに対し、私は愛想笑いをしながら返答する。

「そうなの。ありすぎて困っちゃう。」

 

 

 

本当は、願い事などこれと言って無い。物欲も無いので欲しい物も無い。けれど、強いて言うなら・・・。

 

“彼が私を振ってくれますように・・・。”

 

こんなことを人に言うと、「そんなに嫌なら自分から振ったらいいのに。」と軽口を叩くだろう。然し、他人が思うほど当人達にとってはそんな単純なものでは無いのだ。私だって、それが通用する相手なら最初からそうしているし、それが出来ないから困っている。

 

 

 

傍から見れば彼は優しい。

そして、私を愛してくれている。

全てを総合して、私は彼のことを嫌いな訳ではない。けれど、如何しても彼の愛情が私には歪んで見えてしまうのだ。

 

 

 

「誠、しようよ。」

彼が私を見つめる瞳、私の肌に触れる手、そして極めつけにはこの台詞。これらが揃った瞬間、私は地獄の果てに突き落とされたような気分になる。

「・・・うん。」

私は彼を好きだから付き合った。然し私は彼に触れられるのが凄く嫌いだ。いや、そうじゃない。相手が彼でなくても同じなのかもしれない。

誰も私に触れないで欲しいと思ってしまう。この気持ちを言葉にするのはとても難しいのだけれど、簡単に言えば、他人の体温を感じる度に私は自分が惨めになるような気がしてならないのだ。窓が無く、光の入らない真っ暗な箱の中に閉じ込められているように、息苦しくて心細くて堪らなくなる。

生物は孤独の穴を埋めるために誰かの温もりを探すのかもしれないが、私は多少孤独で居なければ逆に怖いのだ。

私は人とあまりに違い過ぎるし、きっとおかしいのかもしれない。それは自覚しているつもりだ。だからこそ、こうして自分を隠して生きている。

 

繰り返し、彼にキスをされる。私は全身に力を入れ、瞼を強く瞑り、固まったままそれが終わるのを必死に耐えている。

両腕に鳥肌が立つ。それが彼に見つからないように、ゆっくりと腕を回して彼を抱き締めるふりをした。

 

 

 

 

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昼休憩。

飢えた女達は、他人の噂話や仕事の愚痴、恋愛話を持ち掛けてくる。そんな時間も内心憂鬱で堪らなかった。

「誠はいいよね〜。あんな優しい彼が居て。」

彼は何処へ行っても誰からも褒められる。仕事が出来て経済力もあり、外見もそこそこ良い方だからだと思う。

皆、本当の彼のことは何も知らないのに・・・。

そう思う度、自分自身が相当歪んでいることを自覚する。そしてそれを隠すために、何時ものように他人に愛想笑いを向ける。

「ん〜でもそれなりに直して欲しい所もあるよ。」

私は、何か嫌なことがあった時に限って私の身体を求めてくる彼が苦痛だ。それも含めて、愛だと喜んで受け入れる慈悲深い人も世の中には居るのだろうが、私は喜ぶどころか自分のことを性欲の捌け口にしか思っていないのではないだろうかと思い、少しずつ心が擦り減っていく。

「そんなこと言ったら罰が当たるよ!あんなに良い人、大事にしなきゃ。いずれは結婚するんでしょう?」

結婚・・・。改めて彼と一生添い遂げるところを想像してみるとゾッとした。さっきまでの昼食を全て吐き出しそうになったので、口を噤み、必死に堪えた。

結婚するくらいなら、罰でも何でも当たった方がマシとさえ思ってしまう私は最低だ。ただ、執拗いようだが本当に彼のことを嫌っている訳ではない。

「歳も歳だし、そろそろ考える時期だよね。」

話がひと段落着くと同僚は席を立ち、喫煙所へと去って行った。

 

 

 

一人になり、深い溜め息を吐いた。

“歳も歳だし”。

どれだけ溜め息を吐こうとも、何気無い言葉が私の胸に閊えたままで気持ちが悪い。

 

男が結婚や出産に対してこんなことを言われるなんてごく稀だろうが、三十歳を目前にした女は周囲から耳が痛くなるくらい言われてしまう。何も珍しいことでは無いのかもしれない。変な話、これはまだマシな方。酷い時には“行き遅れ”とまで言われるのが現実だ。

