鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

姫黒海燕の彼女

真夜中の田舎道。

街灯は殆ど立っていない。スマホのライトだけを頼りに、行く宛ても無く歩いている。過疎化しているこの集落にコンビニは無い。それに似せたような店はあっても、村の人間が個人で経営している完全にローカルな店。こんな時間には疾うに閉まっている。言うまでもないが24時間のファミレスなどある筈も無い。ただ無数に広がる田んぼや畑たち。そんな緑が広がる綺麗な景色も、こんな暗闇では何も見えやしない。妙な静けさと冷たい風のせいで僕は少し怖くなった。

 

「出て行け!」

鼓膜を突き破るような彼女のヒステリックな声が、未だ耳の奥にこびり付いている。

一体僕が何をしたと言うのだ。

証拠も無いのに浮気を疑い、被害妄想を発動し、此方に八つ当たりをして、最終的に自身の感情の収拾がつかなくなり、僕を家から追い出す。それが不機嫌な時の彼女の行動。

どう見ても被害者は僕の方だ。

然し、変に意見しようものなら火に油を注いでしまい逆効果だろう。頭の中で想像すると恐怖でしかないので、結局言われるがまま黙って家を出るのだ。

 

当たり前だが浮気などしていない。神に誓ってもいい。彼女だけを一途に想っているなんて格好の良い事は言えないが、僕は浮気なんて出来るような器用な男でも無いし、何よりそんな面倒臭い事はしたくないのだ。大体、彼女が言う浮気の証拠なんて、僕から言わせてみれば何の根拠も無いものばかりだ。

例を挙げるなら、

1.スマホをトイレに持って入った

2.スマホを見てニヤニヤしていた

3.スマホのロック番号を教えない

これだけで怒り出す。考えてみればどれもスマホに関する事ばかりだ。こんな下らない言い争いになる度に、スマホを所持するのが当たり前の時代に生きている事に嫌気がさす。

1つずつ弁明していくと、1.は汚い話になるので言い難いのだが、僕は大便をする時にその事にだけ集中すると引っ込んでしまうので、携帯ゲームをする事で集中力を分散し、それを快調に排出するためにスマホをトイレへ持ち込むのだ。何度も説明しているのに全く信じてもらえない。

2.は、動物の動画を観ていて(正直に言うと、たまに可愛い女の子の動画を観る事もある)、ついつい顔が綻んでしまっただけ。でも自分だってテレビに出てくるイケメンにキャーキャー言っているじゃないか。自分の事は棚に上げているが、それとこれと何が違うと言うのだろう。

3.なんてもはや論外。スマホの中身なんて個人情報の塊なのだから、普通は誰でも知られないようにするのではないだろうか。彼女に情報を悪用されるかもなんて事は流石に疑っていないが、これを強要するなんてモラルに反している。現に彼女だって自分は教えないのだから。訊いた事も無いし知りたくもないけれど。

長い年月を一緒に過ごしてみて分かった。彼女は“自分はいいけど相手は駄目”という性格。ジャ〇アンによく似た発想の持ち主なのだ。何かにつけて僕に文句をつけては、攻撃的な態度を取る。

大体、家だって2人で住んでいるのだから2人のものだ。何故僕ばかり追い出されなければならないのか。逆の立場だったらこんな真夜中に相手を家から追い出す事はしない。どんなに喧嘩をしても、仮に相手が浮気をしていたとしても。追い出した後に何か事件に巻き込まれたり命の危険に晒される方が嫌だからだ。これは男と女の違いだろうか。だとしたら、男はたまったもんじゃない。

証拠も無く勝手に疑念を抱いただけで、何故こんなにも酷い仕打ちが出来るのだろう。僕がどうなるかなんて事よりも、結局は自分の機嫌の方が重要なのだろうか。

彼女への不満が僕の心を支配する。それに気付いた時、彼女を好きになった事自体を後悔しそうになったので、急いで頭の中からかき消した。

それにしても寒いな。もう少し着込んでくれば良かった。車のキーも持たせてくれないなんて・・・。

 

