空に消えた七面鳥
僕は確かに愛されていた。
それが凄く痛かった。
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12月24日、早朝。
世間は、クリスマスイブ。
夜になれば、今年も浮かれたカップル達や家族連れが街中を色鮮やかに染めるだろう。
僕には無関係なのだけれど。
今日は、今日だけは、この世界で僕1人が色の無い場所で息をしているような、そんな気分になる。
恋人が居なくて寂しいからとかそういう問題では無く、この気持ちは子どもの頃からずっとそうであったから、というだけの理由。
仕事に向かうため、玄関の扉をそっと開ける。
早朝であるので、近隣住人の迷惑にならないようにゆっくり開閉するのだけれど、錆びきった扉がギギギギ・・・という音を鳴らす。
この扉、どうにかならないかな。そろそろ大家さんにお知らせした方がいいのかもしれない。
階段を下りる際も出来るだけコツコツという靴の音さえ鳴らしたくはないので、忍び足がすっかり上手になってしまい、まるで泥棒のような気分だ。
「・・・さむ。」
独り言を言うようになったのは、歳の所為だろうか。こんな風に、無意識に言葉を発することなんて、若い頃は無かったように思う。
いや、まだ30歳なのだから、世間からすれば十分若い方なのだろうけれど。
吐く息が白く染まり、それがマスクの隙間から漏れていく。
空に昇っては消えていく白い息を見ていると、僕の生きている証が何も無い世界へ溶けていくような気がした。
それが嬉しいような哀しいような、上手く説明がつかない感情が渦巻いて、それをそのままわざとらしく白い息にしては、目に見えない感情を量産したつもりになりながら歩いた。
子どもの頃は、この時期になると必ずと言っていいほど積雪していたように記憶している。
当時は今よりずっと寒くて、僕はすぐ手足に霜焼けを作っていた。
ホワイトクリスマスなんていうのもそこまで珍しくは無かったのに、そういえば今ではあまり叶わなくなってきたな。
北の方では今でも当たり前にホワイトクリスマスなのだろうけれど、僕の住む地域ではすっかり雪が降ることさえ珍しいものになってしまった。
恐らく、温暖化の所為だろう。
然し、それとは反対に、僕は年々寒がりになっていく。
それもこれも、歳の所為なのだろうか。
先程まで真っ暗だった景色が、少しずつ色を付けていく。それに抗うように、街灯は頑張って光り続ける。
そういえば、街灯って一体いつのタイミングで消えるのだろう。考えたことも無かったな。
誰が消すのだろう?
それとも、自動的に消えるのだろうか?
どうでもいいことを考えながら歩き続けていると、少しずつ身体が温まっていく。
外出する際に付けていた手袋を外し、コートのポケットへ雑に押し込む。
靴下を片付ける時みたいにちゃんと1セットにまとめてリュックにでも入れておけばいいのだろうけれど、手袋に関してはついこんな風な扱いをしてしまう。
日頃からそんなことをしているから、気が付けばいつも片方の手袋だけ迷子になってしまって、ちゃんとしなかったことを後で悔やむのだ。
道端に落ちている片方だけの手袋を見ると、少し寂しい気持ちになる癖に、それでもちゃんと出来ない僕。そして、そんな人が世の中には沢山居るのだろう。
「おはようございます。」
聞き馴染みのある声がして、振り返る。
「あ、おはよう。」
いつものように無愛想な顔で会釈をする。
「松山さん、今日も早いですね。」
僕とは正反対に、愛想の良い笑顔を振り撒きながら真っ直ぐ此方を見つめる彼女は、同僚の小川さん。
僕は、彼女が苦手だ。
いや、良い子だとは思っているし、別に嫌いな訳ではないのだけれど・・・。
つい最近、僕に好意を寄せているらしいということを不意打ちで他の同僚から聞いてしまってから、どう接していいか分からなくなり、何だか苦手になってしまった。
彼女は全く 何も悪くないのだけれど。
「松山さん、今日って予定ありますか?」
それを訊かれた瞬間、何故だか背筋がゾッとして、折角歩いて温まっていた身体が一気に冷めてしまった。
「え・・・今日?」
「あ・・・今日、皆で飲み会しようって話になっていて・・・良かったら松山さんもどうかなって・・・。」
無意識のうちに、僕が眉間に皺を寄せてしまったからなのか、彼女は語尾に近付くに連れて声が小さくなってしまった。
「あー・・・今日は・・・えっと・・・。」
