アメノオト

薄暗くなる空の下で

早歩きになる人達を眺めてた

こちらを見上げては

あからさまに嫌な顔をしてくる

背広を着た後ろ姿

 

数え切れない中の一つでしかない

そんな僕達は

皆、似たような顔をしているんだって

誰かが鼻で笑った

 

見分けなんてつけられやしないね

きっと特別な存在になんてなれないな

そうして諦めていくしか無かったんだ

 

嫌われるのにも慣れてしまった

ただ生きているだけの日々の中

淡々と作業をこなしていくだけ

寂しくなんて無いよ

僕の鼓動は誰にも聞こえない

 

空の色が映し出される水溜まりは

きっと何色にだってなれるんだって

そう思っていたんだよ

簡単に忘れ去られていく事を知って

僕は黒に染まってしまった

 

同じもので溢れてる灰色の世界で

誰かを笑わせることも出来ずに生きてる

 

愛されたくてもがき続けて

それでも皆、避けて行ってしまう

独りでは生きていけないのに

僕の鼓動に誰か気付いて

 

嫌われるのに慣れた振りして

今日も哀しみを降らしている

寂しくないなんて本当は嘘だ

僕の鼓動は誰にも聴こえないのかなぁ・・・

姫黒海燕の彼女

真夜中の田舎道。

街灯は殆ど立っていない。スマホのライトだけを頼りに、行く宛ても無く歩いている。過疎化しているこの集落にコンビニは無い。それに似せたような店はあっても、村の人間が個人で経営している完全にローカルな店。こんな時間には疾うに閉まっている。言うまでもないが24時間のファミレスなどある筈も無い。ただ無数に広がる田んぼや畑たち。そんな緑が広がる綺麗な景色も、こんな暗闇では何も見えやしない。妙な静けさと冷たい風のせいで僕は少し怖くなった。

 

「出て行け!」

鼓膜を突き破るような彼女のヒステリックな声が、未だ耳の奥にこびり付いている。

一体僕が何をしたと言うのだ。

証拠も無いのに浮気を疑い、被害妄想を発動し、此方に八つ当たりをして、最終的に自身の感情の収拾がつかなくなり、僕を家から追い出す。それが不機嫌な時の彼女の行動。

どう見ても被害者は僕の方だ。

然し、変に意見しようものなら火に油を注いでしまい逆効果だろう。頭の中で想像すると恐怖でしかないので、結局言われるがまま黙って家を出るのだ。

 

当たり前だが浮気などしていない。神に誓ってもいい。彼女だけを一途に想っているなんて格好の良い事は言えないが、僕は浮気なんて出来るような器用な男でも無いし、何よりそんな面倒臭い事はしたくないのだ。大体、彼女が言う浮気の証拠なんて、僕から言わせてみれば何の根拠も無いものばかりだ。

例を挙げるなら、

1.スマホをトイレに持って入った

2.スマホを見てニヤニヤしていた

3.スマホのロック番号を教えない

これだけで怒り出す。考えてみればどれもスマホに関する事ばかりだ。こんな下らない言い争いになる度に、スマホを所持するのが当たり前の時代に生きている事に嫌気がさす。

1つずつ弁明していくと、1.は汚い話になるので言い難いのだが、僕は大便をする時にその事にだけ集中すると引っ込んでしまうので、携帯ゲームをする事で集中力を分散し、それを快調に排出するためにスマホをトイレへ持ち込むのだ。何度も説明しているのに全く信じてもらえない。

2.は、動物の動画を観ていて(正直に言うと、たまに可愛い女の子の動画を観る事もある)、ついつい顔が綻んでしまっただけ。でも自分だってテレビに出てくるイケメンにキャーキャー言っているじゃないか。自分の事は棚に上げているが、それとこれと何が違うと言うのだろう。

3.なんてもはや論外。スマホの中身なんて個人情報の塊なのだから、普通は誰でも知られないようにするのではないだろうか。彼女に情報を悪用されるかもなんて事は流石に疑っていないが、これを強要するなんてモラルに反している。現に彼女だって自分は教えないのだから。訊いた事も無いし知りたくもないけれど。

長い年月を一緒に過ごしてみて分かった。彼女は“自分はいいけど相手は駄目”という性格。ジャ〇アンによく似た発想の持ち主なのだ。何かにつけて僕に文句をつけては、攻撃的な態度を取る。

大体、家だって2人で住んでいるのだから2人のものだ。何故僕ばかり追い出されなければならないのか。逆の立場だったらこんな真夜中に相手を家から追い出す事はしない。どんなに喧嘩をしても、仮に相手が浮気をしていたとしても。追い出した後に何か事件に巻き込まれたり命の危険に晒される方が嫌だからだ。これは男と女の違いだろうか。だとしたら、男はたまったもんじゃない。

証拠も無く勝手に疑念を抱いただけで、何故こんなにも酷い仕打ちが出来るのだろう。僕がどうなるかなんて事よりも、結局は自分の機嫌の方が重要なのだろうか。

彼女への不満が僕の心を支配する。それに気付いた時、彼女を好きになった事自体を後悔しそうになったので、急いで頭の中からかき消した。

それにしても寒いな。もう少し着込んでくれば良かった。車のキーも持たせてくれないなんて・・・。

 

 

約1時間程歩き続けると、街灯がある場所まで出てきた。

今、何時だろう・・・。

ずっと真っ暗な所に居たため、すっかり目は慣れてしまった。スマホを確認する。画面が眩しくて思わず目を細めた。

4時か・・・。

徐ろにパーカーのポケットの中に手を突っ込み、相棒を探した。それはあったのだが、肝心なライターを忘れてしまった。吸いたいのに吸えない。その事実を知ってしまった瞬間から、苛々を押し殺していた気持ちが抑えきれなくなりそうだった。

 

「よー、兄ちゃん。こんな時間に何やってんだい?」

人ひとり居ないと思っていたのに、何者かの低く嗄れた声が突然聞こえてきた事に驚き、思わず身体が跳ねた。

恐る恐る振り返る。背後には、髭を貯え、白髪混じりの長髪を1本に束ね、革ジャンを羽織った、如何にもロックミュージシャンという雰囲気を漂わせた50代位のおじさんが立っていた。

「こ・・・こんばんは。」

失礼な話だが、一瞬、熊が出たかと思った。パッと見はそんな風貌でもあったし、田舎なので熊が出没する事は有り得なくもない。

僕は驚いたせいで心拍数が上がり、自分の心臓の音しか聴こえなくなった。

「何だ?バケモンでも見るような顔して!」

怯えた僕を見て、おじさんは黄ばんだ歯を見せて大きく笑った。微かに煙草の匂いがする。

・・・火、持っていないかな。

こんな状況でも、そんな事を考えてしまう。

「未成年かい?1人で何処に行こうってんだ?」

「26です!」

ムキになった僕は、いつもより少しだけ大きな声を出してしまった。髭も生えないような中性的で童顔な顔つきや、168cmの低身長のせいでいつも未成年に間違われる。酒や煙草を買ったり居酒屋に行った際には必ず身分証を確認させられるのも面倒だし気分が悪い。

僕はコンプレックスの塊だ。

「そりゃ〜悪かった!兄ちゃん、暇ならちょっと付き合え。」

おじさんは笑いながらそう言って、こちらの返事を待たぬまま僕を追い抜いて歩き始めた。

まぁどうせ行く宛ても無いし、煙草も吸えるかもしれないからついて行ってみよう。

僕達は暫く無言で歩いた。

 

 

5分程歩くと、ある店の前に着いた。外観はライブハウスのようだが、見た目だけではどういうジャンルの店なのか分からない程にゴチャゴチャしているし、言ったら悪いが結構古びている。昔からあるのかもしれないな。隣村にこんな個性的な店があったなんて今まで知らなかった。きっと僕が何に対しても興味が無いだけなのかもしれないが・・・。

 

「ここは?」

「俺の店よ。気分で酒や飯を出してんだ。」

僕は“へぇー”と薄いリアクションをし、おじさんに続いて中へ入った。

「流石にこの時間は閉店してるんですよね?」

「あぁ。まぁいいからちょっと待ってな。」

そう言ってキッチンの方へと消えて行った。僕は適当に窓際のソファを選んで腰掛け、店内を見渡しながら待った。

おじさんの趣味なのだろう、ギターや海外のポスター、レコードなどが至る所に飾られている。全体的に年季が入っているが、それが逆に洒落ている。そして何処も彼処も煙草の香りが染み付いている。店に入るまでは少し抵抗があったが、中は不思議と落ち着く空間だった。

ふと、店の時計が目に入る。

・・・4時半か。

一睡もせず歩き続けていたので、少しの疲労感と眠気が襲ってくる。

彼女はもう寝ているだろうか。それともまだ怒って起きているだろうか。

彼女の事を考えると、うんざりするほど頭痛がしてくる。僕はまた無理矢理かき消した。

 

「おぉ、兄ちゃんお待たせ!」

そう言って野菜スープと大きめのお握りを1つ出してくれた。持ち合わせが無い僕は困ってしまい、おじさんを見上げた。

「何だそのシケた面は!金は要らねぇから心配すんな!まぁ味の保証はねぇけどな!」

おじさんは豪快に笑った。

 

スープには、大きくカットされた野菜が沢山入っている。じゃが芋がホクホクだ。口いっぱいに頬張ってしまい、ハフハフしながら冷ます。口内を少し火傷してしまったが、美味い。冷えた身体に沁みる。きっと何処にでもあるような野菜スープなのだろうが、久し振りにこんなに美味い物を食べた気がする。

油断すると、思わず涙が零れそうになった。それを我慢しながらスープを啜る。映画などで飯を食いながら泣いている人のシーンを見ても全く気持ちが分からなかったのだけれど、きっとこの何とも言えない気持ちはそれに似た感情なのだろうと思った。

 