 

約1時間程歩き続けると、街灯がある場所まで出てきた。

今、何時だろう・・・。

ずっと真っ暗な所に居たため、すっかり目は慣れてしまった。スマホを確認する。画面が眩しくて思わず目を細めた。

4時か・・・。

徐ろにパーカーのポケットの中に手を突っ込み、相棒を探した。それはあったのだが、肝心なライターを忘れてしまった。吸いたいのに吸えない。その事実を知ってしまった瞬間から、苛々を押し殺していた気持ちが抑えきれなくなりそうだった。

 

「よー、兄ちゃん。こんな時間に何やってんだい?」

人ひとり居ないと思っていたのに、何者かの低く嗄れた声が突然聞こえてきた事に驚き、思わず身体が跳ねた。

恐る恐る振り返る。背後には、髭を貯え、白髪混じりの長髪を1本に束ね、革ジャンを羽織った、如何にもロックミュージシャンという雰囲気を漂わせた50代位のおじさんが立っていた。

「こ・・・こんばんは。」

失礼な話だが、一瞬、熊が出たかと思った。パッと見はそんな風貌でもあったし、田舎なので熊が出没する事は有り得なくもない。

僕は驚いたせいで心拍数が上がり、自分の心臓の音しか聴こえなくなった。

「何だ?バケモンでも見るような顔して!」

怯えた僕を見て、おじさんは黄ばんだ歯を見せて大きく笑った。微かに煙草の匂いがする。

・・・火、持っていないかな。

こんな状況でも、そんな事を考えてしまう。

「未成年かい?1人で何処に行こうってんだ?」

「26です!」

ムキになった僕は、いつもより少しだけ大きな声を出してしまった。髭も生えないような中性的で童顔な顔つきや、168cmの低身長のせいでいつも未成年に間違われる。酒や煙草を買ったり居酒屋に行った際には必ず身分証を確認させられるのも面倒だし気分が悪い。

僕はコンプレックスの塊だ。

「そりゃ〜悪かった!兄ちゃん、暇ならちょっと付き合え。」

おじさんは笑いながらそう言って、こちらの返事を待たぬまま僕を追い抜いて歩き始めた。

まぁどうせ行く宛ても無いし、煙草も吸えるかもしれないからついて行ってみよう。

僕達は暫く無言で歩いた。

 

 

5分程歩くと、ある店の前に着いた。外観はライブハウスのようだが、見た目だけではどういうジャンルの店なのか分からない程にゴチャゴチャしているし、言ったら悪いが結構古びている。昔からあるのかもしれないな。隣村にこんな個性的な店があったなんて今まで知らなかった。きっと僕が何に対しても興味が無いだけなのかもしれないが・・・。

 

「ここは?」

「俺の店よ。気分で酒や飯を出してんだ。」

僕は“へぇー”と薄いリアクションをし、おじさんに続いて中へ入った。

「流石にこの時間は閉店してるんですよね?」

「あぁ。まぁいいからちょっと待ってな。」

そう言ってキッチンの方へと消えて行った。僕は適当に窓際のソファを選んで腰掛け、店内を見渡しながら待った。

おじさんの趣味なのだろう、ギターや海外のポスター、レコードなどが至る所に飾られている。全体的に年季が入っているが、それが逆に洒落ている。そして何処も彼処も煙草の香りが染み付いている。店に入るまでは少し抵抗があったが、中は不思議と落ち着く空間だった。

ふと、店の時計が目に入る。

・・・4時半か。

一睡もせず歩き続けていたので、少しの疲労感と眠気が襲ってくる。

彼女はもう寝ているだろうか。それともまだ怒って起きているだろうか。

彼女の事を考えると、うんざりするほど頭痛がしてくる。僕はまた無理矢理かき消した。

 

