鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

ワタシはニジキジ ⑵

 

数年前、私は一度だけ彼に別れ話を持ち掛けたことがある。

理由は探せば幾らでも見つかるけれど、その中でも一番は、普段から私の意見に耳も貸さず、酷い時は私を馬鹿にし、いつも自分の意見が正しいという態度だったからだ。

この先もずっとこのままの調子では、私の心がもたないと思った。

 

別れ話をした時の彼は、意外にも冷静だった。

「別れるのに関しては、好きにしていいけど。誠は俺が居なくなっても生きていけるの?」

「家を借りたり家具を揃えたりするような金銭的な問題は大丈夫?貯金は残るの?赤字にでもなるようなら、誠の御両親が心配すると思うけどな。」

「別れても俺は女に困らないけど、誠は俺以外の男に好きになってもらえるとは思えないし・・・。現実、こんな平凡で我儘な女と長く付き合っていける寛大な男は、俺くらいだよ?」

 

頭が追いつかず、何も言い返せなかった。

確かに私の仕事は給料が高い訳では無いし、どちらかと言えば低い方だ。彼の給料に比べれば本当に微々たるもの。一人暮らしをするとなると、貯金する余裕など皆無で、その日暮らしになってしまうのも事実。

確かに彼は社交的で気配りも上手だから、女性からモテると思う。きっと私なんかより素敵な彼女をすぐに作れるだろう。それに引き替え、私は人見知りで男性とコミュニケーションを取るのも下手くそだ。その上警戒心も強いので、彼と別れた後は好きな人は疎か彼氏など出来ないだろう。万が一、付き合えたとしても、「思っていたのと違った。」と振られることが今まで多かったため、すぐに終わりを迎えるような気もする。ひょっとしたら、一生誰からも愛されないかもしれないとさえ思う。

 

彼は間違ったことは何一つ言っていない。だからこそ、痛いところを突かれた私は深く傷付き、いとも簡単に心が折れてしまい、自分にとっての正しい判断が出来なくなった。

今思えば、彼はそれも全て計算の上で、敢えてマウントを取っていたのかもしれない。

 

自分の中では、きっちりと筋道を通し、強い意思を持って別れ話をしたつもりだったのに、私より彼の方が何枚も上手だった。

彼はこの時、私の自己肯定感を下げる言葉を幾度となく並べ、「こんなどうしようもない私には彼しか居ない。」と思うように洗脳したのかもしれない。

彼は怖い人だ。決して敵に回してはいけない。この一件から、私は何処か彼に対して怯えのような感情を持っている。

 

 

 

 

 

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「誠、どうしたの?大丈夫?」

職場の同僚が私の顔色の悪さに気が付き、声を掛ける。

「え?・・・あ、大丈夫。」

「何か悩んでるんだったら言いなよ?」

言える訳が無い・・・。彼女は私の彼のことを評価しているし、もし私の本当の気持ちを打ち明ければ、逆に私の至らなさを指摘されたり嫌われてしまうかもしれない。何も出来ない性格の悪い女だとバレてしまうのが怖い。

「うん・・・大丈夫。ありがとう。」

最近、何処に居ても何をしていても地に足がついていないような感覚で、フワフワと気持ちが悪く、すぐに疲れてしまう。

 

 

 

 

 

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利用者達が椅子に座って体操をしている。私は後ろでそれを見守っている。

ふと目を逸らすと、窓際に飾っている笹と、その葉に付けられた短冊が目に入る。

 

“健康で長生き出来ますように”

“皆が健康に過ごせますように”

“長寿を全う出来ますように”

“いつまでも元気に歩けますように”

・・・

 

どれもよく似ている。震える手で懸命に字を書いている利用者の愛しい姿を浮かべながら、私は自然に微笑んでいた。

ふと、思い返す。

そう言えば、幼い頃は出来ないことだらけだった。そして、それが当たり前で、自分を責めたりすることなどなかった。初めて歩く時、初めて喋る時、何か一つでも出来るようになると、必ず大人達が褒めてくれた。些細なことでも褒められると、幼い私は素直に受け容れ、それが自信となった。

