鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

鶍の嘴⿴⿻⿸⑵

私は、彼より2時間程早く起床する。適当に顔を洗い、彼が毎朝飲む珈琲や、お昼に食べれるかどうかも分からないお弁当を用意する。彼を起こす時間にセットされた携帯のアラームが鳴ったら、寝室へ向かう。彼は朝が弱いので、何度起こしてもなかなか目を覚ましてくれない。起こそうとする私を思い切り突き飛ばしたり叩いてくる事もあった。彼は寝惚けているので憶えてはいないし、悪くもないのだろうが、私はそうされる度にサンドバッグの気持ちが分かり、惨めで消えたくなった。

繰り返し起こしていると、此方もだんだんと苛々してきて、ついつい怒り口調になってしまう事もあった。それに対して、「起こし方が雑。可愛くないし、朝から苛々させないで。」と言われてしまうので、結局どちらにせよ毎朝この惨めな気持ちがブーメランのように私に返ってくるのだった。

 

もう・・・早く起きてよ。こうして貴方を起こしている時間が一番勿体無いんだから。その時間で洗濯機を回したり、お弁当作りのために荒れたキッチンを片付けたいのに。こちらにも段取りというものがあって、やる事があるの・・・。

 

心の中でブツブツと唱えて、声には出さないように飲み込んだ。

 

 

「行ってきます。」

「行ってらっしゃい。気を付けてね。」

扉が閉まり、鍵をかけると、すぐに駐車場が見える方のベランダへ移動する。彼が車に乗り込んで走り出すところまでを確認し、ようやく部屋に戻る。

ホッと溜め息を吐く。

彼が居ない事に解放感を感じてしまう心の底には、同時に罪悪感も生まれてしまうので、完全にはスッキリしないのだった。

 

緊張が解けた後、頭の中には洗いたいタイミングで洗えなかった食器や、回せなかった洗濯機が思い浮かぶ。そうすると、また急に身体が動かなくなり、激しい眠気に襲われる。ここで寝てはいけない事は百も承知。片付けに加え、部屋の掃除もしなければならないし、食材の買い出しにも行かなければならない。車があれば、大量買いが出来て少しは家事の時間を短縮出来るのだけれど、免許を持っていないため手段は自転車のみ。何も考えずに買いすぎてしまうと、自転車の運転中にフラフラしてしまい危ないので、雨の日以外はほぼ毎日買い物に出掛けなければならなかった。

今日もする事が山積みだ・・・。

分かっているのに、身体とソファがくっ付いているかのように動けない。私って、こんなに怠け者だったのだろうか。情けなさで涙が溢れる。どうする事も出来ず、ソファに座り込んで泣いた。

 

 

ハッと目が覚める。いつの間にか眠ってしまっていた。さっきまで泣いていたのに、急に意識がなくなった事に対して恐怖を感じたのと同時に、頭上に気配を感じた。恐る恐る見上げると、怒ったような呆れたような顔をした彼が、私を見下していた。

「書類を忘れて帰ってきたんだけど。車から降りるの面倒だから下まで持ってきて欲しかったのに、メール無視だし・・・。なに、毎日そうやってダラダラしてるの?」

「ごめんなさい、気が付かなかった・・・。でも、毎日じゃないよ。最近、何だかしんどくて。」

「言い訳しないでよ。さっきまで元気だったじゃん。ずっと家に居るのにしんどいって何なの?僕だって家でゴロゴロしていたいけど頑張って仕事に行ってるんだから、君も家事くらい頑張ってよ。」

自分の言いたい事だけ言った彼は、忘れ物を手に取り、再び家から出て行った。

 

 

私は、いつも体調不良を隠す子供だった。

小学校2年生の冬、どうしてもしんどくて我慢出来なかったので、たった一度だけ保健室に行った事があった。案の定、熱が39度近くあった。担任の先生から母に連絡が行った。母は仕事を早退して迎えに来てくれたのだけれど、「もう・・・何でもっと早く言わなかったの!」と言われた。私には、それが心配よりも怒られているように感じ、それ以来、何があっても体調不良を隠すようになった。体調が悪いと、人に迷惑をかけてしまうから。風邪を引いても、お腹が痛くなっても、学校でクラスメイトからハブられて、怖くて行きたくなかった時でさえも、誰にも助けを求めず隠し通した。何事も無いかのように、笑顔で学校へ行った。他人に嫌な顔をされる事に対して異常に恐怖を感じていたので、自分は誰に対しても笑顔を作った。大丈夫でなくても、大丈夫と言うのが口癖であり、嘘が上手だった。本当に云いたい事は、誰にも、家族にさえ云えなかった。皆、自分の事に必死だったから。母は私と弟を養うために必死だったし、先生は良いクラスを作り、良い子を育成する事に必死だった。