「ご馳走様でした。」

食べ終わり、いつもより丁寧に合掌をした。

「めちゃくちゃ美味かったです。」

「おー、そうか!そりゃ良かった!」

おじさんは満足そうに微笑みながら煙草に火をつけた。

「兄ちゃんも吸うかい?」

「はい!実は火を忘れてきて、ずっと我慢してたんです。」

食い気味にそう答えると、おじさんが店の名前が書いてあるマッチを投げてくれた。僕はそれをキャッチし、お礼を言いながら早速煙草に火をつける。思い切り吸うと、先端から微かにジリジリ、と心地良い音がする。

あぁ・・・幸せだ。

吸えなかったのはたった数時間なのに、もう何年も会っていなかったかのように愛しい。温かい食事をご馳走になり、食後に煙草も吸わせてもらった事で、僕の中の刺々しい感情が浄化されていくような気がした。

ところで、ライターよりマッチの火で吸う方がいつもより美味しい気がするのは何故なんだろう。

 

「・・・人生ってのは色々あるよな。考えたくねぇ事や逃げてぇ事も山程出てくるしな。まぁ別に逃げても良いのさ。けどその代わりに肝心な時はバシッとキメる事だな。何があったかなんて野暮な事は訊かねぇよ。此処には兄ちゃんの気が済むまで居ていいぜ。」

そう言うと、おじさんは少し仮眠をとるために奥の部屋へと入って行った。帰る時はそのまま出て行っていいと言ってくれた。

お互いの身の上話は何もしていないのに、不思議と核の部分を分かってくれているような気がした。如何して見ず知らずの人間にここまで優しくしてくれるのだろう。僕が夜中に出歩くもんだから、その辺で自殺でもするんじゃないかと心配したのだろうか。理由はどうあれ、行く宛ての無い僕にとっておじさんの厚意はとても有難かった。

 

再び1人になった。煙草に火をつける。先端から昇っていく、白く細い煙を見つめた。

ソファからお尻を浮かし、体勢を整える。ほんの少しの振動で風向きが変わり、煙が大きく揺れた。それが右眼に入る。突然の痛みで視界が揺れ、涙が零れそうになった。たまにある事なのだが、これが地味に痛い。急いで火を消して、痛みを落ち着かせるために瞼を閉じた。

 

 

瞼の裏。セーラー服の女の子が無邪気に笑っている。彼女は明るくて可愛いと評判で、皆の人気者だった。僕は、密かに彼女に憧れる男子の中の1人だった。自分から話し掛ける事すら出来ない程の奥手な男。勿論、告白なんて出来る筈も無く、何の進展もないまま時は過ぎた。卒業後、僕は地元の大学に進学し、彼女は上京して就職したと人伝てに聞いた。詳細は分からなかった。僕は、何となく彼女にはもう会えないかもしれないと思った。

想いを伝えられぬまま、初恋は儚く散った。

 

大学の同じゼミで知り合った子が初めての交際相手だった。本当に失礼な話なのだが、その子を特別好きだった訳ではない。異性と交際経験のない事に焦っていた年頃だったし、相手からの積極的なアプローチを断り切れず、流されるまま・・・というのが本音だ。

けれど、此方がその程度の気持ちでいるのは相手に伝わってしまうものなのだろう。半年もしないうちに「貴方と居ても楽しくない。」と振られた。僕はその言葉に納得してしまった。

僕も、僕と居ても楽しくないだろうな。

 

数ヶ月後、アルバイト先の1つ年下の女子高生と交際した。小動物系の可愛らしい子で、見た目がタイプだった。何となく自分に好意を抱いてくれている事が分かったので、告白をしてみるとOKを貰えた。多分、1年位は続いたと思う。もしかしたら初恋の彼女より好きになれるかもしれないと思った。そんな矢先、アルバイト先の僕の友人と浮気しているところを目撃した。当然それを問い詰めると、彼女は謝るどころか開き直り、「貴方は優しいよ。でもそれだけでつまんない。」と言われた。何故浮気された方が更に傷付けられなければならないのかと思ったが、彼女の気持ちも分からなくはなかった。

僕も、僕はつまらない人間だと思ってるよ。

 

女と居るのは、金と気を遣うばかりで面倒だった。これ以上傷つくのもしんどいだけだし、別に僕は一人でも平気だし、一生独身なのかもしれないと思った。

後に数回告白される事はあったけれど、誰とも交際はしなかった。野郎ばかりで集まって、何も考えず馬鹿みたいに笑って過ごすのが楽で良かった。大学卒業後、僕は公務員になり、仕事に慣れるために忙しい日々が始まった。友人たちも同じく仕事に追われるようになり、少しずつ疎遠になってしまった。

大人らしく、つまらない日々が続いた。

 

或る日曜日、いつものスーパーで食材の買い出しをしていると、懐かしい声が僕の名前を呼んだ。

「久しぶり〜!」

振り返ると、僕の知らない綺麗な子が僕に向かって手を振っている。勿論、声だけで彼女だと分かったのだけれど、東京へ行って垢抜けたのか、可愛さが更に増していた。

胸が高鳴る。忘れかけていた感情が呼び起こされ、僕は呼吸をするのも苦しくなった。

「え・・・あ、久しぶり!」

「私の事憶えてる?懐かしい〜。」

憶えてるに決まってるじゃないか。忘れた事なんて一度も無い。僕は心の中で叫んだ。

それにしても、見れば見るほど可愛いな。初恋フィルターがかかっているからだろうか。

もう二度と会えないと思っていた彼女との再会。これっきりで終わりにしたくない。

僕は瞬時にそう思った。

「いつまで居るの?時間があったら皆で遊ぼうよ。」

「私はいつでも暇してるよ〜!同窓会みたい。楽しみだね!」

僕達は連絡先を交換し、改めて会う約束を交わした。

 

兄から借りた車を出し、自分を含めた男女6名でボーリングへ行った。僕は、彼女だけを見ていた。あの頃が蘇る。当時は話す事さえ出来なかったのに。今、僕の隣に彼女が居る。彼女が僕の方を向いて笑っている。この瞬間が幸せの絶頂のように思えた。

 

「実はね、こっちに帰ってこようと思うんだ。」

2人きりになった帰り道、助手席で彼女が呟いた。

「・・・え?」

「仕事辞めて、こっちで再就職しようかな。」

「・・・何かあったの?」

「うーん・・・ちょっと色々あって。」

彼女は僕の方を見て、無理して笑った。

そして、順を追って話し始めた。

 

高校卒業後、小さなアパレル会社に就職。憧れの東京。好きな仕事にも携わる事ができて幸せだった。少しずつ仕事にも慣れ、同僚とも仲良くなり、遊びに誘われる事も多くなった。仕事もプライベートも充実していた。そして、会社の取引先として出逢った10歳年上の男性に恋をして、4年間交際した。彼と結婚したいと思っていた。けれど、いつまで経っても結婚を渋っている相手に不信感を抱き、問い詰めたところ、実は妻子持ちだった。

私は不倫相手だった。他所様の家庭を壊すような恐ろしい存在だった。例え知らずに交際していたとしても、もしいつか御家族に知られてしまった時、私の事情や気持ちなど関係なく傷つけてしまう。御家族に対して申し訳なく、自分の事も今まで騙していた彼の事も許せなかった。

彼と別れる事にしたけれど、少しずつ色んな事が上手くいかなくなった。仕事も失敗ばかりするようになった。何も出来なくなっていく無能な自分を、1番近くで見ているのが辛くなった。そしてついに耐えられなくなり、休みを貰って地元に帰ってきた。

 

彼女をこんな風にした奴は誰なんだ。

人を殴った事もない癖に、怒りや悔しさの余り、その男を殴りたくなる衝動に駆られた。

路肩に車を止め、感情の赴くまま彼女に言った。

「帰っておいでよ。」

「・・・え?」

「僕が君の側に居る。」

女なんて金と気を遣うだけで面倒なのに。そんなの痛い程身に染みて分かっているのに。考えるよりも先に言葉が出てきた。この時の僕は、未来の自分が傷付けられるかどうかなんて事よりも、今彼女の心に付いている深く大きな傷を、誰にも見せないように全て僕が覆ってあげたいと思った。

彼女を離したくない。

「何それ、プロポーズ?」

彼女はクスリと笑った。

「あ、いや・・・!そんな大袈裟なもんじゃないよ!ただ、僕が君と居られたらいいなって思ってるだけ!」

「だからそれ、プロポーズじゃん!」

今度は大きな口を開けて、涙を流しながら思い切り笑った。

 

彼女が愛しい。愛しくて、僕まで苦しい。

助手席のシートベルトを外し、彼女の身体を自分の方へと強く抱き寄せた。彼女は抵抗しなかった。僕達はその勢いで何度もキスを交わし、一緒に僕の家へと帰った。そして、そのまま朝を迎えた。

 

程なくして、彼女は勤めていた会社を辞め、荷物を引き上げ、実家ではなく僕の家へ転がり込み、この辺では大きめのスーパーの中にある洋服屋に就職した。

そうして、あっという間に3年という年月が経ったのだった。

 

あの日から、僕達はお互いに流されるまま一緒に暮らしている。今思えば、彼女は僕でなくても良かったのかもしれない。弱っている時に偶然現れたのが僕だった。あの苦しい状況から逃れられるなら、僕じゃ無くても良かったのだろうか。

だって彼女は未だに僕に好きだと言ってくれた事がない。・・・いや、もしかしたら僕も口に出して言った事は一度も無いのかもしれない。お互い様だな。

お互いに向き合う事もせず、勝手に分かったつもりになっていただけなのかもしれないな。

 

 

瞼の向こう側が明るくなってきた。僕はゆっくりと瞳を開き、スマホの画面を見る。

5時半・・・。少し眠ってしまっていた。彼女はどうしているだろうか。

 

彼女の事を考えると、いつも心や頭が痛くなってしまうのに、それでも結局、夢の中でだって考えてしまっている。

まだ少年だったあの頃。彼女に心を奪われてからというもの、僕の中心は彼女が陣取っている。どんな女の子と居ても、彼女の笑顔の方がずっと可愛いとか、彼女の声が聴きたいとか、無意識のうちに比べてしまっては、彼女が僕にとっての基準になっていた。

