花は、詠う
赤信号で止まる。
後部座席から桜並木を眺めている。
白いような、ほんのりピンクがかったような、何とも曖昧な色をしたソメイヨシノの花弁。
再び車が走り出すと、景色が揺れる。
規則正しく並んでいる木々が混ざり合い、それらが一本の線になり、スーっと何処までも遠く伸びていくような気がした。
「おばあちゃん、見て。満開だよ。」
隣に座っている祖母に、そっと話し掛ける。
私の声に頷くものの、何も喋らない祖母の目線は、桜を見ているのか、ただボーっとしているのか、不確かだった。
以前は、明るくて優しくて、よく笑う祖母だった。
近頃は、数分前のことを忘れてしまったり、言葉の意味を理解出来ないことも増え、眉間に皺を寄せたような険しい表情ばかりしている。
「おばあちゃん、昔から桜が好きだったわね。」
運転をしている母が、私と祖母に話し掛ける。
ミラー越しからでも伝わってくるほど、母は優しい目をして祖母を見ていた。
私の方は、話し掛けても応えてはくれない祖母と隣同士に居る気まずさを紛らわすため、再び桜並木に目線を逸らした。
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「花詠、上を見てごらん。綺麗だよ。」
幼い私の小さな手を優しく握り、歩幅を合わせながら、ゆっくり進んでくれる祖母が好きだった。
当時、一緒に住んでいた家の近所には、それは見事な桜並木があり、私はそれを“桜のトンネル”と、ありきたりな名前を付けて呼んでいた。
そのトンネルの中に入り、真ん中のあたりまでやって来ると、必ず足を止めてゆっくり桜を眺める。
それが祖母と私のお約束だった。
小さな手指を開き、まだ短い腕を桜に向かって目一杯伸ばす。
空の青さが、桜の美しさを際立たせてくれる。
まるで絵本に出てくる不思議の国にでも迷い込んだかのようで、この時間も、私も、特別なのだと思えた。
自分だけの物語を、都合よく頭の中に思い描いた。
「すごーい!綺麗だね!」
「綺麗ね。おばあちゃん、桜が大好きなのよ。」
「私も!でも・・・すぐに散っちゃうのは寂しい。ずっとここに居てくれたらいいのに。」
「寂しい?」
「だって、やっと咲いたと思ったら、今度はあっという間に散ってしまうんだもん。いっぱい風が吹いたり、雨が降ったりすると、もっと早いお別れが来ちゃう。そんなの寂しいよ。」
好きだからこそ、サヨナラしたくない・・・。
それならば、いっそ最初から無ければいいのに。
「そうね、そうかもしれないね。でもね、花詠。命があるものには必ず始まりがあって、そしていつか終わりが来る。だからこそ、美しいと感じられるのかもしれない。それにね、寂しいという気持ちは、それだけ大好きだったっていう証なのよ。」
蝶々がヒラヒラと舞うような、優しい祖母の声。寒くて凍えそうな心を解してくれるような不思議な力があった。
春を呼び寄せる、魔法使いだと思った。そんな祖母が好きだった。
「でも、桜が散ると、皆すぐに桜のことなんて忘れちゃうでしょう?そんなの、悲しいよ。」
そうね・・・、と眉を下げて少し困ったように笑う、春の陽気のような祖母の笑顔。
「忘れるということはね、ちゃんと出逢ったということなのよ。ちゃんと、そこに在ったという証。最初から出逢わなければ、忘れてしまうことを恐れたり悲しむことも無いかもしれないけれど、その代わり、思い出して優しい気持ちや嬉しい気持ちになることもないでしょう?」
最初から何も無いより、その方がずっと幸せだと思わない?