別に予定なんて何も無い。
仕事終わりに、ただコンビニでビールとツマミになるような何かを適当に買って、1人で晩酌をするだけのいつも通りの日なのだから。
でも、何となく今日だけは1人で過ごさなければならないような気がしてしまう。
「あ・・・あ、じゃあ、またの機会に是非!」
彼女は少し寂しそうに笑いながら、小走りで会社へと入って行った。
小さくなる彼女の背中を見つめながら、深く溜め息を吐いた。
また1つ、白い息が空へ昇って消えていった。
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「お前さぁ、本当に今日予定あんの?」
僕の左肩に左手を置き、僕の右肩に顎を乗せ、小さな声で耳打ちしてくるのは、同期の平井。
彼はとても馴れ馴れしい奴だ。
「・・・・・・うん。」
「嘘つけ!何だよ今の間は。お前、嘘下手過ぎなんだよ。」
置いていた左手と顎を離し、僕の背中を軽く叩いてツッコミを入れる。
彼は馴れ馴れしいが、僕はそんな彼が嫌いじゃない。
「だって・・・面倒なんだもん。」
「お前さぁ・・・ちょっとは察しろよ。」
察しろ、とは、きっと小川さんのことだろう。
彼女が僕に好意を寄せていることを僕に教えてきたのは他でもない彼だから、きっと彼女に同情して言っているだろうということくらい、鈍感な僕にでも分かる。
でも、だからこそ行くのが嫌なんだよ、と僕は心の中で叫んだ。
「お前、どう思ってんの?彼女のこと。」
「どうって・・・別にどうも思っていないよ。」
「嫌いなんか?」
「いや・・・嫌いではないよ。可愛いなとは思うし、良い子だってことも分かってる。」
僕がこんなに拒否反応を見せるのは、何も彼女に限ってのことではない。
“僕に好意がある人”が苦手なのだ。友情ならまだしも、恋愛感情を抱かれると如何してもゾッとしてしまう。
「じゃあ、別にいいじゃん。俺だってさ、別に無理に彼女と付き合えって言ってる訳じゃないんだよ。ただ、相手のことをよく知らないんなら、知ってから判断しても遅くはないだろ?それに今日は俺たちだって飲み会に行くんだし、2人きりって訳でもない。フリー同士、皆で楽しく呑もうぜって話!断る理由があるか?」
何も言い返せない。
こうして僕はいつも彼に論破されてしまう。
彼は営業の人間だからか話が上手くて妙に説得力があるし、そもそも彼のことが嫌いじゃないから尚更納得してしまう。
「・・・分かったよ。行けばいいんだろ。」
「よし!よく言った!決まりだからな!変更は受け付けません!」
彼は白い歯を見せて爽やかに笑い、此方に手を振りながら去って行く。
それを横目で見送った後、小さく溜め息を吐いた。
部屋の中での息は透明な色をしていて、残念ながら目には見えなかった。
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「健太郎、こっちにおいで。」
夕焼けが、部屋の中を真っ赤に染めている。
天使のような優しい顔をして微笑み、此方へ手招きをしている。
そんな彼女の顔も、真っ赤に染められている。
優しく美しい顔をしている筈なのに、夕焼け色の所為か何処か不気味さも兼ね備えている。
額から血を流している此方の顔は逆光であるから、今僕がどんな顔をしているのか、きっと彼女からは見えていないだろう。
僕は、蝶々が花の香りに誘惑されるように、ゆっくりと彼女に近付く。
「ごめんね・・・健太郎。愛してるよ。」
痩せ細っている僕を膝の上に乗せると、彼女は右手に持った白いタオルで額の傷口を後ろから優しく庇いながら、余った左手で小さな身体を抱き締める。
壊れたロボットのように、ごめんね、愛してる、ばかりを繰り返す彼女。
白いタオルが、少しずつ赤色に染まっていく。それさえも夕焼け色に同化してしまっているのかもしれない、と僕は思った。
然し、どれだけ色に誤魔化されても、湿った感触は生々しいのだろう。直接タオルに触れている彼女は、大粒の涙を流している。
彼女の生暖かい涙が、僕のTシャツの肩を濡らした。
お母さん、僕も愛してるよ。
でも、お母さんの愛は凄く痛いんだ。
身体中に残っている痣よりも、今出来たばかりのこの額の傷よりも。
お母さんの愛が一番痛いよ。
こんなこと思ってしまってごめんね。
僕は愛から逃げてしまいたいよ。
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「松山さん、次、何飲まれますか?」