けれど、少し大きくなってくると、“出来る”が当たり前になった。特に秀でている子は褒められ、劣っている子は笑われるようになった。勉強が出来る、運動が出来る、歌を歌うのが上手、絵を描くのが上手・・・。目に見えてそれが“出来る子”と“そうでない子”との差が広がり始めた。

年頃になれば、顔立ちの美しさやスタイルの良さ等、容姿の良い人は異性から特別に評価されて持て囃されるようになり、逆に劣っていると判断されると見向きもされないことが増えた。然し、容姿の良い人にはその分悪い虫も寄って来るため、それはそれで苦労することも多くあるようだった。

成長する度に、色んな“オプション”が付け足されていく。そのせいで人はどんどん追い詰められるようになる。最初はどれも似たようなもんだった筈なのに。

いつしか苦しみの根源であるオプションの部分にばかり注目してしまいがちになり、核の部分からは目を背けられていた。そして、何が一番大切なことなのかが解らなくなってしまった。

 

今、私が当たり前に出来ていること。それは案外沢山あるのだ。

自力でベッドから起き上がること。トイレへ行くこと。ご飯を食べること。歩くこと。時に走ること。仕事をすること。家事をすること。読書をすること。お風呂へ入ること。朝までぐっすり眠ること。

歳を重ねていくと、きっと少しずつこれらのことが困難になり、遂には出来なくなる日が来るのだろう。私が今当たり前だと思っていることが、当たり前ではなくなっていくのだ。

 

「今更願うことなどない。死ぬのを待つだけだ。」と願い事を書かない人も居た。「若い頃はあれもこれもと欲しがっていたけれど、だんだんと多くは望まなくなってくる。最後に欲しいのは健康だけなのよ。」と仰った人も居た。

“出来ないこと”にスポットライトを当てる人生か、それとも“出来ること”に当てる人生か。きっと、どちらが良くて悪いという訳でもない。

 

ただ、私は一体どんな人生を生きたいのだろう。

 

 

 

 

 

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「最近、元気がないわね。如何したの?折角の可愛い顔が台無しよ。」

ぼんやりと考え事をしていると、女性の利用者に声を掛けられた。

「そんなことないですよー!心配して下さってありがとうございます。」

必死に笑顔を取り繕った私を見て、彼女は困ったように微笑んだ。

「年寄りはね、何も見ていないように見えるけれど、いつも若い貴女達を見ているのよ。座ったまま、一日が過ぎるのをただ黙って待っているように思うかもしれないけれど、意外と周りを見ているし、聴いている。“嗚呼、あの人は自分の好き嫌いやその日の気分で人への態度を変えているな”とか、“あの人はいつも誰に対しても優しく接してくれる”とかね。」

穏やかなさざ波のような声に、私は心を奪われる。

「貴女は、十分過ぎるくらいにいつも頑張ってくれてる。誰に対しても気配りを忘れず、一人一人と向き合ってくれているのが分かる。大丈夫。ちゃんと皆に伝わっているのよ。本当にいつもありがとうね。」

思いがけない言葉だった。喉の奥が締め付けられるように痛くて、涙が溢れてきそうなのを我慢するのに精一杯だった。気の利いた言葉を返すことさえ出来なかった。

 

私は何に対しても、この仕事に対してだって、“出来て当たり前”と思われているのだろうと思っていたし、何より自分が一番強くそう思っていた。そして、どれだけ心を尽くしても、誤解されたり嫌われたり疎まれることも沢山あるし、報われないことの方が多いのが当然だとも思っていた。

でも・・・私の存在をちゃんと見つめてくれて、そして認めてくれる人も中には居るんだ。こんな私を必要としてくれているんだ。

幼い頃、大人達が褒めてくれた時のように、私の心の中はじんわりと温かくなっていた。こんな気持ち、大人になってからは一度も無かった。

 

 