どんな時も、笑うのが癖になった。彼の前でも例外では無く、いつも“楽しそう”にしていた。此方が心の内を分からないようにしているのだから、気付かれなくて当たり前だ。けれど、それはそれで寂しかった。私は、自分でも自己中でどうしようもない人間なのだという事をよく分かっている。

 

 

情けない。子供の頃から、怒られないように良い子で居ようとした私が、いい歳して好きな人に怠け者扱いされて、呆れられて怒られる事も、彼が私の気持ちを分かってくれない事も、私自身、何故こんなにしんどいのか分からない事も。

涙が止まらない。

私は、皆が普通に出来る事が出来ていない。無能な人間なのだ。仕事をしていた頃は、そんな事はあまり思わなかった。毎日笑顔で出社し、同僚や上司、部下から「いつもその笑顔に癒される」と褒められ、仕事も順調で、誰かの役に立っていると強く感じていた。

私にとっては、外で働く事が一番良いのかもしれない。早く仕事を探そう。私に家事は向いていない。私は、此処には居られない・・・。

 

 

「おかえりなさい。あのね、私・・・仕事しようと思うの。」

彼が帰ってきた玄関先で、鞄を受け取りながら早速伝えた。

「うん。いいんじゃない?いい加減、毎日ゴロゴロしてるのにも飽きたでしょ。」

彼は素っ気なくそう言うと、スーツ姿のままでドカッとソファに横たわった。

 

ねぇ・・・私の話、ちゃんと聞いてくれてる?

 

 

前職とは全く違う職種に決めた。経験があった訳ではないが、元々興味があったし、そもそも外で働けるならどんな事でも一生懸命になれる自信があった。とにかく外に出たい。出来るだけ大勢の人の役に立ちたい。

すぐに採用の連絡が着て、早速その翌週から働く事となった。

「来週から働く事に決まったから。」

夕食時、彼が機嫌の良さそうな日を選んで報告した。

「そう。頑張ってね。勤務時間は?」

「9時半から。遅い時は20時位までかな。」

「結構長いね。大丈夫?両立は出来るの?」

「・・・え?」

「夕飯が遅い時間なのはいつもだからいいけど、掃除とか洗濯とか。頑張れるの?」

 

この人は、自分が手伝うという選択肢は無いのだろうか。いや、“手伝う”と言うのもおかしい。2人で住んでいるのだから“協力”だよな。え?私が全部しなければならないというのは決定事項?

 

「あ、先に言っておくけど、僕をアテにしても無駄だよ。仕事忙しいし、君より遅くまで働いて、現に君より稼いでいるんだから。」

「そ、そうだよね・・・。」

「僕は別に暫く主婦でいいと思ってたけど・・・まぁ仕事するのは自分で決めた事なんだから、両立、頑張ってね。あと、これからは共働きなんだから、家賃は折半でお願いね。」

 

彼にとって、私の存在って何なんだろう・・・。

 

2人で居るのに、孤独感に襲われる。衝動的にこの部屋から飛び降りてしまいたくなった。そうすれば、きっと見えない羽根が生えて、私は自由になれる気がした。そんな事を考えついてしまった自分に、自分で驚いた。

喉の奥にスーパーボール程の大きなものが突っかえているように痛い。呼吸が出来ない。もう、食欲も失せてしまった。

彼に伝えられないこの痛みを必死に堪えたまま、私はお面を付けているように笑った。

 

 

再就職して半年、同棲を始めて1年以上が経過していた。それでも、相変わらずの2人だった。私は彼に嫌われないように、彼の考えに従うフリをしていたし、彼は私の考えを知ろうともしないままだった。

ただ、“好き”なだけで一緒に居る2人。それだけに固執し、2人で居る事に意味を持たせようとしていた。

 