女は必ず結婚して出産しなければならないという法律でもあるのだろうか。そして、言いたいことも言えず、それを飲み込み我慢しながら可愛い振りをして男を支えなければならない決まりも。

好きに生きればいい。世間はそう言う癖に、いざ身近に未婚の女性を目にすれば、その人が高齢であればある程憐れんだような視線を送り、「子供が居たら違ったのかもね」、「孤独死が心配だわ」などと余計なお節介を焼くのだ。

子供が居るから何だと言うのだろう。子供は大人のためのステータスではないし、孤独死だろうが何だろうがどうせ死ぬ時は独りなのだ。

普段は別になんて事ないし、女で在ることにそこまでの不満は無いのだけれど、こういう何気ない言葉を掛けられる度、女で居ることが無性に悔しくなる時がある。

 

あれこれ考えていると、一気に食欲が無くなった。私は食べかけの弁当の蓋を静かに閉め、隅に寄せた。テーブルの空いたスペースに顔を伏せると、静かに涙が零れた。

 

 

 

 

 

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「おかえり〜!」

玄関で出迎えられ、ぎょっとした。

いつもは接待や残業などで私より帰宅が遅くなる彼なのだが、珍しく今日は早めに仕事を切り上げたようだった。

私には準備が必要だ。彼よりも先に帰宅し、数時間は自分のペースで気ままに家事などをして過ごし、出来るだけ余裕を持って笑顔で彼を迎えるための心の準備が。

「あ・・・今日は早かったんだね。」

動揺で声が上擦ってしまわないように注意する。

「うん、珍しいでしょ。嬉しい?」

嬉しい、とは・・・。困ったな、頭の中で辞書を引いても答えが見つからない。彼のその言葉の真意が全くもって理解出来ない。

洗濯物を取り込んでくれていたり、夕飯でも準備してくれているのだったらそれは嬉しいと言える。けれど、そんなことをしてくれている訳がないのは分かっている。

私はつくづく打算的な女だ。

「うん、嬉しい。」

そして私はまた思ってもいないことを口に出し、笑顔のお面をつけて微笑んでいるふりをする。最低なのは解っている。でも、そうすれば彼はきっと満足だろうから。わざわざ心の中に秘めた想いを伝えて争いたくもない。

「たまには早く帰ってみるもんだね。あ、お腹空いてるから夕飯早めでお願いしまーす!」

彼は満足気な顔をしたままリビングへと姿を消した。

 

お腹空いた?夕飯早く?

その言葉に呆然としたまま、玄関先で靴も脱げずに立ち尽くした。両手には、食材や日用品が入っているエコバッグ。不思議だ。帰宅する前より遥かに重たくなったように感じる。

張り付いた笑顔のお面がゆっくりと剥がれるのを感じた。

・・・私だってお腹空いてるよ。

両手の荷物を彼の背中に投げつけてやるところを何度も何度も想像したけれど、私の心は晴れなかった。

 

 

 

 

 

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信天翁を追いかけて

 

人生に無駄なことは無い

そう言った優しいあの子は

正しくて綺麗だったのに

私はその子を思い出せない

 

 

人生は無駄なことだらけ

私はそう思ってしまう

けれど

それが歪んでいるとも

間違っているとも思えない

 

 

生きているとうんざりするくらい

要らないもので溢れていて

時には埋もれてしまったり

溺れてしまいそうになる

 

それならいっそ全てを棄てて

何処までも遠くへ

自由に飛んでゆきたいのにな

 

 

嗚呼、きっと私自身も

広い世界の何処かの誰かにとっては

取りに足らない小さな命なんだろう

 


人生は無駄なことだらけだ

それでも

それがあるからこそ

大切なものが特別輝いて見えるのだとしたら

若しかしてこの無駄は

私の人生にとって

最高の贅沢かもしれない

 

まだ解らないけれど

 

もう少しだけ

私の無駄な一部を握り締めて

待ってみようと思うんだ

 

いつか、追いつく時まで

 

 

 

 

 

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

 

✎*。信天翁・・・アホウドリ

 

‪𓅟ワタリアホウドリの鳥言葉:

何物にも囚われない自由。

10月29日の木菟

《久しぶり〜!元気?》

 