 

テーブルに置かれた彼女の手を見つめる。

彼女の手には皺が沢山入っていて、骨や血管も浮き出ている。数え切れない程シミもあるし、皮膚も伸びきっている。この手は、彼女が日々を積み重ねてきた証だ。きっと私が想像する以上に、辛いことも沢山経験してきたのだろう。だからこそ、それが愛しくて、優しくて、どんなものよりも温かく感じた。

私は無意識のうちにその手に触れ、そっと自分の両手で包み込んでいた。

心から“触れたい”と思う気持ちとは、きっとこういうことなのかもしれないと、私は納得した。

 

「綺麗な手ね。」

彼女が私の手を握り返して微笑んだ。

こうして二人の手を比べて見ると、本当に同じものなのかと疑う程だったが、私には彼女の手の方が何倍も美しく映っていた。

こんな風に歳を重ねて生きたい。

そのために、私はどうすれば良いだろう。

 

 

 

 

 

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「うわ、ビックリした・・・。どうしたの、帰ってきてるなら電気くらい付けなよ。」

「あ・・・ごめん。おかえりなさい。」

物思いに耽っていて、何時の間にか外が暗くなっていたことも、彼が帰ってきた玄関の扉の音も、全く気付かなかった。

「汗かいたからお風呂入りたいんだけど。」

「あ、ごめん。まだお湯入れてない。」

「・・・何やってんだよ、もう。」

静かな部屋に、彼が舌打ちをする音が響く。

「いいよな、女は。ボーっとしてても赦されるんだから。本当、いいご身分だよ。」

どうやら彼は機嫌が悪い。

仕事で何か嫌なことでもあった?上司に嫌味でも言われた?それともただ単に疲れているだけで、更にはお腹が空いていて、お風呂に入りたくて、眠たくて、私に優しい言葉を掛けてもらいたくて、その後に抱き締めてもらいたくてーーー・・・。

自分の欲求が満たされないから、そうやって私に八つ当たりをしたり、馬鹿にしたような物言いをするの?貴方は自分の機嫌が悪い時、そんな風に人を見下したら気分が晴れるの?

そうなのだとしたら・・・可哀想な人。

私はいつまで貴方に合わせていればいいの。結婚するまで?それとも死ぬ時まで?

あー、無理だ。申し訳ないけれど。

 

いつもみたいに、如何したのって心配してもらいたいの?

甘えないでよ。貴方はそれを私に言ってくれたことがあると思う?今まで自分のことだけで精一杯だっただろうから憶えてないわよね。一度も無いのよ。

話を聞いてもらった後、大変だったねって慰めてもらいたいの?

ちゃんちゃらおかしいわ。私は貴方に自分の話を聞いてもらえなくても、当たり前のことを当たり前に今日までやってきたのよ。

 

 

 

暫く一方的に彼を罵倒する言葉が頭の中で散らかっていたのを整理して、ひと段落着いた時に思った。

きっと彼を甘やかした私にも原因があるのよね。私がもっと自分の気持ちを上手く伝えられる人間だったら、こんな風に嘗められたり、我儘言われることも少なくて済んだのかな。“可哀想な貴方”にしてしまったのは、私にも少しは責任があるのかもしれない。

今までごめんね。

 

 

 

「文句ばっか言ってないで、お湯くらい自分で入れなさいよ。」

静かな部屋に、今度は私の低い声が響く。

「・・・は?」

彼は眉間に皺を寄せ、怒ったような、でも少し驚いたような、複雑な顔をして此方を睨んでいる。

「聞こえなかった?そんぐらい自分でやれって言ってんのよ!私はあんたの召使いじゃない!」

 

これから私は、彼を失う。

それを解っていて、こんな風に乱暴な言葉をわざと使っている。

本当は、こんな結末を迎えたかった訳ではない。きっと誰かと別れる時、多くの人は同じ気持ちなのだろうけれど。

 