知らぬ間にこんなに好きになってしまっていたんだな。初恋の頃とは違って、今では随分と憎たらしい所も面倒臭い所も増えているけれど。それでも僕は、彼女の事を考えている。

 

けれど思い返せば、彼女が不機嫌な時、僕の浮気を疑ってくる時、急に泣き出す時、今まで僕はきちんと向き合ってきただろうか。ただ一緒に居るだけで彼女を守れているなんて、都合の良い事を考えていたのではないだろうか。争う度、僕はいつも距離を置いてお互い冷静になろうと思いながら、肝心な事から目を背けていただけなのではないだろうか。

近頃はもう彼女の怒った顔や泣いた顔を見るとうんざりして疲れてしまうので、耳に突き刺さるような悲痛な声は聞こえても、顔は見ないように目を逸らしていた。その所為で、笑った顔以外思い出せない。

「出て行け」と言われ、言われるがまま直ぐに家を出ていく僕の後ろ姿を、彼女はいつもどんな顔で見ていたのだろう。

 

 

彼女と離れている事に、初めて不安を感じた。

きちんと話がしたい。

緊張で、微かに震える手。電話を掛ける。

「・・・もしもし。」

スリーコールで彼女は電話に出た。その声は、怒っているようにも泣いているようにも聴こえた。

「ごめん・・・寝てた?」

「眠れる訳ないでしょ。今、何処にいるの。」

「何処って・・・自分が追い出した癖に。」

いつもは心の中で思っているだけの言葉。思い切って口に出してみると、不思議と笑いがこみ上げてきた。

「何笑ってんのよ。」

「ごめんごめん、今から帰る。帰ったら少し話そう。」

こんな事を僕の方から言った事がないので、彼女は驚きの余り声を発するのを忘れているようだった。きっと電話の向こうで馬鹿みたいに口を開けているだろう。

「あ、でも今から帰るとなると一時間位かかるかも。」

「何でそんな遠くまで行ったの?馬鹿じゃない。」

「だって・・・こんなド田舎で追い出されても、歩く以外に何もする事ないじゃん。」

僕は珍しく声を出して笑った。彼女も釣られて笑いそうになったが、怒っている手前素直になれず、我慢しているようだった。

「どの辺に居るの?車で迎えに行ってあげてもいいけど。」

僕が珍しく陽気に話しているからか、彼女の方も珍しく優しかった。

「え、いいの?じゃあお願い。ーーー」

現在地を説明し、電話を切った。

 

 

いつの間にか、外は朝日が眩しく光っていた。

僕は、憧れだった彼女から少しずつ離れていく今の彼女を、これから先も愛していけるだろうか。彼女は、いつも肝心な時に逃げてばかりいるビッタレな僕を、許してくれるだろうか。

今まで僕が言えなかった事や、彼女から目を背けていた事。それに気付いたからには、これからは出来る限り向き合っていかなければならない。向き合う事で、この先の二人がどうなっていくのか、見当もつかない。最悪、傷つけ合うだけで終わってしまうかもしれない。

怖いな・・・。

それでも、自分の気付かぬうちに失いたくないのなら、好きなものからは逃げてはいけない。

 

二人で生きていくとは、どういう事なのだろうな。

 

マッチを擦り、最後の1本に火をつける。ゆっくり吸って、大きく吐き出す。窓からは光が差し込み、吸殻が入った灰皿を照らしている。僕は、おじさんから貰ったマッチの箱を大切にパーカーのポケットに仕舞った。

煙草を咥えたまま立ち上がり、カウンターに置いてあったメモ紙と鉛筆を使って、おじさんに手紙を書いた。今日の食事代も支払いたいし、おじさんにも会いたい。必ずまたここに来よう。次に来る時は、出来れば彼女も一緒がいいな。

 

真っ暗な細い道、冷たい風、おじさんの嗄れた声、年季の入った店、温かいスープ、マッチで火をつけた煙草の味、夢の中、僕と彼女・・・

たった数時間の出来事だけれど、今日の事はきっと一生忘れないだろう。

 

僕は窓の外を見ながら、彼女が来るのを静かに待った。

青翡翠は羽ばたく

「貴女は見た目で得をする。」

 

私が今まで男達から言われてきた言葉です。

クールで、賢くて、ミステリアスで、素敵です、なんて。定型文のような台詞ばかりで笑っちゃうわ。

そうやって勝手に私という人間を創り上げるのよ。

期待させてしまったなら申し訳ないけれど、残念ながら私はごくごく平凡な女なのです。

いいえ、謙遜などではありません。

私という女は、私の此処にだけ在るのです。

それが、私です。

現実の世界にも王子様とやらが居るならば、その御方に私を見つけて欲しかった。

けれど、朝目を覚ますと思い知るの。

そんな人、居る筈がないのよ。

私の心の外には虫が沢山群がっているのに、心の中は独りぼっち。

いつでも寂しかったわ。

 

 

「私は見た目で損をする。」

 

何だかんだで生きてきました。

そうね。ただ生きてるだけでした。

息をしている間、ずっと独りでしたから。

他所様からは近寄り難いと言われ、実際話せば、意外と普通の人なのね、なんて。

勝手に期待しておいて、酷いと思いません?

人から羨ましがられ、そしてガッカリされる。

そこまでが私の人生セットなのです。

物珍しさで寄ってきてはすぐに飽きられて、味の無くなったガムのように簡単に吐き捨てられるのよ。

男の前で嘘泣きが出来るなら、私だってそうしたかったわ。

 

 

「所詮、君は顔だけなんだね。」

 

思い返せば、恋人達から最後に言われてきました。

他人にぶつける言葉だからと軽くみて、どいつもこいつも好き勝手な事を言いやがりました。

そして最初から私との思い出なんて無かったかのように、嘘泣きするような女の所へ帰っていきました。

一度でも謝ってくれた事があったかしらね。

捨てられるのは馬鹿な尻軽女では無く、何故かいつも私の方でした。

其方が先に好きと言った癖に。

本当、馬鹿ばかりだわ。

戸籍にバツは付かなくたって、心はしっかり傷付くものよ。

 

 

私が一体何をしたというのでしょうね。

前世は極悪人だったのかしら。

それとも恨まれるような生き方をしてしまっていたのでしょうか。

それならそうと言って欲しいものだけれど、誰も何も言わなかったわ。

卑怯者ばかりで嫌になっちゃう。

 

そう。私はきっと恵まれなかったのね。

出逢ってきたのは、私の首根っこを掴んで、崖から簡単に突き落とすような人達ばかりだったわ。

哀しいという感情なんて、とっくに蓋をしてしまったわ。

 

 

「もう、生きていたくない。」

 

私は自殺を図った事がありました。

けれど、目が覚めると天井が見えました。

死ぬことさえも私を裏切ったのよ。

 

その時、初めて周りは動揺しました。

何にそんなに追い詰められていたの?

皆が私に尋ねました。

鈍感さは人を傷付けるのだと思いました。

鈍感な人には何を言っても伝わらないと諦めがつきました。

私の涙は枯れ果てました。

 

 

私は一体誰なのでしょう。

周りはいつも私の話をする時、私の知らない人の事を言っているようでした。

最初から私の頭が可笑しかったのでしょうか。

もう、自分がどんな人間だったのかさえも忘れてしまいました。

 

 

私はこの先どうやって生きていけば良いのでしょう。

解らなくなってしまいました。

大切にしていた私の筈なのに、それさえ疑ってしまうのです。

私は、子供でも大人でも男でも女でもないのかもしれません。

或いは、人間でさえ無いのかもしれません。

 

私は、何者なのですか。

 

何方か、答えを知っていませんか。

 

誰か、居ませんか。

出口の見えないトンネルの中で

 

幼馴染みが鬱になった。

僕達は別々の高校に進学していた。当初、病気になった時期や詳細は分からなかった。久し振りに会う彼は兎に角変わり果てていて、会話をする事さえ出来なかった。彼のお母さん曰く、どうやら彼が虐められっ子を庇った後に、虐めの矛先が自分に向かった事が原因のようだった。

彼は昔からそういう男だ。そういう子を放っておけない勇敢な奴だった。幼稚園の頃、まさに僕自身が友達から仲間外れにされた時、彼だけは僕を助けてくれたのだ。それからというもの、彼は僕にとって憧れの存在で、ヒーローだった。誰よりも強い人間なのだと思っていた。

 

彼に会った僕は愕然とした。元々は活発なサッカー少年で、真っ黒に日焼けしていた筈の身体は、まるで太陽を知らないかのように青白くなっていた。綺麗だった筈のその腕は、無数のリストカットの傷が痛々しく泣いていた。その傷を覆うように、彼は一年中長袖を着るようになった。

「生きていくのが怖い」と言った彼の瞳は、生気を失っていた。昔はあんなによく笑う奴だったのに・・・。信じられなかった。彼が僕の知らない誰かになって、何処か遠くに行ってしまうのではないか。漠然とした不安を感じた。

 

僕は無知で無力だった。いとも簡単に彼を変えてしまった病気が憎かった。「知らない」という事がこんなにも怖いものだという事を、僕はその時初めて知った。

鬱とは一体何なのだ。本やインターネットを使って、様々な情報を頭に叩き込んだ。ほんの少しでもいい。一筋の光を掴みたかった。けれど、知れば知る程どうすればいいのか分からない。僕は無い頭で悩み、考え、彼自身と向き合う事を決めた。

本心を言うなら、何を選ぶのも何処へ進むのも怖かった。彼にとってそれが正解では無いかもしれないからだ。それでも選んで、進むしかない。細く頼りない枝だとしても、数本あるうちの一本でもいい。彼にとっての添え木でありたい。そんなのお前のエゴだと言われるかもしれない。それでも僕は、彼を失いたくなかった。本当の彼が、どんな人間だとしても。

 

 

