灰色達夜鷹◆第三羽
旧作のDVDは、残り一枚になっていた。
どうしようかな。もう夜も遅いし、休みだからと言って昼夜逆転の生活も良くない。そろそろ寝た方が良いのは分かっているけれど、最後に残っているのはあの子と観た映画。あの頃の甘酸っぱい感情は鮮明に思い出されるのだけれど、映画自体はどんな話だったのか忘れてしまっている箇所もあるので、とても気になる。
こんな事になるなら最初に観ておけば良かったじゃないかと言われるかもしれないけれど、何でも楽しみは最後に取っておくタイプなのだ。
うーん・・・。
このままだと内容が気になって眠れないかもしれない。そうだな。いっそ観てしまって、スッキリと眠るのが一番良いかもしれないな。
自分の都合の良いように正当化しながら、最後の一枚をプレーヤーの中へ入れた。
南国の穏やかな景色。小麦色に焼けた肌。随分前の作品とあって、出演している俳優が皆若い。
この女優さん好きだったなぁ。当時は凄く人気だったけれど、そういえば最近見ないな。結婚されたところまでは覚えているけれど、今は活動していないのかもしれない。やっぱり綺麗だな。
当時、主演の俳優さんも女優さんも好きだったから、内容はあまり気にせずに見に行こうと誘ったんだっけ。思い返せば、あれが初デートだった。
映画の中の二人は結婚し、子供が産まれ、家庭を築く。貧しくも幸せな日々。そんな日々が、少しずつ色を変えていく。
裕福にはなるが、彼の仕事は忙しくなり、家に帰る事が少なくなる。彼女や子供達の寂しさが増し、心の距離が遠のいてしまう。
突然、彼の病気が判明する。何度も入退院を繰り返す。死が近付いてくるのを実感し、恐怖のあまり精神的に病んでしまう。近い将来、彼が消えてしまうかもしれないと不安に押し潰されそうになる彼女や子供達。
それでも、ひたむきに彼を支える家族の強さに支えられ、再び前向きになっていく。緩和ケアに入り、家族との時間を大切に噛み締めながら生きていく。そんな時間によって、徐々に子供達との絆も取り戻していく。
そして、訪れる死。
・・・エンドロールが流れる。
涙が溢れて前が見えなかったあの日。
今、不思議と涙は出なかった。
確かに心の奥はジーンとしているのだけれど、あの時の、心が大きく揺らいでしまう程の感動は得られなかった。
リモコンを手に取り、電源をoffにした。
残り少なくなった珈琲を啜った。もうすっかり冷めてしまっている。空になったマグカップを再びローテーブルに置いた。
コトン、という音だけが響き、その後は静寂に包まれる。
そうだよな・・・もうあの頃の自分とは違っているのだから。
変わってしまったんだ。見た目も歳を重ねる毎に変わっていくように、心も、環境や生き方によって少しずつ変わってしまうのだ。
あの頃は楽しかった。
そう思っていた。今の自分に不満を抱き、世の中のせいにして、無意識のうちに後ろを向いて過去に目を向けながら生きてきたのかもしれない。
あの頃はあの頃で、それよりもずっと過去の思い出に縋っていたような気がする。果たして、きちんと今を見つめて生きた事があったのだろうか。
変わりたくない。
そう思っていた。けれど、「何処」から変わりたくなかったのだろう。
きっと楽しかった頃を忘れてしまう事が怖かった。命は、時間の経過と共に、流れるように、そして確実に違う場所へと向かっている。その事に気付いた時、心の底の方に小さな穴が開き、その穴から記憶という水が滴るような寂しさを感じた。
それを悪い事のように感じた瞬間、急いでそれは違うのだとかき消した。決して悪い事ばかりではないのだろう。あの頃の記憶は薄れてしまっていくけれど、あの頃の想いは確かに残っているのだから。
今が一番良い。
出来ればそう思いながら生きていきたい。けれど、きっとそれはとても難しい事だ。この事に気付かず「あの頃は良かった・・・」と思い続けて生きる方が、もしかしたら楽だったかもしれない。
それでも。
いつか死が此方に手を振ってやって来た時、
あの頃は良かった・・・
よりも、
今が一番良い。
と思いながら、死と手を繋いで終わりたい。
ブランケットを畳んで、ソファの隅に置く。ゆっくりと立ち上がり、マグカップを持ってキッチンへ向かう。丁寧に洗い、水切り台の上に優しく置いた。
そしてそのまま洗面所へ行き、歯ブラシに歯磨き粉を付け、鏡の前で歯を磨く。3分程磨いた後、口内を軽く濯いで口周りをタオルで拭いた。
前を向くと、鏡の自分と目が合った。
「今が一番良い。」
掠れたような、小さく力の無い声が出た。情けないのと恥ずかしいので笑みがこぼれる。うん、今は嘘だよな。笑ってしまう程に。それでも、嘘を吐き続けていこう。
いつか、嘘が本当になるように。