これまで付き合ってきた誰よりも、彼との時間が長かった。抱えきれない程の思い出が、今この時間の中で少しずつ色褪せていくのを肌で感じている。

彼に告白された時、心から嬉しかった。誰よりも大好きだった。ずっと一緒に居たいと思っていた。一番に愛されたかった。嫌われたくなかった。見下されたくなかった。対等で居たかった。後ろから背中を眺めているのではなくて、隣同士で笑いたかった。心許し合いたかった。

こんなにも願いがあったことに、自分自身が一番驚いている。そんな彼への想いが、私の心の器から溢れ出しては消えていく。

彼に対して、不満は挙げればキリがないくらいあった。然しそれはお互い様で、それでもきっと私は彼が居たから今日まで生きてこられたのだと思う。この年月を憎んでいるというよりは、寧ろ感謝しなければならないと思う。

だけど、もうこれ以上自分自身を貶めて惨めにするのは終わりにしたい。お願い・・・。

 

「分かった・・・もういい。」

彼は、私から目を逸らして部屋から出て行った。

玄関の扉を開ける彼の後ろ姿を見て、もう二度と私達が顔を合わすことは無いだろうと思った。

 

 

 

 

 

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その後、私は新しい部屋を探し、二人で暮らしていた家を出た。彼は、私が仕事で家に居ない時間帯に帰ってきては、少しずつ荷造りをしているようだった。

引越しの前日、私は彼にLINEで家を出ることを報告し、最後に「今までありがとう。」と送った。彼からは、「こちらこそ。」とたった一言返ってきただけだった。

彼は最後の最後まで自分勝手で狡かった。そして、そういう私も同類だった。

 

今日まで生きてきて、私は初めてこんなに深く人を傷つけてしまったことを実感している。そして、今でもたまに思ってしまう時がある。「私さえ我慢すれば良かったのではないか。」「もっと優しくしてあげれば良かったのかもしれない。」と。その思いが頭を過る度に、自分を責めてしまいそうになる。どうせなら最後は笑顔の彼が見たかったし、私も怒っている醜い顔なんか見せたくなかったから。

然しそれは違うと我に返る。私は彼を傷付けたけれど、それは私の傷としても残る。そうだ。私だって、沢山傷付いたのだ。

傷つけ合わなければ、私達は前に進めなかった。これから先の未来は、彼は彼自身を大切にすればいいし、私は私自身を大切にしてあげればいい。

誰かに寄りかかって生きるのはもう止めよう。これからの私は、自分の足で歩くのだ。決して速くなくてもいい。自分の心地よい速度で、ゆっくり歩ければそれでいい。

それが私にとって人生を楽しむための一つの方法かもしれないから。

 

 

 

 

 

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休憩時間。

そういえば、今日は七夕。あの時に書けなかった短冊をテーブルへ置き、今度は迷わずペンを走らせた。

・・・出来た。笹の葉にくっつけよう。

窓の外を見る。空は曇っている。もしかすると、これから雨が降るかもしれない。何だか、七夕の日って毎年こんな風にスッキリしない天気のような気がするな。地上からは、今年も天の川を見ることは出来ないだろう。

二人は無事に逢えるのだろうか。

 

 

 

「あ、やっと書けたんだね。一つに絞れた?」

同僚が此方へ歩いてくる。

今度は、私の方から短冊を掲げた。

 

“自分の足で歩ける人になる!”

 

「どうかな?」

「うん、格好良いよ!ただ・・・願い事じゃなくて、目標じゃん。」

「・・・確かに。」

同僚の言葉に納得し、自然と笑みがこぼれた。

 

私は、もう願わない。自分の力で叶えてみせるんだ。私は、私の思う強さを手に入れるために。

 

 

 

 

 

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「何だか以前にも増して元気になったわね。」

美しい手を持った彼女が、私を見て微笑んだ。

「はい、お陰様で。足取りが軽くなりました。」

私も彼女に微笑み返した。

 

 

 

 

 

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𓅯ニジキジ・・・七月七日のバースデーバード。

    鳥言葉:七変化。