その言葉に律子は苛立っていた。

それが本心からの心配ではなく、挨拶程度に使っているだけだと分かっているからだ。

彼女のことだから、どうせまた自分の用件を話したいが為に連絡をしてきたのだろう。

律子は溜め息を吐いた。

 

《うーん、ぼちぼちかな。そっちは元気?》

 

確か前回は話の途中で急に既読無視をされて、それっきりだったんだっけ。これもいつもの事なのだけれど。

それをされると何となく嫌な気持ちが残ることを律子は知っているので、相手に同じ仕打ちをすることが如何しても出来なかった。

不穏な気持ちを抱えながらも、言葉を選びながら文字を打った。

 

大体そちらが無視をしておいて、よくそんな素っ頓狂に連絡を寄越せるものだと、正直律子は呆れていた。でも相手はきっとそんなことは何も考えていないのだろう。じゃなきゃこんなに思いやりのない行動は出来ない筈だ。

こんな風に友達を悪く思ってしまってはいけないのは分かっている。然し、そう思わずにはいられないのは、彼女に前科があるからだ。

 

前回のやり取りに遡ると、彼女の相談事が始まりだった。それは深刻な内容であったし、律子は心の底から心配していた。ひとつひとつの言葉に細心の注意を払いながら彼女の相談に乗った。

それなのに、自分の気が済んだのかやり取りの途中でパッタリ返信が来なくなったのだ。

 

 

 

《元気そうなら良かった。》

 

彼女は人の話を聞かない。一言も元気だなどと言ってはいないのに。

 

《心配だったから・・・。》

 

百歩譲ってこの言葉が本心だったとしても、如何しても素直に受け止められないのは、どうせ自分自身の性格がどうかしているからなのだろう、と律子は胸を痛めた。

 

《あのね、突然なんだけど私ねーー・・・》

 

あ、やっぱり始まった。また“私”の話。

 

律子は返事をしてしまったことを今更ながら後悔した。

本当に普段から此方のことを心配してくれているのなら、たまには自分の話は置いておいて、此方の話も聞いてくれたらいいのに。せめて、3回に1回位でもいいから。

何故私はこの子と友達をやっているのだっけ。私は所詮、彼女の引き立て役なのかしら?そう思うと律子は哀しくて仕方がなかった。

勿論、彼女に悪気が無いことも分かっている。自覚が無いのも時には罪なのだが。然し、そういう人に何を言っても響かないし、ただ自分が悪者になって終わるのも嫌なので直接物申す勇気も無かった。

彼女に対して嫌な感情をこんなに沢山秘めている時点で、友達ではないのかもしれないということも本当は分かっている。

 

《そうなんだ。良かったね!》

 

私こそ思ってもいないことを送っている。

 

《へぇ〜凄いじゃん!》

 

こんな不毛なやり取り早く終わらないかな。

 

《それなら安心だね。》

 

ただモヤモヤするだけなんだけどな・・・。

そう思ってしまう自分が本当に嫌。けれど、私は私で間違っていないとも思ってしまう。

少しは相手に察してもらいたいものだ。でも期待するだけ余計にしんどい。

 

彼女は「私が気付かないことがあったら何でも言ってね!」とよく言うけれど、そんな言い難いことを言わなければならない方の身にもなって欲しい。“言う”という行為は言われる方より遥かに神経やエネルギーを使うということを彼女は知らない。

本当はこんなこと思いたくないが、私の経験上言われないと気が付かない人は言っても分からないことの方が多くある。“気付く人”というのは“言わなくても分かる人”なのだ。

 

 

 

自分の話を終えて気が済んだのか、また返信が来なくなった。今度は先程よりも大きくて深い溜め息を吐きながら、携帯をソファに投げた。

彼女にとって私の存在って一体何なのだろう。律子は考えたくもないことをいつも考えてしまう。

思い返せば、いつも他人に気を遣ってばかり。本当の意味で他人から大切に扱われたことなど無いのかもしれない。学生の頃はいじられキャラでぞんざいに扱われていたし、それをハッキリ嫌と言うことも出来なかった。正直に言ったせいで、ハブられたり虐めを受け始めた人を何人も見てきたから。

それは、大人になってからも。付き合っている彼からも優しくしてもらえたことなんてないし、もっと酷い時は交際にすら至らず、都合の良い相手で終わったこともあった。

 