時を経て、僕達は大人になった。

彼の鬱は改善傾向にあった。一番症状の重かった時期を思い出話に出来る位になった頃、僕は一人の女性に出逢った。

彼女もまた、鬱を患っていた。僕と彼女は互いに好意を持ち、交際する運びとなった。彼女とは、約三年間暮らしを共にした。

 

彼女は、調子が悪くなると僕に言った。

「貴方は本当にこの病気を理解しているのか?」

僕は、全てを理解していると嘘は吐けなかった。鬱病を患っている彼女のパートナーとしては当事者であるが、病気を患っている当事者では無いからだ。想像するしか出来ない事が数え切れない程にあったのも事実だった。

彼女の言葉は、やるせない僕の心に小さな棘を刺した。それでも、彼女をこうさせたのは病気のせいだと思った。そう思うようにした、という方が正しいかもしれない。僕にはそう思う事しか許されないと感じていた。でなければ、この長い長いトンネルの先に、いつまで経っても光が見えてこないような気がした。

 

然し、とうとう彼女には届かなかった。

僕の気持ちなんてこの広い世界にはありふれていて、何も特別なものではないのかもしれない。僕は、涙を流す事さえ許されないと思った。

 

何処まで走っても暗闇だった。その中で、彼女は僕の手を離した。どれだけ捜しても彼女は居ない。それでも嫌いになんてなれない。僕の心には、彼女の破片が刺さったままだ。

他人は馬鹿馬鹿しいと笑うだろう。けれど、胸に手を当ててみると、今でも彼女の感触が残っているのだ。

 

どんなに想っても、彼女は居ない。僕には彼女の傷を癒す優しさや、守り抜く強さが足りなかった。それが現実だった。

 

 

再び年月が経った。

僕は、自分の感情を上手くコントロール出来ず、思うように眠れなくなっていた。金縛りに遭ったり、幻覚や幻聴の症状が起こる事も屡々だった。

今思えば、とっくに自分でも変化に気付いていた。然しその頃の自分は、「大丈夫」「まだやれる」と、高を括っていた。

 

ついには何も出来なくなった。

そして僕も、鬱になった。

 

仕事は順調だった。私生活も特に不自由な事は無かった。鬱になった根本の原因はよく解らない。

ただ、僕は、生きるための電池が切れてしまった。

 


ふと彼女を想う。

当時の僕は、彼女の苦しみを共有出来ないことに苦しんでいた。同じ病気になってみなければ本当の意味では解れないし、同じ状況になった時に初めて理解出来るのかもしれないと思っていた。

けれど、そうではなかった。

僕は、彼女と一つにはなれない。

 

彼女は、「鬱という病気を理解して欲しい」と言った。けれども僕は、「鬱という病気を理解して欲しい」というよりは「鬱という病気になった僕に寄り添って欲しい」と願ってしまうのだ。

例えば、そっとしておくのが最良と本に書いてあったとして、確かにその対応がベストな人も居る。然し、病気を打ち明けた途端に距離を置かれてしまい(相手は気遣いのつもりでも)、「普通じゃない」レッテルを貼られたようで何だかとても寂しく、疎外感を感じてしまう人間も世の中には居るのだ。それはどんな病にも言えるかもしれない。

それぞれ違う人間なのだから、違って当たり前なんだ。今ならそう思えるのに。

 


僕は今、あの幼馴染みや家族に支えられて生きている。

病を患っている人を、隣で支えている人。彼等も本当はギリギリの状態なのかもしれない。何が相手にとって最善なのかを慎重に考え、時に間違い、それでも諦めず、大切に想い、思い悩む日々を過ごしている。共倒れして崖から落ちてしまわないように、踏ん張ってくれている。

同じにはなれなくても、一緒に戦ってくれている人が居る。今の僕にとって彼等は、太く心強い一本の添え木なのだ。

 

側に居ることを決断する人も勇気が要る。皆、とても怖いのだ。その怖さも承知の上で、一緒に居たいと思ってくれる。陳腐な名前かもしれないが、それを愛と呼ぶ他に僕には言葉が見当たらない。

 

 

今は何処か別のトンネルの中に居る君へ。

あの頃の僕は、無意識に自分の考えを君に押し付けてしまっていたのだろうか。今でも君を想う度に、心の奥がぎゅっと縮んで苦しくなるよ。

僕達は確かに同じ名の病を患った。それでも「同じ」になれることは決して無いのだろうね。

哀しいね。寂しいよね。それでも僕は、今日もこうして生きているよ。

月を眺めた時、もう明くる日は目が醒めないで欲しいと願う日があって。そして明くる日、太陽に絶望する日があろうとも。

僕の隣は、明日も優しさに溢れた自分だけの居場所があると信じていたいから。

からっぽ

私は、私の人生、何処から間違えてしまったのだろう。このまま老いて、死にゆくのをただ待っているしかないのだろうか。少女の頃は、漫画に出てくるヒロインのように、運命の人と出逢い、恋をして、結ばれる。そんな、誰もが憧れるハッピーエンドを望んでいたけれど。五十にもなった私が、人知れずそれを未だに望んでいるのは、可笑しいだろうか。私の人生、主人公は私の筈だったのに。結局、脇役で終わっていくしかないのだろうか。

 

 

私の家庭は、決して裕福とは言えなかったが、共働きの両親のおかげで何不自由なく育った。三人姉妹の真ん中。姉は世に言う「才色兼備」というやつで、美人で頭も良く、性別に関わらず人気者だった。妹は可愛らしい顔立ちで、今では流行りの「あざとい女子」という感じ。男性から、かなりモテていた。同性から妬まれても気にしないような強さも併せ持っていた。

私と言えば・・・ごくごく平凡。容姿、頭の良さ、運動神経、どれをとっても「可もなく不可もなく」。それでも人並みだと自信を持てれば良かったのだが、どうしても自分自身が姉妹たちと比較してしまい、或いは他人から比較されているような気がして、いつも何処か気後れしていた。

「お姉ちゃんは美人で頭も良くて、良い大学にも通っていて、ミス○○に選ばれて、自慢だね。」

「妹は可愛くてお洒落で羨ましいなぁ。」

同級生達は、口を揃えてそう言った。誉められるのは私自身ではなく、いつも姉妹の事だった。私は一体、何処に居たのだろうか。

 

 

私は姉のように有名大学には入れなかったけれど、地元の大学に入り、そこそこのキャンパスライフを送った。そこそこに恋愛もして、何人かと交際もした。けれど、友人が言うように「彼が大好きで堪らない。毎日でも会いたい!」とは一度たりとも思えなかったし、恋焦がれるような運命の人とも出逢えなかった。交際相手がそんな自分の何処が好きなのか見当もつかなかったし、尋ねる勇気も無かった。

 

大学卒業の年に、サークルの先輩だった彼と結婚し、その翌年に一人娘を出産した。流石の私でも娘の誕生は心から感動したし、この世で一番愛しい存在だと思っている。けれど、どうしても何処か寂しいという気持ちは拭えないままだった。振り返ると後ろには誰も居ないような気がして、いつも不安だった。

 

夫は、結婚当初でこそ優しく接してくれていたが、いつしか家族であるという事に甘え、私への気遣いなんてものは無くなり、家政婦のように扱われた。自分の事は棚に上げ、やれ弁当にブロッコリーを入れるなだの、靴下に穴が空いているのに気が付かないのかだの、亭主の事に関心が無いのかだの、本当に子供よりタチが悪いのだ。

そう言う貴方は、今日私が美容室で髪の毛を5cmも切ったのに気が付かないのだろうか?その美容室の帰りに、花屋で綺麗なピンクのガーベラを見つけたから買って帰り、テーブルの上に飾っている事に気付かないのだろうか?

私は、そんな鈍感で「構ってちゃん」の夫に小言こそ言わないが、内心、彼に対して愛情なんてものは微塵も残っていなかった。娘の父親。それ以上でも以下でもなかった。いっそ浮気でもして、帰りが遅くなってくれればいいのにとさえ思ってしまうのだ。

そんな考えが過る度に、自分は本当冷酷な人間だなと嫌気がさす。そうしてまた一段と孤独になってしまうのだった。

 

 

私の生き甲斐と言えば、娘だけだった。私も夫も、娘が可愛い。それだけは気が合うところであったので、私自身が夫に愛情が無いからと言って、離婚しようとまでは考えなかった。目の中に入れても痛くないとは正にこの事であると、娘を見る度に思う。どれだけ反抗されたり憎まれ口を叩かれようとも、結局は許してしまうのだ。

その娘も、早いものでもう27歳。本当にあっという間だった。勿論、良い事ばかりではなかった。幼稚園に入って、お友達から水疱瘡をもらって大熱が出た時。小学校に入って、クラスの男の子から苛められたと言って泣きながら帰ってきた時。中学校に入って、部活の大会で敗れてしまった時。高校受験に失敗して、友達と離れ離れになってしまうと泣いていた時。私立の高校に入って、暫く馴染めずに辞めたいと言った時・・・。娘が幾度となく大きな壁に打ち当たる度、私はどんな言葉を掛けてあげるのが娘にとって正解なのか、その度に悩み、娘と一緒に、或いはそれ以上に苦しんだ。何もしてやれない無力な自分が情けなかった。それでも娘は、自分の力でここまで大きく、優しい子に育ってくれた。

私は彼女を産んだだけで、一体何をしてやれただろうか。こんな頼りない人間なのに、娘はいつも「お母さん」と呼んでくれる。可愛い顔で笑いかけてくれる。そのことに、涙が溢れて前が見えなくなってしまうのだ。

 

それなのに・・・。私はこれ以上、何を望んでいるのだろう。何故、こんなにも孤独感が拭えないのだろうか。

 

 