「おぉ、兄ちゃんお待たせ!」

そう言って野菜スープと大きめのお握りを1つ出してくれた。持ち合わせが無い僕は困ってしまい、おじさんを見上げた。

「何だそのシケた面は!金は要らねぇから心配すんな!まぁ味の保証はねぇけどな!」

おじさんは豪快に笑った。

 

スープには、大きくカットされた野菜が沢山入っている。じゃが芋がホクホクだ。口いっぱいに頬張ってしまい、ハフハフしながら冷ます。口内を少し火傷してしまったが、美味い。冷えた身体に沁みる。きっと何処にでもあるような野菜スープなのだろうが、久し振りにこんなに美味い物を食べた気がする。

油断すると、思わず涙が零れそうになった。それを我慢しながらスープを啜る。映画などで飯を食いながら泣いている人のシーンを見ても全く気持ちが分からなかったのだけれど、きっとこの何とも言えない気持ちはそれに似た感情なのだろうと思った。

 

「ご馳走様でした。」

食べ終わり、いつもより丁寧に合掌をした。

「めちゃくちゃ美味かったです。」

「おー、そうか!そりゃ良かった!」

おじさんは満足そうに微笑みながら煙草に火をつけた。

「兄ちゃんも吸うかい?」

「はい!実は火を忘れてきて、ずっと我慢してたんです。」

食い気味にそう答えると、おじさんが店の名前が書いてあるマッチを投げてくれた。僕はそれをキャッチし、お礼を言いながら早速煙草に火をつける。思い切り吸うと、先端から微かにジリジリ、と心地良い音がする。

あぁ・・・幸せだ。

吸えなかったのはたった数時間なのに、もう何年も会っていなかったかのように愛しい。温かい食事をご馳走になり、食後に煙草も吸わせてもらった事で、僕の中の刺々しい感情が浄化されていくような気がした。

ところで、ライターよりマッチの火で吸う方がいつもより美味しい気がするのは何故なんだろう。

 

「・・・人生ってのは色々あるよな。考えたくねぇ事や逃げてぇ事も山程出てくるしな。まぁ別に逃げても良いのさ。けどその代わりに肝心な時はバシッとキメる事だな。何があったかなんて野暮な事は訊かねぇよ。此処には兄ちゃんの気が済むまで居ていいぜ。」

そう言うと、おじさんは少し仮眠をとるために奥の部屋へと入って行った。帰る時はそのまま出て行っていいと言ってくれた。

お互いの身の上話は何もしていないのに、不思議と核の部分を分かってくれているような気がした。如何して見ず知らずの人間にここまで優しくしてくれるのだろう。僕が夜中に出歩くもんだから、その辺で自殺でもするんじゃないかと心配したのだろうか。理由はどうあれ、行く宛ての無い僕にとっておじさんの厚意はとても有難かった。

 

再び1人になった。煙草に火をつける。先端から昇っていく、白く細い煙を見つめた。

ソファからお尻を浮かし、体勢を整える。ほんの少しの振動で風向きが変わり、煙が大きく揺れた。それが右眼に入る。突然の痛みで視界が揺れ、涙が零れそうになった。たまにある事なのだが、これが地味に痛い。急いで火を消して、痛みを落ち着かせるために瞼を閉じた。

 

 

瞼の裏。セーラー服の女の子が無邪気に笑っている。彼女は明るくて可愛いと評判で、皆の人気者だった。僕は、密かに彼女に憧れる男子の中の1人だった。自分から話し掛ける事すら出来ない程の奥手な男。勿論、告白なんて出来る筈も無く、何の進展もないまま時は過ぎた。卒業後、僕は地元の大学に進学し、彼女は上京して就職したと人伝てに聞いた。詳細は分からなかった。僕は、何となく彼女にはもう会えないかもしれないと思った。

想いを伝えられぬまま、初恋は儚く散った。

 

