海鴉が鳴いている⑻
何度も何度もその手紙を読み、彼女の言葉を深く心に刻んだ。その間、私の涙は絶えず流れていて、涙は枯れることはないのだという事を知った。
気が付けば外は明るくなっていた。
こんな手紙を読んでしまったら、さすがに眠れる訳が無い。
泣き腫らした目をしたまま、部屋にある必要な物を全て鞄の中に詰め込んだ。こんな顔を見られたくなかったので、両親が居ない間を見計らって実家を後にし、一人暮らしをしているアパートに戻った。
無事自宅に帰り着いた事を彼に連絡し、翌日に会う約束をした。
ーーー
「ごめんね、忙しいのに。仕事大丈夫?」
「全然平気だよ。話って何?式の準備のこと?」
私はもう、人から目を逸らしたり、俯いたりしない。真っ直ぐに彼を見つめた。
「ごめんね・・・別れて欲しいの。」
「え?・・・なんの冗談?」
本気にしていない様子の彼は、ヘラヘラと笑った。
「ごめん。冗談ではないの。」
「・・・どうして?」
「私、貴方にも自分の気持ちにも嘘をついてた。」
彼に全てを打ち明けた。
話しても理解してもらえないだろう。でももうこれ以上自分の気持ちに蓋をしたり、誤魔化すような事は出来ない。
今更、彼女を探し出してもう一度やり直したいとか、少女のように夢を見ている訳じゃない。
ただ・・・
“普通の幸せ”のために彼を利用し、平穏だけを手に入れて結婚したとしても、気持ちをぶつけ合えない生活が上手くいくとは思えない。
私は彼を好きだけれど、愛してはいない。酷かもしれないが、それだけは明確に分かっている。
その罪悪感を抱いたまま一緒になるのは辛いし、彼にも失礼だ。
「・・・本当にごめんなさい。」
彼は暫く言葉を失っていた。
その間、私の全身には異常なまでの力が入り、微かに震えていた。
どんなに罵声を浴びせられようと、例え暴力を振るわれようと、今日だけは全て耐え抜くことを覚悟していた。
私は彼を深く傷付けてしまったのだから、それくらいされて当然だ。
「どうしても、もう一緒に居られない?」
「・・・ごめんなさい。」
「そっか・・・うん・・・。詩音の気持ちは分かったよ。」
彼はいつもと同じ穏やかな声をしていた。そして、そのままのトーンで話し続けた。
「何も知らないで実家に泊まらせたり、もしかして今まで他にも沢山傷付けてしまうような事を言ってしまっていたかもしれない。詩音、ごめんね。」
「将太は何も悪くない!言わなかった私が全部いけないの。」
「詩音は悪くない。昔も今も、何も悪くないよ。ただ一人の人を愛していただけだ。僕は君を愛していたのに、どうして君の苦しみや孤独に気付いてあげられなかったのかな・・・。ごめんね。」
私の気持ちを理解し、涙してくれる人に初めて出逢った。そして、そんな優しい人を私は傷付けてしまった。
こんな風に胸が張り裂けそうになるような辛い出来事が、きっとこの先も私を待ち受けていることだろう。
でも、それも覚悟の上だ。
「詩音、今までありがとう。さようなら。」
こんな私に、彼は最後まで優しかった。
ごめんね。
私、貴方を愛せたら良かった。
ーーー
私は再び一人になった。
彼と別れた事を、電話で両親に報告した。
当然理解される筈もなく、ただただ一方的に激怒され、「本当に恥ずかしい」と捨て台詞を吐かれた。今回ばかりは勘当されたようなものだ。
けれど不思議と寂しくは無かった。
籠の外に解き放たれたような気がして、寧ろ清々しい気持ちだった。
彼女を想いながら生きていることを、もう誰かに遠慮したり、我慢しなくて良いのだ。
ーーー
アラタへ
返事が遅くなってしまい、ごめんなさい。
私も貴女に初めて手紙を書いています。
元気ですか?
ありきたりな始まりですが、私は何より貴女の無事が知りたいのです。
あれから9年もの年月が経ったけれど、今だに貴女の夢を見ることがあるのです。大人になった貴女を知らないくせに・・・可笑しいでしょ?
夢の中ではいつも貴女が傍に居て、他愛の無い喧嘩をしたり、仲直りをしたり、愛していると見つめ合うの。それが幸せ過ぎて、夢から醒めないでと願ってしまう程です。
貴女が居なくなった時、どれだけ考えても貴女の気持ちが分からなくて、私だけが貴女を想っているのだといつも寂しさを抱いていました。
貴女に会えない事がこんなにも苦しいのなら、想いを伝えなければ良かった。好きにならなければ良かった。
そう何度も悔やみました。
然しそれは間違っていたと、貴女からの手紙でようやく気付いたのです。
私達が気持ちに嘘をつくこと無く愛を確かめ合えたことは、紛れもなく幸せなひと時でした。
私達、間違ってなかったんだよね?
あの時、貴女は私を守ってくれた。もしあのまま一緒に居れば、きっと私が更に傷付いてしまうと思ったのでしょう。
そのために貴女がどれだけ傷付き苦しんだか、計り知れません。決して弱さを見せない人だから、私は貴女を強い人だと勘違いをして、自分ばかりが辛いと思い込んでしまっていました。その事に、心の底から恥じています。
貴女を愛した時のように、また誰かを愛することなんて二度と出来ないと諦めていました。
気が付けば、私達が周りの人間に傷付けられたように、私もまた、罪の無い人を深く傷付けてしまいました。
本当に愚かで、身勝手な女です。
貴女が思うような、素敵な女性には到底なれていないのです。
もしいつか会えた時、こんな人間のままだとガッカリされてしまうでしょう。
だから・・・今更かもしれないけれど、私もちゃんと前を向いて歩いていきたいのです。
それを気付かせてくれたのは、貴女からの手紙でした。9年越しだったけれど、貴女の想いを受け取る事が出来て本当に良かった。
私、これまで沢山間違ってきたけれど、貴女を好きだった事だけは正しかったんだと、今は胸を張って言える。
大人になった貴女は、やはりあの頃と同じように、誰よりも素敵な女性なのでしょうね。
もし今、貴女が心から愛している人が居るのなら、どうかその人と幸せになれますように。
そして私も、こんなにも貴女を愛したように、いつかまた心から誰かを愛せますように。
心配しないでね。
私はもう、消えようとしたりしない。
貴女が今日も何処かで生きていると信じて、私も今日を生きていく。
貴女の存在は、私の中に在る愛しい一部です。
さようなら、愛しています。
シオ
ーーー
宛先もない、届く事の無い手紙。
こんなに丁寧に字を書いたのは何時ぶりだろう。疲れきった右手を労りながら、ベッドにゆっくりと横たわる。
寝なきゃ。明日も仕事だ・・・。
久しぶりに深い眠りにつく事が出来た。
夢の中の彼女は、相も変わらず私に微笑みかける。
今日も貴女を愛しています。
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𓅪海鴉(ウミガラス)の鳥言葉
・・・癒されない悲しみ