「お母さん。私、結婚しようと思うの。」

それは突然だった。

お付き合いしている男性が居る事は聞いていたけれど、いざ「結婚」というワードを出されると狼狽えてしまう。

「・・・そう。」

早すぎるという事はない。私が27歳の頃には、もうとっくに娘は生まれていたのだから。反対する歳でもない。

「今度の週末に彼を連れて来るから、お父さんにも言っておいて。」

「お父さんにも、直接言えばいいじゃない。」

「え〜、お母さんが言ってよ〜。お願い!」

「はいはい。」

私は、いつも夫と娘の仲介人である。それは娘が思春期の頃からだから、慣れたものだ。娘にとっての優先順位が、夫より私の方が上のような気がして、夫には悪いけれど少し嬉しい気持ちになる。

 

 

「あの子、今度の週末に彼を家に連れて来るって。」

「・・・は?」

想像通りの不機嫌そう顔。昔から本当に分かりやすい人。

「結婚のお許しをもらいに。」

「許さん!」

またそんな事を言って。貴方のそういう子供じみた所、本当に好きじゃない。

「許すも許さないも・・・あの子ももういい歳だし、反対する事でもないじゃない。」

「お前に父親の気持ちは解らないんだ。」

えぇ、解りませんよ。大体、解りたいとも思わない。貴方にも母親の気持ちなんて解らないし、私は貴方よりあの子と居た時間がずっと長いのよ。

「兎に角、週末は必ず家に居て下さいね。」

私は夫と長話をするつもりは更々無いので、用件だけ伝えてキッチンへと逃げた。

 

 

「初めまして。娘さんと交際させてもらっています。本日は、結婚のお許しを頂きに参りました。」

爽やかで礼儀正しい青年。まるで、ドラマのワンシーンのようだった。現実にこんな日が来ようとは。私は何処か他人事のように眺めていた。

「会社の先輩で、三年前から付き合ってるの。それで、そろそろ結婚しようかって。」

娘が夫の顔を見て話をしているところを、久し振りに見た気がする。夫は、嬉しいような切ないような何とも言えない顔をしている。

「いいんじゃない?この子が選んだ方だし。私は賛成です。」

夫が煮え切らないので、私は痺れを切らして言った。あれだけ「許さん!」とか言っていた癖に、夫は娘を前にすると結局最後まで何も言えなかった。

 

 

「お母さん、ありがとうね。」

彼を駅まで送り、帰ってきた娘が私の所へ来て言った。私は人数分の珈琲カップを洗いながら微笑んだ。

「私、お母さんみたいな母親になるから。」

 

娘の笑顔は、希望に満ち溢れている。彼を愛している事は娘の瞳を見ればすぐに分かったし、結婚というものに夢を見て、彼との未来を想像し、とても幸せそうだった。

果たして、私にそんな瞬間があっただろうか。夫と出逢い、交際し、結婚に至るまで、彼を愛していると自信を持って言えた瞬間があっただろうか。流れに身を任せて、「漫画のようにはいかないし、現実はこんなもんだ」と自分に言い聞かせ、何処か人生を諦めていたのではないか。

娘が羨ましかった。思えば、私はいつも人を羨ましがってばかりだ。姉や妹を羨ましがり、友人を羨ましがり、今は娘を羨ましがっている。私の人生、私をいつも脇役にしているのは誰だ。他でもなく私自身なのではないだろうか。

 

 

時間はあっという間に過ぎ去り、娘の結婚式も無事に終わった。私と夫は、疲れ切った身体で自宅に帰り着いた。親族が式に出席するというのは、こんなにも疲れるものなのだな。もう、食欲さえ無い。夫も同じようだった。

「お茶、淹れますね。」

私は重たい腰を上げて、キッチンへと向かった。戸棚に入った茶筒を取り出し、急須に茶っ葉を入れ、お湯を注ぐ。湯呑みにお湯を張り、温める。

 

私はそこに立ったまま、昇ってゆく湯気を眺めていた。様々な思い出が、走馬灯のように蘇る。娘が生まれ、成長し、旅立つ今日までの記録。私の脳内に全てインプットされている。

娘の泣いた顔、怒った顔、甘えた顔。そして、笑った顔。

 

私は、誰とも本当の意味では分かり合おうとしてこなかった。誰も愛せないと思っていた。こんな自分なのだから、夫からも愛されていないかもしれないと不安だった。けれど、娘だけは違う。娘は、生まれた瞬間から、私がどんな人間であろうと必要としてくれた。私は毎日欠かすことなく、娘に乳を飲ませ、ご飯を作ってきた。娘の無事と健康だけを祈ってきた。私は娘と必死に向き合ってきた。夫との関係が変わっても、どれだけ孤独を感じても、それでも私は娘から目を背けることだけはしなかった。

そうだ。私には、ちゃんと誇れるものがあったのだ。誰にも負けない、こんなに大きな自慢があったじゃないか。こんな人間でも、「お母さんみたいな母親になる」なんて、人生最高の褒め言葉じゃない。初めて人から褒めて貰えたじゃない。

何故、私は今頃になって・・・。

お湯を張った湯呑みの中に、ちゃぽんと涙が落っこちた。

 

 

私は、私の人生、何処から間違えてしまったのだろう。私は、脇役なんかじゃない。誰にも負けない最高の主人公として、これからも生きていくのだ。夫に何も言えない家政婦じゃなく、たまには小言を言ったり、他愛の無い話をしたり、鬱陶しがったりしながら、平凡なりに、ヒロインとして生きていくのだ。

そして、機会があったら訊いてみよう。

 

「私の何処が好き?」

私の中の兄妹

物心ついた時から、違和感。

感情や考え方に統一性が無い。今現在の自分が好んでいるものなのに、明日には無関心になっていることも屡々だった。そのものを嫌いになる訳では無い。ただ、興味が無くなるのだ。そんな私を、周りは「飽きっぽい」と一言で片付けた。

傍から見ると分からないだろうが、私の中には明らかにもう一人誰かが住んでいる。でも、赤の他人というより、分身という感覚でもあった。しっくりくるような説明が出来ずもどかしいのだけれど、一つの部屋に本当は一人しか住んではいけないのに、見つからないように二人で隠れて住んでいるようだった。

 

互いの性格は、面白い程に正反対。性別さえも違っていたように思う。軸に居る自分は、人見知りで他人の顔色を伺い、音や光や匂いなどの刺激に敏感で、臆病な人間なのだが、もう片方の私は、勝気で怖いもの知らず、社交的でよく笑い、よく喋り、頭が良い訳では無いけれど、頭の回転が異常に早い人間なのだ。

後者は、何か決断を迫られた時や頑張り時の瞬間などによく現れているような気がする。

 

 

この違和感がより濃くなったのは、小学校低学年の時。

ある日の授業中、床に嘔吐をした子が居た。最初は皆、何が起こったのか状況が把握できなかったのだが、吐物の臭いと共に露骨に嫌な表情をする子や、冷やかす子も出てきたりと様々だった。私はどうしていいのか分からず、怖くて硬直していた。あまり憶えていないけれど、大半の子は私と同じだったように思う。

動物園のような統一性の無い音の中から、嘔吐した恥ずかしさと体調の悪さで泣いている彼女の声が聴こえた時、私の身体は無意識のうちにその子の方へ行き、ハンカチで彼女の口の周りを拭き、他の女子に保健室まで連れて行ってもらい、教室の窓を全て開け、雑巾でひたすら吐物を片付けた。現代はウイルスに対して神経質で慎重なため、素手で吐物を片付けるなんて有り得ないのだけれど、当時は現代のようにそういった知識があまり無かったように思う。私の身体は黙々と動き、誰の声も聞こえない振りをし続けた。

担任はというと、騒ぎ立てる生徒に対して「静かにしなさい!」と頭ごなしに怒鳴るだけの、ただの傍観者だった。普段は「生徒自身の自立心を」なんて偉そうに言っているけれど、本心は面倒臭がりな放任主義なだけなんだろうと、その時、私は一人の大人を諦めた。

 

私は本来、こんなに行動力のある人間では無い。周りから「偉いね、優しいね」と賞賛されようと自身を誇らしくは思えなかったし、吐いたあの子から感謝され好かれようと戸惑うことしか出来なかった。自分が解らず、コントロール出来なかった。確かにやったのは私の身体だけれど、「私」がやった訳では無いのだから。本当の私は、驚いて、怖がって、何も出来ず震えて立ち竦んでいるだけの、ただの傍観者の一人だ。

 

少しずつ、少しずつ、私の中から彼が現れる回数が増えていく。それに比例して、私は彼を軽蔑し、恨み、妬むようになった。

私は誰からも愛されないのに、いつも貴方ばかり愛される。私は私だけのものなのに・・・。いっそ、貴方なんて居なくなればいい。どうして出しゃばるの?ねぇ、何とか言いなさいよ!私が何も出来ない人間だからって、そこから嘲り笑っているんでしょう?!