律子は、どんな時も誰の言うことも二つ返事で引き受け、嫌な顔一つせずに頑張ってきた筈だった。それなのに、この努力は全然報われない。自分のことばかり話す彼女はいつも誰かに愛されるのに。

周りのことを憎いと感じてしまう反面、律子は何より自分自身のことが嫌で堪らなかった。

 

皆は私のことを優しいと言うけれど、私の何を知ったつもりで容易くそんなことが言えるのだろう。私は「優しい」のではなく、「言えない」だけだ。我慢しているだけ。本当は、心の中では、とても酷いことを考えている。

生まれてきた時は、きっと祝福されて愛されていた筈。然し、物心がついた時には両親はいつも喧嘩をしていて、私はいつも部屋の片隅で泣いていた。

怒鳴り声や大きな物音が怖くて、それをなるべく耳にしなくていいように“良い子”になった。それでも叱られたり両親が言い争う姿を見る度、生まれてきた自分を責めた。

 

早く独り立ちしたくて、働き出してすぐに一人暮らしを始めた。大きな音がしない、静かな家に居られることが心地好く、1人が嬉しかった。

 

それでも、何も変わらなかった。平穏な暮らしを手に入れても、新しい職場に勤めようとも、どんな友人を作ろうとも、私は私のままだった。

いつまで経っても、私は誰かのために息をしている。

こんな筈じゃなかった。こんな風になりたかった訳じゃない。私はただ・・・

 

 

 

律子は先程ソファに投げつけた携帯に手を伸ばす。連絡先の画面を開き、あ行から順番に目を通していく。

 

あぁ、私は泣きながら相談出来る人も、気兼ねなく文句を言い合える人も居ないのだ。更には、自分の本当の気持ちを話したい人も居ない。

左手の親指の動きを止めた。

涙が止まらない。私は本当に独りだ。一人暮らしを始めても、本当の意味で独りになることはないと思っていた。いや、思おうとしていた。然し気付いてしまった。今まで気付かないふりをしていたことに。

 

私は独りだ。

誰も私を見ていない。

同僚も、彼氏も、友達も、両親でさえも。

 

胸に何かが支えて、息が止まる。

 

律子は海の底に沈んでいく自分を想像した。或いは、誰かに首を絞められているような。

 

このままでいれば、私は本当に死んでしまう。

苦しい・・・苦しい・・・誰か助けて・・・。

 

意識が遠のき、目の前が暗くなった。

 

 

 

 

 

 

気付けば、外は明るくなっていた。カーテンも閉めないままだったので、直接朝日が律子の瞳を刺す。

「眩しい・・・。」

 

昨日のあれは何だったのだろう。夢?現実?区別もつかない程にリアルだった。

ただ一つ分かるのは、あれだけ苦しかったのに死ねなかったこと。

人間は意外としぶとい。私は強く作られてしまっている。

 

 

 

「仕事行かなきゃ・・・。」

律子は重たい身体を起こした。洗面所で念入りに顔を洗い、自分と目が合った。

「・・・酷い顔。」

 

 

 

きっと私は今までずっと誰かのために息をしていたから、それらが重たくて海の底へと沈んで行ってしまったのかもしれない。

今まで誰にも本心を打ち明けようとしなかったから、自分を殺してしまいたくて、自身から強く首を絞められてしまったのかもしれない。

 

水中でみっともなくもがきながらでも、少しずつしか息を吸えなくても、私は、私のために息をしてみたい。

私だけのために。

 

いつか、そんな日が来るのだろうか。

 

 

 

 

 

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𓅿𓈒 𓂂𓏸木菟(ミミズク)

・・・10月29日のバースデーバード。

鳥言葉:いにしえの知恵

あの人は線の彼方へ

朱と蒼が交わるこの街から

あの人がいつか居なくなるような

そんな気がしていたの

微かに香っただけなのに

確かに私の横を通り過ぎた

 

 

道路の白線が歪む彼方へと

引き寄せられていく背中を

私は見つめることしか出来なくて

その場に立ち竦んでた

 


あの日から私は

朱と蒼の狭間から抜け出せない

あの人が居なくなってから

上手く呼吸も出来なくて

 


何にもなれず

誰にもなれぬまま

 