遠慮がちに訊いてくる声にハッとした。
「え?・・・あぁ、じゃあ同じものを。」
「ビールですね。了解です。」
「ありがとう。」
「いえ。」
頼りない僕の“ありがとう”という言葉にさえ、頬を赤らめて単純に喜んでしまえる彼女は、本当に僕と同じ種類の生物なのだろうか。
嬉しい、有難い、というよりは、恐ろしい。
“違う”から、恐ろしい。
昼間、平井が僕に言ったように、確かに僕は彼女を知らない。
けれど、彼女も僕のことを何も知らない。
それなのに、僕の何が良いと言うのだろう。
もっと他に居るだろう。もっと普通の人が。
普通とは何かなんて、いざ聞かれても明確には答えられないけれど、少なくとも“普通”とは、消えない痣だらけの身体を隠すためにクソ暑い夏場でも長袖のYシャツを着ていたり、前髪を長く伸ばして額の傷を隠していたり、こんなに沢山の隠し事をする人間でないことだけは断言出来る。
僕は、彼女が恐ろしい。
彼女が、というより、自分の愛を疑いもせずに“正義”だと信じて真正面からぶつけてくるような人間が恐ろしい。
知れば、この恐怖心は消えるだろうか。
知るために、傷つけ合うのを覚悟して心に触れてみた方が良いのだろうか。
「はい、ビール来ましたよ。」
「あ、ありがとう。」
僕は彼女の乙女心に気付かない振りをして、中ジョッキを勢い良く飲み干す。
彼女は、目を真ん丸にして僕を見ている。
驚きすぎて生唾を飲み込んだ彼女の喉の音が聞こえてきそうだった。
「あの・・・訊いてもいいですか?」
何も訊かないで欲しいけれど、そんなこと言えないよな。
「うん。何?」
「あの・・・彼女とか好きな人とか、いらっしゃるんですか?」
本当、そんなこと訊かないで欲しかった。
「居るよ。」
「・・・え、あ・・・そうなんですね・・・。」
本当に分かりやすく落胆する彼女に、流石の僕でも罪悪感が込み上げてくる。
「あー・・・でも、もう傍には居ない。僕は、彼女から逃げたから。」
あぁ・・・視界がぐるぐると回る。
𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄
夕焼けが、部屋の中を真っ赤に染めている。
僕は、西日に向かって正座をさせられている。
この両足はとうに痺れているけれど、崩すことは死んでも許されない。
今回は、彼女の方が逆光になっていて顔が見えない。
然し、容易に想像はつく。
きっと、悪魔のような顔をしているだろう。
だからこそ、見えない方が都合が良い。
悪魔になっている時の彼女ほど、恐ろしいものはこの世に無いとさえ思う。
震えるほど恐ろしいけれど、涙を流せば更に逆上させてしまうため、僕は必死で堪える。
そんな僕を見下す彼女。
「何でお母さんの言うことが聞けないの!」
愛と憎しみが上乗せされた女の力は、想像する何十倍も痛いということを、きっと世の中の大半の人間は知らずに生きられるだろう。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・。」
「あんたなんて産まなければ良かった。消えてよ!」
すっかり感覚が無くなってしまい、言うことの聞かないような足で無理矢理立たされ、ベランダの外へ追い出される。
洗濯されないまま薄汚れて、所々破れている薄っぺらなTシャツ姿の僕。
今日は、12月24日。クリスマスイブ。
夕方から雪が降るだろうと天気予報で言っていたから、きっと世間はホワイトクリスマスになると呑気に喜んでいるだろう。
僕と同じくらいの歳の子たちは、サンタさんからのプレゼントが楽しみだなんて言いながら、幸せに笑っているだろう。
見上げると、牡丹雪。
その大勢の雪たちが、武器も持たない僕に殴りかかってきては体力を奪っていく。
今日のこの色鮮やかな世界の中で、色の無い世界に居るのは、きっと僕、ただ1人だけ。
あぁ、全部お母さんの言う通りだ。
僕なんて生まれてこなければ良かった。
痛いだけの愛なら、知らないままの方が良かったな。
ネロとパトラッシュのように、僕のことも天使が迎えに来てくれたらいいのに。
あ・・・でも、あれは仲良く2人で逝ったんだっけ。
独りなのは、やっぱり僕だけだ・・・。
地面に雪が薄ら積もり始めている。
ここから落ちれば、あの世に逝けるだろうか。
2階だから、高さは無い。
最悪、骨折するだけで終わりだろうか。