彼が人から好かれる度に、私はどんどん卑屈で醜い女になった。消えてしまえばいいのは私の方だと内心分かっていながら、私は彼を追い出したかった。

 

 

歳を重ね、時間は過ぎていく。私の願望とは裏腹に、生活はどんどん彼に侵食されていた。彼の社交性を生かし、周りの人間関係が構築されていった。私の友人になってくれる人は良い子ばかりだけれど、いつも私では無く彼を見ていた。上司から「期待している」と褒められるのも、全て彼だった。私だと、「どうした?今日は疲れているのか?」と、皆心配する。きっと上手くいっている筈なのに、全然上手くいっていない気がした。好きな人と交際して愛されても、真からは愛されていない気がしていた。結局、「私」を見せるといつも振られるからだ。私の身体なのに。いつも、寂しかった。

居場所が無い。

 

私の身体が滅びれば、彼も一緒に消えてくれるのだろうか。この何処か気持ちの悪い感覚も無くなり、楽になれるのだろうか。いっそ共に消えてしまおうか。

 

 

ある日の飲み会。知人の紹介で、一人の女性に出逢い、初対面で急に言われた。

「貴女には、もう一人誰かが居るのね。憑いてるというよりは、共存している感じがするわ。」

私は驚いて言葉が出なかった。彼女は続けた。

「その人は、多分、男性。勇ましく、勝気な性格をしている。そして、幸福に対して凄く貪欲な人ね。本来、控え目な貴女とは正反対かもしれない。こんな事を初対面の相手から急に言われて、戸惑うかもしれないけれど、悪い事ではないから聞いてね。彼は、貴女のお母さんから生まれてくる筈の命だった。けれど、何かの手違いで生まれてこられなかった。でも、どうしても貴女のお母さんの子供になりたかった。だから、例え成仏出来なくてもいいから、それでも生まれてきたかったみたい。貴女と共に生まれ、共に生きて、二人でお母さんを守っていくと決めたのね。だから、貴女がお母さんを大切に想う気持ちは人より濃くて、幸せになりたいという気持ちも人より強かったんじゃないかしら?貴女は今までそれが理解出来なくて、とても生きづらかったかもしれない。けれど、彼は貴女がピンチの時に守ってくれたこともきっと沢山あると思うの。どうかな?こんな経験が出来る人間は滅多に居ないし、特別で、とても素敵なことよ。」

この人には何が見えているのだろう。私は占い等は一切信じないタチだけれど、初めて他人から見透かされた気がした。誰にも話したことはないのに。怖かった。けれど、初めてちゃんと私を見てくれたような気がして、嬉しかった。こんな気持ちは初めてだ。色んな感情が混ざり合い、私は涙が溢れた。いつも泣けない私が、こんなにも泣くなんて。今思えば、この時泣いていたのは私では無く、兄だったのかもしれない。誰かに見つけてもらえたのが嬉しかったのだろうか。小さな子供のように泣いていた。

 

「一つ覚えていて欲しいことがあるの。貴女がいずれ死を迎える時、貴女は成仏出来るけれど、彼は一度成仏しなかったから、もう出来ないの。だから、貴女が死んだら離れ離れ。貴女は成仏すればまた何度だって生まれ変わることが出来るけれど、彼はもうこれが最後なの。もう、二度と会えない。」

もう、二度と会えない。あれだけ居なくなればいいと思っていたのに。引き離される事に対して、急に心細くなった。

「でも、大丈夫。二人は今世できっと幸せになれる。人より思いが二倍なのだから。」

そう言って、彼女は去った。

 

私は、兄を思った。兄も、私を思ってくれているのだろうか。私はいつも貴方を疎ましく思い、邪魔者扱いしていたのに。私を守ってくれていたの?二人で一緒に幸せなろうと必死だったの?それなのに、私は・・・。

 

 

それから、母に尋ねて、知った。死産した経験があること。性別は、男。私には、兄が居たのだ。全てが繋がった。母は、何故急にそんな事を訊くのか不思議がったが、本当のことは言えずに誤魔化した。きっと、それは生涯云えないのだと思う。母が天国へ逝っても兄とは二度と会うことが出来ないと言ってしまうことになるからだ。そんな哀しいこと言えない。そんな事を言うよりも、私達が生きているうちに、二人で母を幸せにしてあげたい。

 

 

私は、今日も生きている。人知れず、兄と二人で生きている。もう、何があっても消えたいなんて言わない。「そんなんなら俺と代わってくれよ」と兄に怒られてしまう気がするから。

 

私は、相も変わらず臆病者。でも、もう大丈夫だよ。私の中には、勇ましく勝気な兄がいつも居てくれるから。妹の前に立って守ってくれる兄よりも、ずっとずっと心強い兄が、私の中に。

スズメノナミダ

《公園の片隅で、少女が泣いている。しゃがみこみ、肩を震わせながら、ただ、静かに。

硝子玉の様に脆く、今にも割れてしまいそう。私は何故か胸が締め付けられる思いだった。

何でもいい。声を掛けよう。このまま放ってはおけない。勇気を出して、小さな右の肩を軽く二回叩いた。

少女はゆっくり顔を上げ、私の方を向く・・・》

 

 

ーーうつ伏せの私は、ハッと目が覚めた。

そうか・・・今は授業中。五時間目の日本史だ。また寝てしまっていた。いや、寝てしまったのではなく、自ら寝たのだ。

日本史は得意じゃない。正直、過去の知らない人達がどう生きたかなんて私にはどうだっていいのだ。そんなことより私が今生きている意味を教えて欲しい。

この先生の授業は、教科書になぞって淡々と進めるだけで、それはそれは退屈。生徒が寝ようが隣の人と雑談しようがお構い無しだった。

“年の功”なのか。それとも、“諦め”なのか。きっと後者だろう。思春期真っ只中の若者達を、まるで宇宙人でも見るかのような目をしているのだから。

私は一番後ろの窓際の席。興味の無い授業や苦手な先生の授業は、いつも窓の外を眺めるか寝ている。

よくよく考えてみると、それは全教科に言えることかもしれない。故に、しっかりと成績が低評価の劣等生。しかし、それも私からすれば興味の無いことの一つだった。

「何かいいことないかな・・・。」

恨みたくなるような真っ青な空を仰ぎながら、凡庸にもそう思った。

 

 

ーー休憩時間。私はいつも寝たふりをする。理由は幾つかあるのだが、一つは女子による“連れション”事情。「スズメちゃぁ〜ん、トイレ行こ〜ぉ。」という、全身に鳥肌が立つような、如何にもわざとらしい猫撫で声で誘われるのが苦手なのだ。

休憩時間になると、女子達はこれをほぼ毎回行なっている。そんなに毎回おしっこは出ないだろうに。それに、行きたければ一人で行けばいい。どうせ個室の中まで一緒には入らないのだから。

そういう猫撫で声の女子に限って、トイレに着くや否やまるで別人の様なドスの効いた低い声で、まぁ飽きもせずに悪口大会を開催するのだ。これは男子には解らない女子の裏社会。

女子のこの無駄な結束力と集団行動は、正直鬱陶しいものがある。だがこれも女子あるあるで、あからさまに嫌な態度を取ったり意見を言おうものなら翌日から早速ハブられる。それもそれで面倒なのだ。

だから私は“我関せず”を貫いている。誰とも特別に仲良くはしないし、かと言って誰のことも特別嫌ったりはしない。良くいえば、中立。悪くいえば、無関心。こちらも後者の方だ。

 

私が寝たふりをしていると、「スズメちゃんまた寝てるぅ。起こすのもなんだし行こっかぁ。」と聞こえた。

はぁ・・・やっと行ってくれた。

どうせトイレでは私に対する悪口大会も開催されているのだろう。彼女達は、悪口の相手が私だろうと先生だろうと友達だろうと親だろうと誰でもいい。その場に居ない人を標的にし、ただ不満を言いたいだけなのだ。それに逆らえない者たちは、同調し、共感する振りをする。

それもどうでもいい。私は、波風立てず、ただ表面的に平穏な学校生活を送ることさえ出来ればそれでいいのだ。

だから、神様お願い。こんな窮屈な籠の中から早く出して。私は誰にも邪魔されず、自由に空を飛び回りたいの。

 

 

ーーある日の授業中、私は保健室に居た。これも、私にとっては日常茶飯事。たまにこうして仮病を使っては、授業をサボっているのだ。綾ちゃん先生は、それも承知の上で私を匿ってくれていたのだと思う。

綾ちゃん先生とは、この学校の養護教諭。年齢は20代後半と、この学校の先生にしては比較的若い。実際の年齢よりも若く見える、童顔で可愛らしい顔立ち。特に男子生徒からの人気が熱い。しかも“綾ちゃん”と名前まで可愛い。

私は基本的に大人を嫌っていたが、綾ちゃん先生だけは特別だった。彼女は、大人のくせに大人らしくない大人だからだ。そして、その可愛い顔からは想像もつかない程のレベルの高い毒舌女王様なのだ。

例えば私が中学生あるあるを話すと、「分かる!そりゃダルいわ〜。私だったら先生だろうが何だろうが喧嘩売ってる!」などと、先生らしくない言葉を使っては、大口を開け手を叩きながら笑う。

私にとって彼女の存在は、まるで年の離れた姉の様だった。

 

 

ーー「取り敢えず一時間経ったら起こすから。」

そう言って、先生が仕切りのカーテンをガサツに閉めた。彼女のこういう気を使わない感じ、媚びない感じ、好きだな。

仰向けに寝転がり、天井のシミを見つめる。このシミが、私には人の顔の様に見える。綾ちゃん先生が他の先生から呼び出され、保健室から誰も居なくなることがたまにあり、一人になった時、この顔が動き出しそうで怖いのだ。

今日は珈琲の匂いがする。綾ちゃん先生が珈琲を片手に仕事をしているのだろう。

匂いと静寂に包まれる。仕事の資料なのか、用紙をパラパラとめくる音。あとは、ごく稀に建物がピキッと喋るだけだった。あのピキッという音は一体何処から鳴るのだろうと、いつも不思議だ。

今日はあまりにも静か過ぎて、呼吸をするのも戸惑ってしまう。時折、寝返りを打ち、わざとらしくシーツの擦れる音とベッドが軋む音を鳴らして誤魔化した。

体勢を窓の方に向けて、また暫く動かないで居た。校庭から体育の授業をしている声がする。学生らしい元気な声。それが微かに聞こえてきて、何故だか無性に淋しくなった。

 

 

ーー結局、ズルズルと下校時間まで保健室に居座っていた。

「さ、そろそろ帰んな。今日一日ここに居たこと、担任が煩く言ってきても無視していいから。いつでも来な。」

「綾ちゃん先生は大人なんだから、私のことより自分が他の先生達からどう思われるかの方が心配じゃないの?」

「そりゃあ、あたしだって多少は気になるよ〜?でも人間がしんどくなるのって、体だけじゃないじゃん。心もしっかり疲れるんだよ。しかもあんた達は思春期真っ只中。大人が今では忘れてるようなことを、現在進行形で考えてて悩んでる。別に逃げたっていいじゃん?あたしはそう思うね。まぁ、いつでも来な!」

綾ちゃん先生は本当に凄い大人だ。こんな事をこんな風に胸を張って言ってくれる大人が、世の中にどれだけ居るだろう。明確には分からないが、極々一部だということだけは分かる。