知らないふりをした人たちが

通り過ぎながら何度も笑う

私の耳に雑音が突き刺さっても

色の無い声をして微笑み続けた

 

 

あの日の香りは思い出せなくても

確かに私の中に在ったもの

 


朱と蒼が交わるこの街に

あの人が帰ってくるような

そんな気がしているの

馬鹿みたいに待っている

私は今も独りぼっち

 

 

あの日の2人だけを残して

雨の日の鶎

空が、泣いている。

僕も、鳴いている。

空から降る涙の粒たちに全身をびっしょりと濡らされながら、僕は世界を嘆いた。

 

《如何して僕は棄てられたの?》

 

兄弟たちは選ばれた命。片や僕は、選ばれなかった命。一体何が違っていたのだろう。

ねぇ、空よ。泣いていないで教えておくれ。

 

《いっそ生まれてこなければ良かった・・・。》

 

どうせ生きていたって、今日こうして棄てられたことや傷付いたこの現実から離れることなんて、この先も出来ないだろう。僕の心は、殺されたまま生きていく。

命をまるでゴミのように棄ててしまえるお前たち人間は、一体いつから神になったんだ。自分の都合の良いように正当化して、簡単に逃げ場所を作り出してしまえるおめでたい頭を持った生き物。言葉を喋れることが強者で、喋れないことが弱者だとでも言うのだろうか。

人間という名の、ただの悪魔。

僕たちがどんな思いで日々を生きているのか、お前たちは一生検討もつかないのだろうな。

 

愛されたくて鳴き叫んで、愛されるために擦り寄ったって、心は届かない。魂を削って叫ぶこの声を、お前たちは自身の好きなように解釈する。

僕に向かって“ごめんね”と謝り去って行く、飼い主だった人。薄っぺらい謝罪なんて要らない。謝るくらいなら、はじめから棄てないで欲しかった。

笑顔で僕の頭を撫で、“かわいい”と言って手を振り去って行く、名前も知らない人たち。その場しのぎの言葉も要らない。最期まで愛してくれよ。

お前たちの言葉が喋れないからといって、何も感じていない訳じゃない。

僕とお前たちは同じ命の筈なのに・・・。

 

《如何して僕は自分で選ぶことが出来ないの?》

 

 

 

 

 

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

 

 

 

 

 

私、この身体の全てがぴったり収まるような居場所が欲しかったのです。それはまるで温かい毛布に包まれているような、心から安心できる場所。

現実では、胸を温めると背中が冷たく凍えてしまい、背中を温めると今度は胸に空いた穴から風が吹いてしまうような場所に私は居ました。

いつも身体のどこかが寒かったのです。

 

何も分からないふりをしていたけれど、本当ははじめから分かっていたの。

あなたの居場所はあの人だから、あなたは私の居場所にはなってくれない。あなたは帰る場所がある癖に、たまに違う寝所を探しに私の元へフラリとやって来る。

それを受け入れてしまう私だから、いつの間にかこんなにも自分の身体が冷えてしまったのでしょう。

 

「いっそ嫌いになれたら良いのに・・・。」

 

酷い人だと大声で罵ることが出来たなら、どれだけ楽になれるのでしょう。私はあなたに嫌われたくなくて、都合の良い女になってしまったの。自分自身がどれだけ寒くても、皆のように上手く呼吸が出来なくても、あなたに会えなくなる方が遥かに辛いと感じてしまうの。

つくづく私は馬鹿な女ね。

そんな風にあなたを想っていたけれど、私は結局棄てられた。必死にしがみついていた場所なのに。あなたの一言で、簡単に失くなった。

 

「独りぼっちになっちゃった。」

 

空が、泣いている。

私は、堪えている。

傘で涙を受け流しながら、私は世界から目を逸らした。

 

 

 

 

 

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

 

 

 

 

 

《このまま死ぬのだろうな・・・。》

 

もう、疲れてしまった。

ゆっくりと瞳を閉じる。

 

僕に向かって降り続ける涙が、急にぴたりと止んだ。驚き、見上げる。傘を差した女がひっそりと立っていた。

当たり前のように生きていることが当たり前ではないことに気付いていない、愚かな人間。どうせ同情しながら頭を撫でるだけで気が済むのだろう。お前が来る前にも、何人もそういう奴らが僕を見下しては、“可哀想”と言って去って行った。