大学の同じゼミで知り合った子が初めての交際相手だった。本当に失礼な話なのだが、その子を特別好きだった訳ではない。異性と交際経験のない事に焦っていた年頃だったし、相手からの積極的なアプローチを断り切れず、流されるまま・・・というのが本音だ。

けれど、此方がその程度の気持ちでいるのは相手に伝わってしまうものなのだろう。半年もしないうちに「貴方と居ても楽しくない。」と振られた。僕はその言葉に納得してしまった。

僕も、僕と居ても楽しくないだろうな。

 

数ヶ月後、アルバイト先の1つ年下の女子高生と交際した。小動物系の可愛らしい子で、見た目がタイプだった。何となく自分に好意を抱いてくれている事が分かったので、告白をしてみるとOKを貰えた。多分、1年位は続いたと思う。もしかしたら初恋の彼女より好きになれるかもしれないと思った。そんな矢先、アルバイト先の僕の友人と浮気しているところを目撃した。当然それを問い詰めると、彼女は謝るどころか開き直り、「貴方は優しいよ。でもそれだけでつまんない。」と言われた。何故浮気された方が更に傷付けられなければならないのかと思ったが、彼女の気持ちも分からなくはなかった。

僕も、僕はつまらない人間だと思ってるよ。

 

女と居るのは、金と気を遣うばかりで面倒だった。これ以上傷つくのもしんどいだけだし、別に僕は一人でも平気だし、一生独身なのかもしれないと思った。

後に数回告白される事はあったけれど、誰とも交際はしなかった。野郎ばかりで集まって、何も考えず馬鹿みたいに笑って過ごすのが楽で良かった。大学卒業後、僕は公務員になり、仕事に慣れるために忙しい日々が始まった。友人たちも同じく仕事に追われるようになり、少しずつ疎遠になってしまった。

大人らしく、つまらない日々が続いた。

 

或る日曜日、いつものスーパーで食材の買い出しをしていると、懐かしい声が僕の名前を呼んだ。

「久しぶり〜!」

振り返ると、僕の知らない綺麗な子が僕に向かって手を振っている。勿論、声だけで彼女だと分かったのだけれど、東京へ行って垢抜けたのか、可愛さが更に増していた。

胸が高鳴る。忘れかけていた感情が呼び起こされ、僕は呼吸をするのも苦しくなった。

「え・・・あ、久しぶり!」

「私の事憶えてる?懐かしい〜。」

憶えてるに決まってるじゃないか。忘れた事なんて一度も無い。僕は心の中で叫んだ。

それにしても、見れば見るほど可愛いな。初恋フィルターがかかっているからだろうか。

もう二度と会えないと思っていた彼女との再会。これっきりで終わりにしたくない。

僕は瞬時にそう思った。

「いつまで居るの?時間があったら皆で遊ぼうよ。」

「私はいつでも暇してるよ〜!同窓会みたい。楽しみだね!」

僕達は連絡先を交換し、改めて会う約束を交わした。

 

兄から借りた車を出し、自分を含めた男女6名でボーリングへ行った。僕は、彼女だけを見ていた。あの頃が蘇る。当時は話す事さえ出来なかったのに。今、僕の隣に彼女が居る。彼女が僕の方を向いて笑っている。この瞬間が幸せの絶頂のように思えた。

 

「実はね、こっちに帰ってこようと思うんだ。」

2人きりになった帰り道、助手席で彼女が呟いた。

「・・・え?」

「仕事辞めて、こっちで再就職しようかな。」

「・・・何かあったの?」

「うーん・・・ちょっと色々あって。」

彼女は僕の方を見て、無理して笑った。

そして、順を追って話し始めた。

 