私はいつか綾ちゃん先生の様な大人になりたい。

「・・・じゃあもし明日もしんどくなったら、来てもいい?」

「勿論!ドンと来い!」

綾ちゃん先生は笑った時、頬骨の辺りに小さく横に線が入る。先生曰く、それも口元のものと同じように笑窪と呼ぶらしい。その笑窪があるから更に先生を可愛くさせているのだろうなと思いながら手を振り、私は保健室を後にした。

 

 

ーー自宅の玄関前。私は必ず一呼吸置いて心を落ち着かせなければ、家に入れない。

「・・・ただいま。」

カチャカチャ、と音がしている。あぁ、またか。私は深く溜息を吐いた。

「お母さん・・・ただいま。」

「あ、おかえり。ごめんごめん、帰ってきたの気付かなくて。その辺散らかってるから、足で踏まないように気を付けて。」

どんだけ暴れたらこうなるんだよ。

酒瓶は割れ、その破片でリビングの床がキラキラと光っている。部屋中にアルコールの臭いが充満している。

私が苦虫を噛み潰したような顔をしているのに気が付いた母は、急いで部屋中の窓を開けた。

壁に掛けている額縁も首を傾げ、棚に飾ってある小物や本たちは全て床に落っこちていた。

「・・・アイツは?」

“アイツ”とは父のことだ。血は繋がっているけれど、あの人を父親だと呼んだことはここ数年一度も無い。

「さっき出て行った。煙草を買いに行ったんじゃないかな。」

「・・・そう。」

「ごめんね。」

「何で謝るの。お母さんは悪くないでしょ。・・・手伝う。」

「ありがとう。」

父が暴れる原因は、たかが知れている。酒や煙草が切れた、晩御飯の献立が気に入らなかった、会社で気に食わないことがあった、どうせそのどれかだろう。普通の人は我慢出来るようなことなのだが、父は兎に角すぐキレる。そして気が済むまでとことん暴れ、こちらは手が付けられなくなるのだ。

母と私は、この荒れ果てた風景を目にしても、“何があったの?”なんていう言葉を交わさなくても解ってしまうのだ。

部屋をひたすら片付ける。その間は、無言。二人とも内心は焦っているのだ。父が帰って来る前に終わらせなければ、また不機嫌になり振り出しに戻る。母のためにもそれだけは避けなければならない。

 

 

ーー暫くして、玄関の扉が開く。

「おかえりなさい。」

母の声を無視し、怠そうな顔をして言った。

「あー疲れた。亭主のために煙草くらい買って来るのが女房ってもんだろーが!」

いつもわざとらしく声が大きい。その声だけで私達を威嚇し、怖がらせることが出来ると思っている。確かに、内心は怖いのだ。

「酒!」

「・・・はい。」

私はリビングの食卓テーブルの椅子に座って、食欲も無いのに夕飯を食べながら、見たくもないテレビを付けている。何でもないふうに装いながら、身体の神経は全て父に集中しているので、テレビの内容など頭に入る筈が無い。それでも怖がっていることは意地でも悟られたくないのだ。

「スズメ。勉強はちゃんとしてるのか。」

「・・・うん。」

どうせ世間体が気になるだけで、私になんか興味はない。話し掛けられるだけで更に食欲が失せてしまう。

「ま、女なんかどうせ勉強したって嫁に行って亭主に食わせてもらうんだけどな。精々、今のうちに男に媚でも売っとけ。」

この男は偉そうに何を言っているのだろう。

大体、“女なんか”とは何だ。アンタはその女に毎日飯を作ってもらい、汚いパンツを洗濯してもらい、掃除して整えられた家に帰って来られるんだろう。そうして、何とか生活が成り立っているんじゃないか。家事など何も出来ず、何がどの場所に片付けられているのかも分からない癖に。

母はアンタの奴隷でも家政婦でも無い。家事は人間にとって“日常”で、母はその日常を必死に守っているのだ。

「男とか女とか何時代だよ。阿呆らしい。」

言葉が無意識に口から零れ落ちていた。私が今まで父に口答えしてこなかったのは、自分自身を守るためじゃない。母が悲しみ、苦しむからだ。だが、怒りに任せて遂にやってしまった。

 

 

ーー幼い頃、私はいつか男になれると信じていた。根拠はない。だけど、いつか男になって、力一杯に母を守り、母を悲しませるものを全てこの手で倒してやるのだと本気で願っていた。

将来の夢は、お花屋さんとかお嫁さんとか女の子が思い描く様な可愛らしいものではなく、スーパーマンだった。それを言うと幼稚園のお友達は私のことを「変なの」とか「そんなの可笑しい」と笑った。その時の私には、何が変なのか解らなかった。スーパーマンになれば母を守れるじゃないか。

けれど、大きくなっても私は女のまま。男にはなれない。何処まで行っても力の弱い女でしかないのだ。

 

 

ーー身体に鈍痛がして我に返る。私は父に腹を蹴られ、突き飛ばされていた。

口答えをするな!と罵声が聴こえる。女のくせに偉そうに、と。

母が泣きながら止めに入っている。

あぁ・・・泣かせてしまった。一番笑っていて欲しい人が、私の上に跨り、私を庇って泣いている。

絶望で全身の力が抜けた。

 

 

ーー翌日はプールの授業があった。私はいつも当然のように欠席し、プールサイドの隅で見学をしている。その際、生理だの微熱があるだのと、あの手この手で仮病を使っている。体育の成績も日本史同様しっかり低評価だった。

見学の本当の理由は誰も知らない。水着になると言うことは、先生やクラスメイトに殴られた痕を見られてしまうからだ。こんなこと誰にも言える筈がない。

見学者はテントの中に居るのだが、ギラギラの日差しはそれを突き破り、私は暑さで人知れず汗をかいている。皆は気持ち良さそうにキャッキャと泳いでいる。

そんな光景。私には出来ない“普通”のことを、皆は当たり前に与えられている。それが時に羨ましく映るのだった。

 

 

ーー掃除時間。

「もぉ〜疲れたぁ。早く帰りたぁい。」

猫撫で声の女子が言う。私の中での通称は、略して“猫女”。

『まじダルいよね〜・・・。』

猫女の取り巻き達は共感する振りをする。

「ねぇねぇ、岡田さぁん。代わりにゴミ捨て行ってきてくんなぁい?私達今から用事があってぇ。」

岡田さんは大人しく控えめな性格で、クラスではあまり目立たないような存在の女子。移動教室や休憩時間なども一人で居ることが多く、浮いていると言えば浮いている。きっと私ほどでは無いのだろうが。

「え・・・あ・・・私・・・ですか?」

「そうだよぉ。もうヤダなぁ〜。他に岡田って苗字の人居たっけぇ〜?」

悪魔のような顔をして笑う猫女。

「あ・・・えっと・・・はい。」

これは苛めなんだろうか?岡田さんは明らかに困惑し、怯え、嫌がっているように見えるけれど。私は今までこのクラスのことに無関心だったので、今日の今日まで気付こうともしていなかった。

周りを見渡して、今のこの教室内の雰囲気を嗅ぐ。女子達はヒソヒソと隣同士で耳打ちをし、男子達はニヤニヤとそれを見ている。

あぁ、これは苛めなのだな。私の中で何かがプツンと切れる音がした。

「自分で行けば?」

父への口答えの件から、明らかに頭がおかしくなっていることに自分でも気が付いている。それでも冷静では居られない。

「え・・・どうしたの?スズメちゃんらしくないよ。」

外野がザワつく。猫女も飛び出しそうな目をして驚いている。

“私らしい”って何だ?あぁ・・・“他人に無関心な私”、ね。

「ゴミ捨ては担当の仕事でしょ。てか、わざわざ人に頼むような大変な仕事じゃないと思うけど。」

「だからぁ〜!私達、用事が・・・」

「ゴチャゴチャうっさいな!今のこの無駄な時間でゴミ捨てしてさっさと帰れよ!」

猫女が喋り終わる前に、私は捲し立てて大きな声を出してしまった。言葉遣いも乱れている。これは完全にやらかしている。分かっているのに・・・。

本当にどうしてしまったのだろう。私の中の冷静な自分は「止めて!」と叫んでいるのに、もう一人の自分が「どうにでもなれ」と言うことを聞いてくれないのだ。

クラスが静寂に包まれる。気まずくなった猫女達は、結局自分達でゴミを捨てに行った。

岡田さんからこっそり「助けてくれてありがとう・・・」と言われたが、100%岡田さんのために言ったとは胸を張れない自分が居た。

 

 

ーー翌日の朝。教室に入り、いつものように挨拶をする。この空気、違和感。

男子達はさほど変わらないのだが、女子達は腫れ物を触る様にぎこちないのだ。

あ・・・早速か。昨夜、猫女が女子達に「あいつと話すな」とか一斉メールでもしたのだろうな。私はそれをすぐに察し、平然とした顔で自席についた。

「みんなぁ〜!おは〜ぁ!」

わざとらしい位に元気に教室に入ってくる猫女と目が合うと、般若の様な形相で睨まれた。あの女、もはや猫女ではない。化け猫だ。

「あ、岡田さぁ〜ん、おはぁ〜!」

あれだけ雑に扱っていた岡田さんに優しく接している。私に見せつけているのだろう。

「あ・・・えっと、その・・・おはよ・・・。」

「もぉ〜!岡田さん硬いよぉ〜。友達じゃぁ〜ん!ねぇ〜?」

「あ・・・はい・・・。」

“友達”か。本当に都合の良い呼び方だな。吐き気がする。

岡田さんは困惑し、遠い後ろの席に座っている私に視線を送ってきたが、私は彼女に「こっちを向くな」と無言で首を横に振った。

そうして、いとも簡単に苛めの標的が私に代わったのだ。

 

 

ーー人間はこの世で一番恐ろしい生き物。昨日まで散々尻尾を振ってきていた者が、明日には全く違う人間になれるのだ。こういうのを掌返しと言うのだな。私は案外冷静だった。