「私はなんて優しい人間なのだろう」と大好きな自分を褒めてやりたいのだろうな。結局見殺しにするのと何も変わらないのだから、僕を棄てた奴と一緒なんだよ。

ほら、やるならとっととやれよ。そして一刻も早く目の前から消えてくれ。

 

 

傘を差したまま、女はしゃがみ込んだ。洋服の裾が地面に付いて濡れてしまっているけれど、お構い無しだった。

 

「君も棄てられちゃったの?」

 

僕の頭をそっと撫でる。

同時に、大粒の涙を流した。

 

「私たち、一緒だね。」

 

びしょ濡れに汚れた僕を抱き上げ、そして抱き締めた。

 

 

 

 

 

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

 

 

 

 

 

一人の家に帰るのも寂しくて、私は宛もなく歩いていた。

降り止まない雨の音、自動車が私の横を通り過ぎる音、誰かの楽しそうな笑い声。

その中から、ほんの微かに聴こえる。何かを懸命に訴えるような、苦しく哀しい声だった。

それがまるで私を呼んでいるかのようで、声の方へと導かれた。小さく震えている。今にも消えてしまいそうな命だった。

 

驚いて逃げてしまわないように、静かにゆっくりと近くに寄る。

その命はもう何かを訴えるのを止め、生きるのを諦めたように瞳を閉じていた。

私はしゃがみ込み、真っ直ぐにその命を見つめた。

噛まれるかもしれない。そんな少しの恐怖を抱えたまま、頭を撫でた。

威嚇も抵抗もしなかった。

 

空がずっと泣いているから、君はこんなにびしょ濡れになんだね。寒かったでしょう?きっと独りぼっちで寂しかったよね。

丁度私も同じことを思っていたの。

 

「君も棄てられちゃったの?」

 

“君も”なんて言ってみたけれど、辛いのは君の方だね。こんなに震えて・・・。計り知れないほどの心の傷の深さを想うと、先程まで必死に堪えていた涙が止めどなく溢れてきた。

 

「私たち、一緒だね。」

 

“一緒”だなんて烏滸がましいけれど・・・。

だって私はこの雨から身を守る術を知っている。私のこの辛さなんて、君に比べればなんてことないと言われてしまうかな。

君は元気なうちに此処から離れることも出来た筈なのに、敢えて留まっていたんだね。愛する人が迎えに来てくれるかもしれないと、信じて待っていたのかな。

小さな愛しい命を優しく抱き締めた。

 

 

 

 

 

𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄

 

 

 

 

 

空が、泣いている。

僕は、それを窓越しに見ている。

温かい部屋の中で。

 

「行ってくるからね。」

 

玄関の扉が閉まるまで、彼女を見送る。それが僕の日課になった。

名無しの僕は、彼女に名前をもらった。僕たちが出逢った時に空から降り続けていた涙から名前を付けようと彼女が言った。

彼女は、困ったような笑顔で「気に入らなかったらごめんね。」と言った。あからさまに喜ぶのも癪なのでクールにキメていた僕だけれど、実は意外と気に入っている。

 

あの時、涙を流しながら消えそうな僕を拾ってくれた彼女。それが今の僕の居場所だ。彼女は、僕を棄てた奴と同じ生き物だけれど、全く違うもののように温かい。

僕の言葉が伝わることがなくても、彼女はいつも優しく語りかけ、そして僕の気持ちを分かろうと努めてくれる。それが何とも心地良く、それだけで嬉しいんだ。

 

《いってらっしゃい。》

 

僕は彼女と同じ言葉を心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

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君を迎えて1年が経った。

時間が経つにつれ、ようやく分かった。居場所は、爪を立てて必死にしがみつくようなものでは無く、自然と自分の中に作られていくのだと。

それは毛布に包まるように、身体の全てがぽかぽかと温かい。

私、もう寒くないよ。

 

 

「ルイ、おいで。」

ゆっくりと手を伸ばす。

照れながら此方へ向かってくる愛しい君を抱き締める度に思う。私がこの子を拾ったのでは無く、私がこの子に拾ってもらったのかもしれないと。

心から、出逢えて良かった。

 

「行ってくるからね。」

 

玄関先に座り、可愛い顔で私を見上げる。

日々、君が愛しい。

それだけで、今日も私は頑張れる。

 

