海鴉が鳴いている⑹
ほとぼりが冷めた頃、携帯電話は私の手元に戻ってきたけれど、電話帳の“あ”行や着信・発信履歴を何度確認しても彼女の名前は何処にも無かった。更には、メールの履歴までも。
彼女の存在は微かに残ることも無く、大人の力によって完全に消し去られてしまった。
「もう、皆消えてしまえば良い。」
自分でも聞いた事がない位の低い声で呟いた。
目に映るもの全てが敵だった。この心は彼女を想うものと同じであるのに、その彼女が居ないというだけでこんなにも醜くなってしまう。
私はもう、心から笑うことも、誰かを信じることも、愛することも出来ないかもしれない。私の心は殺されてしまった。
でも、どうでもいいや。
彼女が居ないのなら、私が私である意味も無い。
学校から彼女が消えた、16歳の夏の終わり。
私は死んでしまった心を抱えたまま、卒業までこの学校に通い続けた。
ーーー
25歳になった私は、結婚式の打ち合わせのため、式場に居た。
一方的に勧められたお色直し用の派手なドレスの試着を済ませ、スタッフの方がカーテンを開ける。真っ先に母の声がした。
「まぁ!綺麗ね〜。そのドレスに決めたら?ね、将太くん。」
「はい、とっても似合ってます。」
優しい顔をして、彼が私に微笑みかける。
「そうかな・・・でも、ちょっと派手すぎない?」
「主役なんだから、それくらいの方がいいのよ!貴女はただでさえ控えめなんだから。ね、それにしなさい!」
どれだけ褒められても気に入った訳では無いのだが、他人に自分の意見を言うのが面倒なので諦めた。
「・・・じゃあ、そうしようかな。」
現在の私は、愛のために立ち向かったあの頃の自分や傷付いた心を、まるで始めから無かったかのように平気な振りをして、心の奥底に閉じ込めている。
そして、彼女に出逢う前のように、波風を立てず誰にも本心を言わない、普通でつまらない私に戻っていた。
16歳の私は、周りが消えてくれないのなら自分が消えてしまえばいいと思うことしか出来なかった。
17歳になっても、18歳になっても、彼女と出逢った春を迎える度、もう一度あの日からやり直せたらと願った。
19歳になっても、そして大人になっても・・・彼女と引き裂かれた夏の終わりを思い出す度、昨日の事のように胸は痛み、何度もあの日と同じように殺された。
一度も彼女と過ごすことの出来なかった秋や冬の匂いを嗅ぐ度、いっそ消えてしまおうと思った。
けれど、この世から消えようとする時に限って、時を経て忘れかけていた筈の彼女の顔を鮮明に思い出してしまうのだ。
もし私が消えてなくなったとしたら、本当にもう二度と彼女には会えないだろう。それを想像しただけで静かに涙が零れ、視界が滲んで前が見えなくなる。
そのせいで幾度となく消える事を思い留まり、この傷の痛みと共存するしかなかった。そして、そのおかげでなんとか今日まで日々を送ってこられたのだ。
彼女はもう、私の一部なのかもしれない。ふとそう思った時、彼女を忘れることを諦められた。
ーーー
式場を後にした私は、久しぶりに実家に泊まっていた。
高校を卒業し、実家から遠い大学へ進学するために一人暮らしを始めた時以来だから、6年ぶり位だろうか。
大学在学中も、就職をしてからも、何かと理由をつけて帰って来ないようにしていた。地元に帰省し、実家に戻り、自分の部屋に居ると、あの頃の匂いがして、あの頃に戻ったような気がして、余計に心が苦しくなるからだ。
「結婚すると暫くバタバタしてしまって、なかなか実家に帰られなくなるかもしれないから・・・たまには親孝行しておいで。」
私の過去について何も知らない彼に言われた。彼はとても優しい。でもその優しさが、時に鬱陶しく感じてしまう。そんな事を思ってしまう私は、本当に嫌な女だ。
彼に両親との関係を説明するのも面倒だったので、有給を使って渋々帰ってきたのだった。
「詩音、ちょっといい?」
ドアの向こうから、母が私を呼ぶ。
監視されていたあの頃がフラッシュバックして、一瞬心臓が止まる。
「・・・何?」
「いい?入るわよ。」
母は遠慮がちに部屋に入り、ベッドに座っている私の横にゆっくりと腰掛けた。
「詩音に渡したい物があって。」
「何?渡したい物って。」
「・・・これ。」
小さな声でそう言うと、エプロンのポケットから一通の封筒を取り出した。
「何?これ。」
私はそれを受け取り、封の開いていない封筒を照明に透かしてみた。
中身は手紙のようだった。
「捨てられなかったし、かと言って、あの時は渡すことも出来なかったの。でも今は、将太くんっていう素敵な御相手を見つけて、普通の幸せを掴んでくれたから・・・もう、時効よね。ずっと渡せなくてごめんね。」
そう言うと、母は静かに部屋を出て行った。
母が“普通の幸せ”という言葉を使った瞬間、この封筒の差出人が誰なのかということは容易に想像がついた。その言葉は、あの頃、私の心がおかしくなってしまう程に両親が使っていた言葉だからだ。
封筒を持つ手が震える。
この震えが怒りなのか恐怖なのか、自分ではもう分からないし抱えきれない。それ程、様々な感情が複雑に入り交じっている。
私が本当に欲しかったものは、“普通の幸せ”じゃない。例え周囲から“不幸だ”と言われたって、そんなの別にどうってこと良かった。
この心の傷に“時効”なんてあるのだろうか。人には見えないだけで、未だに膿も出せず、痛々しく腫れたままでいるのに。こと如く私の気持ちなど無視して、全く何も考えてくれていないのね・・・。
痛くて、哀しくて、情けなくて、涙が零れた。
この封筒を開けたい。でも簡単には開けられない。開けてしまったら、何かが変わってしまうかもしれない。開けてしまわない方がいいのかもしれない。
けれど、彼女を感じたい・・・。
頭の中はその繰り返し。
私は16歳の少女に戻っていた。