「洗濯物溜まってるじゃない。」

「食器も洗ってないし。」

彼のその言葉に対して私は、“だったら自分がやればいいじゃない”と心の中で思いながら、何でも形だけ謝っていればいいかと思うようになった。

「ご飯要らないなら言ってくれればいいのに。」

「毎朝起こすの大変だから、これからは自分で起きてくれないかな。」

私のその言葉に対して彼は、“最初はそんな事言わなかったのに”と、私を面倒臭がるようになった。

 

私達、何のために一緒に居るんだろうね。

 

 

お互いに背を向け合ったまま、5年。

彼はそれなりに出世して、私もそれなりに責任のある仕事をするようになっていた。もう、お互い何の不満も言い合わず、興味も抱かなくなった。“好き”だけで一緒に居た筈の2人が、その“好き”さえ無くなった。

 

その頃、何となく私は、彼が浮気をしているのではないかと疑っていた。確証は無いけれど、長年一緒に過ごしていた勘というのだろうか。あれだけ私に不満をぶつけながら日々を過ごしていた彼が、今では私に何を言う訳でもなくなったし、仕事に行く時には心做しか楽しそうに見えていて、それはもう今の私には見せない顔だったからだ。

彼は、きっと、恋をしている。もう、私の事など視界にも入っていないだろう。私のものだった筈の彼の“好き”が、とっくに誰かのものになっているのだと感じた。

 

傷付いていないと言えば嘘になるけれど、不思議とそこまで哀しくはなかった。私の心の傷は、彼が私を好きでいてくれていた時の方が深くて痛かったから。そして、もしかしたら彼も同じ気持ちなのかもしれないと思った。

 

彼は私を見ていないし、私も彼を見ていない。

 

 

そして、私は1人になった。

2人になった時は、勿体ぶって駆け引きをし合っていたというのに、1人になる時は何とも呆気なく、思ったより遥かに簡単だった。

 

彼は、割とすぐ別の人と授かり婚をした。勿論、本人からでは無く人伝に聞いた。やはり私の勘は間違っていなかったのだと確信し、こんな私でもちゃんと彼を見つめていられた事が少し嬉しかった。そして、私は彼に感謝した。私を否定し続けた彼を忘れ、前を向いて歩いていける幸せな未来を、他でも無い彼がくれたのだから。

 

 

 

私は、今まで生きてきて全く馴染みのなかった病院の中に居た。自分自身がしんどい事を隠さなければならない理由も、迷惑をかけてしまう人も居なくなったからだ。

名前を呼ばれ、緊張しながら扉を開ける。向こうから希望の光が見えたような気がして、眩しくて目を瞑りそうになった。

死にたくなるのも、涙が出るのも、怠けでは無いのだと言ってくれる人が出来た。そう言ってくれたのは、家族でも無く、愛している人でも無い、全くの他人だった。

自分の病気を認め、誰かから認めてもらえる事で、私は何か重たいものから少しだけ解放された気がした。

 

 

 

ーーそのような経験から、この曲が作られたんですね。辛かったでしょ・・・?

「でも、そのおかげでこの曲を作る事が出来たので、今では感謝しています。」

ーーまだお若いのに、本当に凄い・・・。あら、もうお時間になったようですね。shihoさん、今日はお話伺えて、本当に良かったです!ありがとうございました!是非、また来て下さいね!

「はい、是非。ありがとうございました。」

 

 

待合室に流れるラジオ。誰かが本のページを優しく捲る音。先程から降り出した雨。その雨粒がポツポツと音を立てて、透明な窓にキラキラとしがみついている。

 

今、私は1人だ。けれど、2人でいる時の独りとは違う。少しだけ、軽い。

きっと、どちらが悪い訳でもないのだと思う。ただ、寄り添い合えなかった。私達は、鶍の嘴だった。きっと、どちらも間違っていたし、正しかっただけなのだ。

 

私は扉を開き、お気に入りの青い傘を広げ、静かに雨の中へと消えた。

 

 

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𓅪鶍の嘴(いすかのはし)

・・・イスカの上下の嘴(くちばし)が湾曲して食い違っているように、物事が食い違って思うようにならないこと。齟齬をきたすことの例え。

(コトバンクより引用)