《いってらっしゃい。》

 

優しい声が聴こえた。

 

 

 

 

 

✎︎________________

 

𓅪鶎(=菊戴)キクイタダキ

・・・鳥言葉「命のかがやき」。

ハクトウワシの空

 

大空を羽ばたきたいと願う

 

雲の切れ間をくぐり抜け

誰にも手が届かないほど

遠い所へ

晴れやかな青い空に

手を伸ばす

 


なんのために生まれてきたの

肝心なことは誰も分からないまま

胸の奥が真っ黒に渦巻いて

迷い子たちは独りぼっち

 

いつになれば

ここから抜け出せるのだろう

 

 

鋭利な言葉が飛び交う毎日に

本当の気持ちを隠しているの

きっと人は

傷付いてばかりなのに

それでもまた

誰かを傷付けている

 

決められた道なんて無ければ

こんな風に迷うこともなかったの

 

 

それでも

願わずにはいられない

いつかこの背中には

きっと美しい羽が生えて

あの空へ飛び立っていける

 

そうやって

ただ自分らしく

夢を見ていたいだけだ

追いつけない光を探しに

 

海鴉が鳴いている⑻

何度も何度もその手紙を読み、彼女の言葉を深く心に刻んだ。その間、私の涙は絶えず流れていて、涙は枯れることはないのだという事を知った。

 

 

 

気が付けば外は明るくなっていた。

こんな手紙を読んでしまったら、さすがに眠れる訳が無い。

泣き腫らした目をしたまま、部屋にある必要な物を全て鞄の中に詰め込んだ。こんな顔を見られたくなかったので、両親が居ない間を見計らって実家を後にし、一人暮らしをしているアパートに戻った。

無事自宅に帰り着いた事を彼に連絡し、翌日に会う約束をした。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「ごめんね、忙しいのに。仕事大丈夫?」

「全然平気だよ。話って何?式の準備のこと?」

私はもう、人から目を逸らしたり、俯いたりしない。真っ直ぐに彼を見つめた。

「ごめんね・・・別れて欲しいの。」

「え?・・・なんの冗談?」

本気にしていない様子の彼は、ヘラヘラと笑った。

「ごめん。冗談ではないの。」

「・・・どうして?」

「私、貴方にも自分の気持ちにも嘘をついてた。」

 

 

 

彼に全てを打ち明けた。

話しても理解してもらえないだろう。でももうこれ以上自分の気持ちに蓋をしたり、誤魔化すような事は出来ない。

今更、彼女を探し出してもう一度やり直したいとか、少女のように夢を見ている訳じゃない。

ただ・・・

“普通の幸せ”のために彼を利用し、平穏だけを手に入れて結婚したとしても、気持ちをぶつけ合えない生活が上手くいくとは思えない。

私は彼を好きだけれど、愛してはいない。酷かもしれないが、それだけは明確に分かっている。

その罪悪感を抱いたまま一緒になるのは辛いし、彼にも失礼だ。

 

 

 

「・・・本当にごめんなさい。」

彼は暫く言葉を失っていた。

その間、私の全身には異常なまでの力が入り、微かに震えていた。

どんなに罵声を浴びせられようと、例え暴力を振るわれようと、今日だけは全て耐え抜くことを覚悟していた。

私は彼を深く傷付けてしまったのだから、それくらいされて当然だ。

「どうしても、もう一緒に居られない?」

「・・・ごめんなさい。」

「そっか・・・うん・・・。詩音の気持ちは分かったよ。」

彼はいつもと同じ穏やかな声をしていた。そして、そのままのトーンで話し続けた。

「何も知らないで実家に泊まらせたり、もしかして今まで他にも沢山傷付けてしまうような事を言ってしまっていたかもしれない。詩音、ごめんね。」

「将太は何も悪くない!言わなかった私が全部いけないの。」

「詩音は悪くない。昔も今も、何も悪くないよ。ただ一人の人を愛していただけだ。僕は君を愛していたのに、どうして君の苦しみや孤独に気付いてあげられなかったのかな・・・。ごめんね。」

私の気持ちを理解し、涙してくれる人に初めて出逢った。そして、そんな優しい人を私は傷付けてしまった。

こんな風に胸が張り裂けそうになるような辛い出来事が、きっとこの先も私を待ち受けていることだろう。

でも、それも覚悟の上だ。

 