そう言って、私の頭を優しく撫でてくれた温かい手は、木漏れ日のようだった。
そんな祖母が好きだった。
祖母が私に掛けてくれた数々の言葉は、幼い頃は難しく感じることもあったけれど、それは私を年齢関係なく対等に接してくれているということだと解っていた。
子ども扱いはしすぎないけれど、ちゃんと同じ目線から世界を見ようとしてくれる。そんな祖母が好きだった。
「ねぇ、おばあちゃん。いつか私のことも忘れてしまう?」
「そうね・・・もしかしたら、楽しい夏が来て、秋を涼しく過ごしているうちに、忘れてしまう日が来るかもしれない。」
祖母は私の目線までしゃがみ込み、少し目を伏せた後、私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でもね、頑張って冬を越えると、また春がやって来る。そして、またここに綺麗な桜が咲いた時に、思い出すの。花詠と一緒に居られて、こんなに幸せで、こんなに優しい気持ちになれるってことを。大丈夫。きっと思い出すからね。」
それとね、花詠。例え、思い出を忘れてしまっても、永遠に変わらないこともあるのよ。
おばあちゃんは、ずっとずっと花詠のことが大好きだってこと。
それだけは、何があっても絶対に変わらないからねーーー・・・。
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ここ数年で認知症が悪化し、自宅での介護が難しくなってきたこともあり、私たち家族と祖母は、離れて暮らすことになった。
元気な頃は、毎年必ず一緒に歩いていた桜のトンネル。
今、その桜並木が数メートル先に広がっている。
あの道に車は入れない。車椅子が上れるようなスロープなども無く、有るのは階段のみ。
せめて桜が少しでもよく見える場所にと、母が車を近くに停めてくれた。
祖母と2人で歩いていた頃の景色とは、随分と変わってしまった。
それでも、桜並木だけは、今もあの頃のまま。
「何か飲み物でも買ってくるわね。」
母は車から降りて行った。
2人きりの車内。祖母と居ることが、こんな風に気まずくなる日が来るなんて思ってもみなかった。
何を話し掛けても、何も返ってこない。一方通行で、伝わらない。その度に、傷付いてしまう。
私の、そんな行き場のない言葉や想いなんて、空に消えてスッキリ出来ればいいのに。でも、そんな風に簡単に割り切ることも出来ない。相手が大切な人だと、尚更だ。
忘れられることがこんなにも寂しいだなんて。想像したことは何度もあるし、そうして寂しさを生み出してみたこともあるけれど、想像はあくまで想像でしか無かったことに気付いた。
ねぇ、おばあちゃん。私のこと、忘れないで欲しかったよ・・・。
「花詠・・・花詠。何処に行ったの?」
独り言のように呟く声に、私は耳を疑った。
掠れて震えた声。あの頃の、春のような柔らかな声とは程遠いけれど、確かに祖母の声だった。
私の名前を呼ぶなんて、何年ぶりだろうか。それだけで、色んな感情が溢れて胸がいっぱいになる。
「一緒に桜を見に行かなくちゃ・・・。」
車の窓ガラスに両手を添えながら、桜のトンネルの方を見ている。
この位置からでは、後頭部しか見えない。祖母は今、一体どんな表情をしているのだろう。
「おばあちゃん、私のこと思い出したの?」
勇気を出して尋ねてみたけれど、やはり祖母からは何の言葉も返ってこない。
そうだった。何度もこんな風な気持ちになってきたんだよ。もう、私の声には応えてくれないんだって。正確には、応えることが出来なくなってしまったんだけど。
すっかり慣れたつもりでいたのに、やっぱり胸は傷む。
涙を堪えようと瞼を閉じた時、あの頃の祖母の声が、耳の奥から聴こえてきた。
“大丈夫。例え忘れてしまっても、いつかきっと思い出す日が来るからね。”
驚きの余り、瞼を開いて顔を上げた。
桜のトンネルに目線をやった瞬間、車体が揺れる程の突風。
美しい桜吹雪。
祖母と過ごしてきた愛しい思い出が、花嵐と共に空へ舞い上がる。
ご飯を作りながら口ずさんでいた古い歌。
洗濯物のシワを伸ばす時にパンパンと叩く音。
試験勉強の時に作ってくれた夜食のおにぎり。
私のために戸棚に隠していたお菓子の山。
2人が好きだった花の名前。
祖母が大切な何かを一つ忘れてしまう度、私は心の一欠片が削られていく思いがしてきた。
笑う回数も随分減った。
大好きだった祖母が、別人へと変わっていく気がしてならなかった。
それが、ずっと怖かった。
それでも・・・忘れるということは、出逢ったということ。確かにそこに在ったということ。最初から“無かった”という訳ではないのだ。
今ならあの時の祖母の言葉がほんの少しだけ理解出来るような気がする。
この桜を見て、私の名前を呼んでくれた。過ごした日々を、一瞬でも思い出してくれた。
こんなに幸せなことがあるだろうか。
それすら、またすぐに忘れてしまうことを考えると、胸が張り裂けてしまいそうに辛くて苦しいけれど。
それでも、今はそれ以上に愛しい。
「おばあちゃん・・・大好きだよ。」
出来る限りの力を込めて、祖母を抱き締めた。
私の腕の中に簡単に収まる身体。子どもの頃は大きく感じていたのに。
おばあちゃん。こんなに小さかったんだね。
堪えていた筈の涙が止まらない。
大きくなった私の背中に添える、温かい手の平。
「おばあちゃんも、花詠のことが大好きよ。」
あの頃と同じ、優しい声だった。
あぁ、そっか・・・。おばあちゃんは、春そのものだったんだな。
忘れられることはとても辛いけれど、きっと忘れることも同じくらい、もしくはそれ以上に怖いことなのかもしれない。
忘れてしまったとしても、確かに私たちは出逢い、確かにそこに在った。
この先、祖母がもっと変わっていってしまおうとも、思い出は愛しいまま在り続ける。
最初から無い方が良かったなんて、そんなこと、もう思わない。
こんな風に、一瞬で幸せな気持ちにさせてくれる素敵な魔法使いと出逢えて、本当に良かった。
今よりもっと月日が経って、今度は私の方が忘れてしまう時が来たとしても、それでもきっと思い出すだろう。
ねぇ、おばあちゃん。
私も永遠に大好きだからね。
花は、詠う