高校卒業後、小さなアパレル会社に就職。憧れの東京。好きな仕事にも携わる事ができて幸せだった。少しずつ仕事にも慣れ、同僚とも仲良くなり、遊びに誘われる事も多くなった。仕事もプライベートも充実していた。そして、会社の取引先として出逢った10歳年上の男性に恋をして、4年間交際した。彼と結婚したいと思っていた。けれど、いつまで経っても結婚を渋っている相手に不信感を抱き、問い詰めたところ、実は妻子持ちだった。

私は不倫相手だった。他所様の家庭を壊すような恐ろしい存在だった。例え知らずに交際していたとしても、もしいつか御家族に知られてしまった時、私の事情や気持ちなど関係なく傷つけてしまう。御家族に対して申し訳なく、自分の事も今まで騙していた彼の事も許せなかった。

彼と別れる事にしたけれど、少しずつ色んな事が上手くいかなくなった。仕事も失敗ばかりするようになった。何も出来なくなっていく無能な自分を、1番近くで見ているのが辛くなった。そしてついに耐えられなくなり、休みを貰って地元に帰ってきた。

 

彼女をこんな風にした奴は誰なんだ。

人を殴った事もない癖に、怒りや悔しさの余り、その男を殴りたくなる衝動に駆られた。

路肩に車を止め、感情の赴くまま彼女に言った。

「帰っておいでよ。」

「・・・え?」

「僕が君の側に居る。」

女なんて金と気を遣うだけで面倒なのに。そんなの痛い程身に染みて分かっているのに。考えるよりも先に言葉が出てきた。この時の僕は、未来の自分が傷付けられるかどうかなんて事よりも、今彼女の心に付いている深く大きな傷を、誰にも見せないように全て僕が覆ってあげたいと思った。

彼女を離したくない。

「何それ、プロポーズ?」

彼女はクスリと笑った。

「あ、いや・・・!そんな大袈裟なもんじゃないよ!ただ、僕が君と居られたらいいなって思ってるだけ!」

「だからそれ、プロポーズじゃん!」

今度は大きな口を開けて、涙を流しながら思い切り笑った。

 

彼女が愛しい。愛しくて、僕まで苦しい。

助手席のシートベルトを外し、彼女の身体を自分の方へと強く抱き寄せた。彼女は抵抗しなかった。僕達はその勢いで何度もキスを交わし、一緒に僕の家へと帰った。そして、そのまま朝を迎えた。

 

程なくして、彼女は勤めていた会社を辞め、荷物を引き上げ、実家ではなく僕の家へ転がり込み、この辺では大きめのスーパーの中にある洋服屋に就職した。

そうして、あっという間に3年という年月が経ったのだった。

 

あの日から、僕達はお互いに流されるまま一緒に暮らしている。今思えば、彼女は僕でなくても良かったのかもしれない。弱っている時に偶然現れたのが僕だった。あの苦しい状況から逃れられるなら、僕じゃ無くても良かったのだろうか。

だって彼女は未だに僕に好きだと言ってくれた事がない。・・・いや、もしかしたら僕も口に出して言った事は一度も無いのかもしれない。お互い様だな。

お互いに向き合う事もせず、勝手に分かったつもりになっていただけなのかもしれないな。

 

 

瞼の向こう側が明るくなってきた。僕はゆっくりと瞳を開き、スマホの画面を見る。

5時半・・・。少し眠ってしまっていた。彼女はどうしているだろうか。

 

彼女の事を考えると、いつも心や頭が痛くなってしまうのに、それでも結局、夢の中でだって考えてしまっている。

まだ少年だったあの頃。彼女に心を奪われてからというもの、僕の中心は彼女が陣取っている。どんな女の子と居ても、彼女の笑顔の方がずっと可愛いとか、彼女の声が聴きたいとか、無意識のうちに比べてしまっては、彼女が僕にとっての基準になっていた。

知らぬ間にこんなに好きになってしまっていたんだな。初恋の頃とは違って、今では随分と憎たらしい所も面倒臭い所も増えているけれど。それでも僕は、彼女の事を考えている。

 