移動教室の際、後ろから彼女達を追い越そうものなら足を引っ掛けられ、転けそうになる。廊下ですれ違えば、男子には聞こえないような声で“ブス”と呟かれる。階段で一緒になれば、背中を押される。行事などの面倒な役割は、全員から押し付けられる。

私は先生からも好かれてはいなかった。担任も、本当はこの嫌がらせには気付いていただろう。もし本気で気付いていないと言うなら、あの目は節穴だ。大人達は完全に見て見ぬふりをした。私は大人を諦めていたので、なんて事ないように振舞った。

いつでも何処でも平然とした態度を貫いた。私は敵の前で泣いたりするような弱い人間ではない。私は悪くないのだから、こんな理不尽でくだらない事から逃げたりはしない。

大体やることが子供じみている。家でアイツから殴られることに比べたら、こんなの屁でもない。

 

 

ーー昼食の時間、私は一人で裏庭に居た。

「あの・・・お弁当、一緒に食べませんか?」

岡田さんが弱々しく私に話し掛けた。

「ごめん、一人で食べたいから。」

私はいつも他人に冷たい態度しか取れない。幼い頃、自分の考えを人に話すと「変」と笑われたことを未だに根に持っているのだ。

私の方こそ本当に子供じみている。

「ごめんなさい・・・私のせいで・・・こんなことに・・・。」

長い睫毛を伝って、涙が零れ落ちた。

いいなぁ。そんな風に泣けて。

「貴女のせいじゃない。私がムカついただけだから気にしないで。」

「でも・・・」

「それに私と居るところをアイツらに見られたら、またハブられるよ。それでもいいの?」

「私は・・・」

「早く戻りな。本当に私のことは気にしないで。元々私は一人が好きだし、その方が気が楽だから。」

私は一方的にシャットダウンした。彼女のためにもそうした方が良いと思った。

私が彼女みたいに可愛く瞳を潤ませることが出来ないように、彼女もまた、私みたいに平然とした顔であの教室に居座ることは出来ない。

一人になり、深く溜息を吐く。芝生の上に仰向けに寝転がると、空はまた恨みたくなるような真っ青な色をしている。

「いいことなんて何も無いな・・・。」

 

 

ーー何処にも居場所が無い。学校の人達は軍隊で、家の中は戦場だ。何処に行っても私は出る杭で、必ず打たれる。

唯一のオアシスの保健室は、嫌がらせを受けるようになってからは行かなくなった。今逃げると負けた気がするからだ。

もう何もかもに対して意地になっていた。

本当に・・・私は何のために生まれてきたのだろう。何のために生きているのだろう。考えても考えても、出口は見つからない。こんな日々に縋る意味があるのだろうか。

ゴミみたいな人生。捨ててしまいたい。

 

 

ーーそれでも、いつものように家路に着く。

一呼吸置いて家に入る。

「誰が食わしてやってると思ってるんだ!」

リビングから大きな声と物音が聞こえる。

その後に、母の悲鳴が聞こえる。

「何やってんだよ!」

殴られて横たわっている母と、更に殴りかかろうとしている父との間に割って入り、必死で止めようとした。

「うるさい!お前は黙ってろ!」

「やめろって言ってんだよ!」

「・・・この出来損ないが!」

突き飛ばされる。それでも立ち上がり、父の前に立ちはだかる。もう誰も私を止められない。

いっそこいつを殺してしまおうか。そんな考えが頭をよぎる程、冷静では居られなかった。

「お前なんか居なくなれ!」

「父親に向かって、何だその口の利き方は!」

「お前なんか父親じゃない!」

「・・・このクソガキ!」

殴られ突き飛ばされているのに、どういうことか痛みを感じない。私はついにスーパーマンになれたのだろうか。この状況下にも関わらず、頭の中ではくだらないことを考えていた。

「お前なんか生まれてこなければ良かったんだ!」

やっぱり、そうなんだな。調度、私もそう思っていたところだよ。血縁者が言うなら間違いないんだろう。

もしも私が生まれてこなければ、両親は二人で今も仲良く暮らしていただろうか。私が生まれてきたせいで、母は私の子育てで手一杯になり、父はそれが面白くなかったのだろうか。もしそうならば、とんだ邪魔者だな、私は。

父は私を突き飛ばし、そのまま家を出て行った。

 

 

ーー自宅マンションの屋上は、住民ならいつでも入れるように開放されている。私は深夜に家を抜け出し、時折ここに来ている。

コンクリートの石段の上に座り、ウォークマンの再生ボタンを押す。これは中学に上がったばかりの頃、父に内緒で母がこっそり買ってくれたものだ。それ以来、私の宝物。

母曰く、私は昔から歌うのが大好きで、いつも何処でも歌っているような子だったらしい。だが、いつの頃からか父があんな風になり、私も母も変わり果て、今に至っている。

今は思い切り歌うことも出来ない。大音量で堂々と音楽を聴くことも出来ない。家でも学校でも“私”は居ない。

行く先行く先、八方塞がり。もう何処へも行けない。ていうか、そもそも居場所って何だっけ?

 

 

ーー耳元で『ブランコに揺れて』が流れる。

ゆらり、ゆら、ゆらり・・・

心地良い言葉とメロディが全身を包む。

小さく口ずさんだ。

何も考えず、立ち上がり、フェンスを掴んだ。

飛び越え、屋上の縁に立つ。

下は、真っ暗。上も、真っ暗。

街灯さえも消えていた。

断崖絶壁に居るようだ。

「消えたい。」

衝動的に、そう思った。

私はただ自由に飛びたいだけだった。何処にも行けないのなら何も意味が無い。生きているのに呼吸をさせてもらえないような苦しみが続いている。

きっと死ぬ瞬間は怖く、苦しく、痛いんだろう。けれど、今生きているこの痛みと一体何が違うのだろう。

平気なふりをしていただけで、本当は平気なんかじゃない。

痛い、苦しい、怖い、淋しい、悲しい、辛い。

私だって本当は、子供の様に思い切り泣いて誰かに抱き締めて守ってもらいたかった。

頑張って。

いつもその言葉が大嫌いだった。相手は「頑張って」としか言いようが無いのを解ってはいるのに、勝手に苦しくなって、落ち込む自分が嫌だからだ。

・・・もう頑張れないよ。

私は、目を閉じた。

 

 

ーー「お母さんね、スズメのこと大好きだよ。」

「スズメも、お母さんのこと大好き!」

「“スズメ”って名前はね、お父さんが付けたの。スズメがまだ赤ちゃんの頃、こーんなに小さくて、本当に可愛かった。でもね、いつか大人になっても、ずーっと可愛いままなの。雀は小鳥だけれど、それでも一生懸命に羽根を広げて空を飛んで行くの。お友達も沢山居て、歌も歌ったりするの。そんな風に成長してくれたらいいねって、名前を付けたのよ。」

「でも・・・お父さん最近怖い時あるよね。」

「そうね・・・お父さんも生活のためにお仕事頑張ってるから。怖い時もあるけど、本当は優しい人なんだよ。二人で支えてあげようね。」

「・・・うん。分かった!」

「スズメは、お母さんの生きる意味だから。もし悲しくなったり泣きたい時は、お母さんに言ってね。」

「じゃあ、スズメも!お母さんはスズメの生きる意味だね!」

「うん、ありがとう。」

優しい母の笑顔が浮かんで、消えた。

“スズメは、お母さんの生きる意味”

涙が勝手に溢れてきた。

ここで私が死んだら母はどう思うだろうか。この先、上手く生きていけるのだろうか。この先、心から笑うことは出来るのだろうか。

・・・駄目だ。駄目なんだ。死ぬことは許されない。母の生きる意味を奪うことは、私だろうと許されない。一番笑っていて欲しい人だから。

私は再びフェンスを飛び越え、元の場所へと戻って蹲った。声を押し殺して、泣いた。

 

 

ーーどんな夜を過ごしても、それでも朝は来る。

あれから私は何事も無かったかのように生活している。あの日のことは私以外誰も知らない。

暫く続いていた嫌がらせも、三年生になるとクラス替えがあり、それ以来無くなった。

あれから父も帰って来なくなった。理由をわざわざ母に訊くことはしなかったが、多分あの日、私が家に帰る前に二人はきっと何かを話していたのだろう。そこで私が帰り、争っているところを目撃したのだと思う。

私は一度も母に「何故別れないの?」と問い詰めることはしなかった。それは夫婦の問題で、私は関与出来ないからだ。

私が生まれるずっと前から、二人は二人として暮らしていたのだ。二人だけの歴史がある。夫婦にしか解らないことがきっとあるのだ。

私は父が嫌いだが、母は父を好きになり結婚したのだから、何処まで行こうとそれは否定出来ない。きっと父は“生活”を守り、母は“日常”を守ってきた。家族が“日常生活”を送るために。

それがいつからかピースを失くして欠けてしまったパズルの様に、幸せが一つ、また一つと、落っこちていってしまったのだ。

 

 

ーー私は父を憎んで生きている。人間を嫌って生きている。けれど、憎むというのはとてもエネルギーが要る。心の何処かでは、もっと父を知りたかった、もっと素直に弱い所も見せてくれていたら何か違っていたのかもしれないのに、という悲しみがあるのだと思う。嫌うというのは、もっと私を見て欲しい、私だって普通なんだ、という淋しさから来ているのかもしれない。

苦しみの意味を理解しても、その量は減ってくれない。それでも生きなければならない。最低でも、母の命が終わるまでは・・・何があろうと生き続けなければならない。それも一種の呪いのように思う。

その呪いこそが、今の私の生きる意味。

 

 

ーー《少女は真っ直ぐな瞳で私を見た。

「ねぇ、どうして泣いているの?」

私が問いかけると、少女は言った。

「未来の私が泣いているからだよ。」

気付けば私は少女を強く抱き締めていた。そして何度も「ごめんね」と言いながら、一緒に泣いた。

彼女の小さな手を取り、歩き始める。大好きな歌を、二人で口ずさみながら。》