ただ痛いだけで、終われないのは一番嫌だ。
どころで、一体何時間此処に居るのだろう。
空はすっかり暗くなってしまった。
他所の家から零れる光と、消えかかりそうに点滅する頼りない外灯だけが僕の姿を微かに照らしてくれ。
落ちようか、落ちまいか・・・。
身を乗り出したり引っ込めたりする。
ベランダの錆びた柵を持つ。
冷えきっていて手が悴む。
気付けば、霜焼けが出来ている。
雪が積もり始めたゴミの山に乗っている、素足の指先も同様に。
ふと、地面から視線を外す。
買い物帰りだろうか。右手にビニール袋を下げ、赤いコートを着た白髪のおじいさんが、不思議そうな顔をして此方を見上げている。
そりゃあ、不思議がるのも当たり前だよな。
クリスマスイブの日に、夕方18時頃の暗いベランダに、季節外れのTシャツを着た小学生の子どもが身を乗り出しているのだから。
果たして、このおじいさんは天使だろうか、悪魔だろうか・・・。
早送りのビデオのように、短時間でグルグルキュルキュルと考えた。
そんなことをしても、到底正しい答えが出る筈も無い。
まぁ、もう、別に正しくなくてもいい。
どうせ、正しく生きたことなんて、生まれてから一度も無かったのだから。
僕が願っていることは、ただ一つだ。
ガタガタ震える顎を必死で抑えながら、声を出さずに口元を出来るだけ大きく動かす。
“た す け て”
頼りない灯に照らされた僕の口元は、おじいさんには見えただろうか。分からないけれど、諦めずに何度も云った。
声にならない言葉。
“た す け て”
おじいさんは、一瞬、眉をひそめて首を傾げたが、その後すぐに目を見開き、何かを思いついたように少し早歩きをしながら何処かへ消えて行った。
果たして、おじいさんは天使だろうか、悪魔だろうか。
いや、赤いコートを着て白髪だったから、もしかするとサンタさんかもしれない。
そうだったらいいな・・・。
僕は目を閉じた。
どのくらい時間が経ったか分からない。
サイレンの音が鳴り、それが少しずつ近付いてくるような気がして、薄目を開いた。
パトカーと救急車の赤い光がぼやけて見える。
幻覚だろうか、綺麗なイルミネーションに見えた。イルミネーションなんて一度も本物は見たこと無いのに。
遠のく意識と共に、あの光だけが僕の希望であったし、母を裏切ってしまった罪悪感の色だった。
母は、確かに僕を愛していた。
でも、それは痛かった。
僕も、母を愛していた。
それでも、僕は逃げ出した。
ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・
𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄
「松山さん・・・松山さん。」
肩を揺さぶられてハッとした。
いつの間にか机に伏せって眠っていたようだ。
「あれ・・・いつの間に寝てたんだろう。皆は?」
「先に出ちゃいました。2軒目に行くって。」
「あぁ・・・そうなんだ。付き合わせてしまってごめんね。僕たちも出ようか。」
「あの・・・大丈夫ですか?」
「・・・何が?」
心配そうな顔をしてハンカチを差し出してくる彼女を、僕は不思議な顔をして見た。
「泣いてるから・・・。」
は?泣くなんて有り得ない。どんな冗談だよ。
鼻で笑いながら頬を触ってみると、確かに頬は濡れている。
「え・・・あれ、何でだろう。」
驚きと恥ずかしさの余り、望んでもいない笑みが溢れる。泣くなんて、僕らしくない。
あの頃の夢を見たからだろうか。
でも、あの頃でさえ僕は一度も泣かなかったし、泣けなかったんだ。
それが如何して今更になって・・・。
「無理して笑わないで・・・。」
今度は彼女の頬が濡れているのに気付く。
僕はいつの間にか笑うのを止めて、ただその涙に目を奪われていた。
彼女の涙は、一体、どんな意味を持っているのだろう。
僕の涙には、一体、何の意味があるのだろう。
母の涙は、一体、何を意味していたのだろう。
「私、松山さんが好きです。」
僕は、僕が嫌いだ。
「松山さんが私のことを好きじゃなくても、そんなことどうでもいいです。いや、良くはないけど・・・いいんです。それでも・・・私は貴方が好きです。」
僕は、母の愛から逃げた。だからそんな自分が嫌いだ。
「好きだから・・・貴方が哀しいと、私も哀しい。」
なぁ、愛って何だ。
愛とは、いっそ殺して欲しいと願ってしまうくらい、痛いものだろ?