 

 

「詩音、今までありがとう。さようなら。」

こんな私に、彼は最後まで優しかった。

ごめんね。

私、貴方を愛せたら良かった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

私は再び一人になった。

彼と別れた事を、電話で両親に報告した。

当然理解される筈もなく、ただただ一方的に激怒され、「本当に恥ずかしい」と捨て台詞を吐かれた。今回ばかりは勘当されたようなものだ。

けれど不思議と寂しくは無かった。

籠の外に解き放たれたような気がして、寧ろ清々しい気持ちだった。

 

彼女を想いながら生きていることを、もう誰かに遠慮したり、我慢しなくて良いのだ。

 

 

 

ーーー

 

 

 

アラタへ

 

返事が遅くなってしまい、ごめんなさい。

私も貴女に初めて手紙を書いています。

 

 

 

元気ですか?

ありきたりな始まりですが、私は何より貴女の無事が知りたいのです。

あれから9年もの年月が経ったけれど、今だに貴女の夢を見ることがあるのです。大人になった貴女を知らないくせに・・・可笑しいでしょ?

夢の中ではいつも貴女が傍に居て、他愛の無い喧嘩をしたり、仲直りをしたり、愛していると見つめ合うの。それが幸せ過ぎて、夢から醒めないでと願ってしまう程です。

 

貴女が居なくなった時、どれだけ考えても貴女の気持ちが分からなくて、私だけが貴女を想っているのだといつも寂しさを抱いていました。

貴女に会えない事がこんなにも苦しいのなら、想いを伝えなければ良かった。好きにならなければ良かった。

そう何度も悔やみました。

然しそれは間違っていたと、貴女からの手紙でようやく気付いたのです。

私達が気持ちに嘘をつくこと無く愛を確かめ合えたことは、紛れもなく幸せなひと時でした。

私達、間違ってなかったんだよね?

 

あの時、貴女は私を守ってくれた。もしあのまま一緒に居れば、きっと私が更に傷付いてしまうと思ったのでしょう。

そのために貴女がどれだけ傷付き苦しんだか、計り知れません。決して弱さを見せない人だから、私は貴女を強い人だと勘違いをして、自分ばかりが辛いと思い込んでしまっていました。その事に、心の底から恥じています。

 

貴女を愛した時のように、また誰かを愛することなんて二度と出来ないと諦めていました。

気が付けば、私達が周りの人間に傷付けられたように、私もまた、罪の無い人を深く傷付けてしまいました。

本当に愚かで、身勝手な女です。

貴女が思うような、素敵な女性には到底なれていないのです。

もしいつか会えた時、こんな人間のままだとガッカリされてしまうでしょう。

だから・・・今更かもしれないけれど、私もちゃんと前を向いて歩いていきたいのです。

それを気付かせてくれたのは、貴女からの手紙でした。9年越しだったけれど、貴女の想いを受け取る事が出来て本当に良かった。

私、これまで沢山間違ってきたけれど、貴女を好きだった事だけは正しかったんだと、今は胸を張って言える。

 

大人になった貴女は、やはりあの頃と同じように、誰よりも素敵な女性なのでしょうね。

もし今、貴女が心から愛している人が居るのなら、どうかその人と幸せになれますように。

そして私も、こんなにも貴女を愛したように、いつかまた心から誰かを愛せますように。

心配しないでね。

私はもう、消えようとしたりしない。

貴女が今日も何処かで生きていると信じて、私も今日を生きていく。

貴女の存在は、私の中に在る愛しい一部です。

 

さようなら、愛しています。

 

 

 

シオ

 

 

 

ーーー

 

 

 

宛先もない、届く事の無い手紙。

こんなに丁寧に字を書いたのは何時ぶりだろう。疲れきった右手を労りながら、ベッドにゆっくりと横たわる。

寝なきゃ。明日も仕事だ・・・。

 

 

 

久しぶりに深い眠りにつく事が出来た。

夢の中の彼女は、相も変わらず私に微笑みかける。

 

 

 

今日も貴女を愛しています。

 

 

 

 

 

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𓅪海鴉(ウミガラス)の鳥言葉

・・・癒されない悲しみ