けれど思い返せば、彼女が不機嫌な時、僕の浮気を疑ってくる時、急に泣き出す時、今まで僕はきちんと向き合ってきただろうか。ただ一緒に居るだけで彼女を守れているなんて、都合の良い事を考えていたのではないだろうか。争う度、僕はいつも距離を置いてお互い冷静になろうと思いながら、肝心な事から目を背けていただけなのではないだろうか。

近頃はもう彼女の怒った顔や泣いた顔を見るとうんざりして疲れてしまうので、耳に突き刺さるような悲痛な声は聞こえても、顔は見ないように目を逸らしていた。その所為で、笑った顔以外思い出せない。

「出て行け」と言われ、言われるがまま直ぐに家を出ていく僕の後ろ姿を、彼女はいつもどんな顔で見ていたのだろう。

 

 

彼女と離れている事に、初めて不安を感じた。

きちんと話がしたい。

緊張で、微かに震える手。電話を掛ける。

「・・・もしもし。」

スリーコールで彼女は電話に出た。その声は、怒っているようにも泣いているようにも聴こえた。

「ごめん・・・寝てた?」

「眠れる訳ないでしょ。今、何処にいるの。」

「何処って・・・自分が追い出した癖に。」

いつもは心の中で思っているだけの言葉。思い切って口に出してみると、不思議と笑いがこみ上げてきた。

「何笑ってんのよ。」

「ごめんごめん、今から帰る。帰ったら少し話そう。」

こんな事を僕の方から言った事がないので、彼女は驚きの余り声を発するのを忘れているようだった。きっと電話の向こうで馬鹿みたいに口を開けているだろう。

「あ、でも今から帰るとなると一時間位かかるかも。」

「何でそんな遠くまで行ったの?馬鹿じゃない。」

「だって・・・こんなド田舎で追い出されても、歩く以外に何もする事ないじゃん。」

僕は珍しく声を出して笑った。彼女も釣られて笑いそうになったが、怒っている手前素直になれず、我慢しているようだった。

「どの辺に居るの?車で迎えに行ってあげてもいいけど。」

僕が珍しく陽気に話しているからか、彼女の方も珍しく優しかった。

「え、いいの?じゃあお願い。ーーー」

現在地を説明し、電話を切った。

 

 

いつの間にか、外は朝日が眩しく光っていた。

僕は、憧れだった彼女から少しずつ離れていく今の彼女を、これから先も愛していけるだろうか。彼女は、いつも肝心な時に逃げてばかりいるビッタレな僕を、許してくれるだろうか。

今まで僕が言えなかった事や、彼女から目を背けていた事。それに気付いたからには、これからは出来る限り向き合っていかなければならない。向き合う事で、この先の二人がどうなっていくのか、見当もつかない。最悪、傷つけ合うだけで終わってしまうかもしれない。

怖いな・・・。

それでも、自分の気付かぬうちに失いたくないのなら、好きなものからは逃げてはいけない。

 

二人で生きていくとは、どういう事なのだろうな。

 

マッチを擦り、最後の1本に火をつける。ゆっくり吸って、大きく吐き出す。窓からは光が差し込み、吸殻が入った灰皿を照らしている。僕は、おじさんから貰ったマッチの箱を大切にパーカーのポケットに仕舞った。

煙草を咥えたまま立ち上がり、カウンターに置いてあったメモ紙と鉛筆を使って、おじさんに手紙を書いた。今日の食事代も支払いたいし、おじさんにも会いたい。必ずまたここに来よう。次に来る時は、出来れば彼女も一緒がいいな。

 

真っ暗な細い道、冷たい風、おじさんの嗄れた声、年季の入った店、温かいスープ、マッチで火をつけた煙草の味、夢の中、僕と彼女・・・

たった数時間の出来事だけれど、今日の事はきっと一生忘れないだろう。

 

僕は窓の外を見ながら、彼女が来るのを静かに待った。