じゃあ、彼女の愛は・・・?
「ごめん・・・僕はもう、誰のことも好きになれない。」
その真っ直ぐな視線から目を背けることで、母がくれた愛とは違う形をした彼女の愛を見ないようにしている僕は、きっと卑怯だ。
そんなこと、自分が一番よく分かってる。
「それでもいいです。それでも、私は貴方のことをもっと知りたい。」
子どものような彼女の小さい手が、ゆっくりと此方の方へ伸びる。
それが僕の前髪をそっとかきあげ、黒ずんだ額の傷に優しく触れる。
何故、彼女はこの傷を知っているのだろう。
拒絶したいのに、魔法をかけられたみたいに動けない。
必死に隠していたつもりだったのに、簡単に気付かれていた。そして、簡単に触れられてしまっている。
彼女の指は冷たくて、暖房が付いた部屋で火照っていた額は心地良い。
知られること、触れられることをずっと恐れていたのに、いざ触れられると意外と嫌じゃないことを知ってしまった。
お酒の所為なのか、暖かすぎる部屋の所為なのか、僕はきっと正気じゃない。
なぁ、心地良いって何だよ。
此処はずっとずっと痛かった筈だろ。
「本当の僕を知ったら、きっと嫌いになるよ。」
また無理して笑ってみる。でも、きっと哀しい顔をしているだろう。子どもだった頃の僕みたいに。あの日、ベランダの柵を乗り越えようとした時の僕みたいに。
僕は、彼女が怖い。
彼女が、僕を真っ直ぐ見つめるから。
僕は誰のことも見つめられないし、誰からも逃げ続けているから、僕から逃げない彼女が怖い。
「私が今まで見てきた貴方も・・・それだって、本当の貴方ですよ。」
優しく傷を撫でながら、彼女が微笑む。
別に、彼女の言葉が沁みた訳じゃない。
そんな訳ないのに、年甲斐もなく泣いた。
子どもの頃からずっと貯金してきた涙を、今日で全部使い果たしてしまうかと思うくらいに。
これはきっと酒の所為だ。
酒の所為だ。
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「送ってくれてありがとうございます。」
白い息を吐きながら、丁寧にお辞儀をする彼女。
「いや、此方こそ・・・今日はみっともない所を見せてごめんね。」
冷たい空気に触れながら歩いたことで酔いが覚め、今になって恥ずかしさが込み上げてくる。
「いいえ、私は嬉しかったです。」
店の中で男にわんわん泣かれて嬉しいだなんて、彼女はやっぱり変だ。普通じゃない。
でも、やっぱり、普通って何だろうね。
「小川さんって変わってるよね。」
自然に溢れた笑みが、白くなって空に消える。
「そうですか?普通ですよ。」
彼女の笑う声も、白くなって空に消える。
僕は、いつか誰かに話せるのだろうか。
あの日の、あの頃の、あの愛の話を。
いずれ話せる時が来たとしても、その相手が彼女なのかどうかもまだ分からない。
そして、誰かの愛を受け止められるのかということも、僕が愛を生産出来る人間なのかも、まだ分からない。
何も分からない、頼りない僕だ。
だけど、分からないことを分かった振りをして生きることはしない。
「じゃあ、また月曜日に。おやすみ。」
「はい、おやすみなさい。」
1人の帰り道。
寒さの余り、コートの両サイドのポケットに手を突っ込む。
あ・・・そういえばポケットに手袋を入れっぱなしだった。
今日は両方とも迷子になることなく無事だったみたいだ。
冷えた指に手袋をはめながら歩く。
雪が降り始めてきた。
ほんの小さな雪だから、明日はホワイトクリスマスにはならないだろうな。
本物のイルミネーションの前を通り過ぎた時、やっぱりあの時の赤い光はイルミネーションなんかじゃなかったと笑えるくらいに綺麗だった。
少しずつ街灯の数が減っていくのは、自宅が近づいてきたサインだ。
空を見上げる。
小さな雪たちが僕に向かって突進してくるけれど、あの頃のように殴りかかってくるようには見えなかった。
白い息を吐く。
空に昇っていき、消えていった。
僕の生きている証が、空に溶けていく。
先程まで一緒に歩いていた彼女の生きている証や、見ず知らずの誰かの生きている証も、全部、この暗い空の中に溶けていくのだろう。
例え、それが見えなくなったとしても。
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𓅦七面鳥・・・12月24日のバースデーバード。
鳥言葉:利他の精神。