スズメノナミダ
《公園の片隅で、少女が泣いている。しゃがみこみ、肩を震わせながら、ただ、静かに。
硝子玉の様に脆く、今にも割れてしまいそう。私は何故か胸が締め付けられる思いだった。
何でもいい。声を掛けよう。このまま放ってはおけない。勇気を出して、小さな右の肩を軽く二回叩いた。
少女はゆっくり顔を上げ、私の方を向く・・・》
ーーうつ伏せの私は、ハッと目が覚めた。
そうか・・・今は授業中。五時間目の日本史だ。また寝てしまっていた。いや、寝てしまったのではなく、自ら寝たのだ。
日本史は得意じゃない。正直、過去の知らない人達がどう生きたかなんて私にはどうだっていいのだ。そんなことより私が今生きている意味を教えて欲しい。
この先生の授業は、教科書になぞって淡々と進めるだけで、それはそれは退屈。生徒が寝ようが隣の人と雑談しようがお構い無しだった。
“年の功”なのか。それとも、“諦め”なのか。きっと後者だろう。思春期真っ只中の若者達を、まるで宇宙人でも見るかのような目をしているのだから。
私は一番後ろの窓際の席。興味の無い授業や苦手な先生の授業は、いつも窓の外を眺めるか寝ている。
よくよく考えてみると、それは全教科に言えることかもしれない。故に、しっかりと成績が低評価の劣等生。しかし、それも私からすれば興味の無いことの一つだった。
「何かいいことないかな・・・。」
恨みたくなるような真っ青な空を仰ぎながら、凡庸にもそう思った。
ーー休憩時間。私はいつも寝たふりをする。理由は幾つかあるのだが、一つは女子による“連れション”事情。「スズメちゃぁ〜ん、トイレ行こ〜ぉ。」という、全身に鳥肌が立つような、如何にもわざとらしい猫撫で声で誘われるのが苦手なのだ。
休憩時間になると、女子達はこれをほぼ毎回行なっている。そんなに毎回おしっこは出ないだろうに。それに、行きたければ一人で行けばいい。どうせ個室の中まで一緒には入らないのだから。
そういう猫撫で声の女子に限って、トイレに着くや否やまるで別人の様なドスの効いた低い声で、まぁ飽きもせずに悪口大会を開催するのだ。これは男子には解らない女子の裏社会。
女子のこの無駄な結束力と集団行動は、正直鬱陶しいものがある。だがこれも女子あるあるで、あからさまに嫌な態度を取ったり意見を言おうものなら翌日から早速ハブられる。それもそれで面倒なのだ。
だから私は“我関せず”を貫いている。誰とも特別に仲良くはしないし、かと言って誰のことも特別嫌ったりはしない。良くいえば、中立。悪くいえば、無関心。こちらも後者の方だ。
私が寝たふりをしていると、「スズメちゃんまた寝てるぅ。起こすのもなんだし行こっかぁ。」と聞こえた。
はぁ・・・やっと行ってくれた。
どうせトイレでは私に対する悪口大会も開催されているのだろう。彼女達は、悪口の相手が私だろうと先生だろうと友達だろうと親だろうと誰でもいい。その場に居ない人を標的にし、ただ不満を言いたいだけなのだ。それに逆らえない者たちは、同調し、共感する振りをする。
それもどうでもいい。私は、波風立てず、ただ表面的に平穏な学校生活を送ることさえ出来ればそれでいいのだ。
だから、神様お願い。こんな窮屈な籠の中から早く出して。私は誰にも邪魔されず、自由に空を飛び回りたいの。
ーーある日の授業中、私は保健室に居た。これも、私にとっては日常茶飯事。たまにこうして仮病を使っては、授業をサボっているのだ。綾ちゃん先生は、それも承知の上で私を匿ってくれていたのだと思う。
綾ちゃん先生とは、この学校の養護教諭。年齢は20代後半と、この学校の先生にしては比較的若い。実際の年齢よりも若く見える、童顔で可愛らしい顔立ち。特に男子生徒からの人気が熱い。しかも“綾ちゃん”と名前まで可愛い。
私は基本的に大人を嫌っていたが、綾ちゃん先生だけは特別だった。彼女は、大人のくせに大人らしくない大人だからだ。そして、その可愛い顔からは想像もつかない程のレベルの高い毒舌女王様なのだ。
例えば私が中学生あるあるを話すと、「分かる!そりゃダルいわ〜。私だったら先生だろうが何だろうが喧嘩売ってる!」などと、先生らしくない言葉を使っては、大口を開け手を叩きながら笑う。
私にとって彼女の存在は、まるで年の離れた姉の様だった。
ーー「取り敢えず一時間経ったら起こすから。」
そう言って、先生が仕切りのカーテンをガサツに閉めた。彼女のこういう気を使わない感じ、媚びない感じ、好きだな。
仰向けに寝転がり、天井のシミを見つめる。このシミが、私には人の顔の様に見える。綾ちゃん先生が他の先生から呼び出され、保健室から誰も居なくなることがたまにあり、一人になった時、この顔が動き出しそうで怖いのだ。
今日は珈琲の匂いがする。綾ちゃん先生が珈琲を片手に仕事をしているのだろう。
匂いと静寂に包まれる。仕事の資料なのか、用紙をパラパラとめくる音。あとは、ごく稀に建物がピキッと喋るだけだった。あのピキッという音は一体何処から鳴るのだろうと、いつも不思議だ。
今日はあまりにも静か過ぎて、呼吸をするのも戸惑ってしまう。時折、寝返りを打ち、わざとらしくシーツの擦れる音とベッドが軋む音を鳴らして誤魔化した。
体勢を窓の方に向けて、また暫く動かないで居た。校庭から体育の授業をしている声がする。学生らしい元気な声。それが微かに聞こえてきて、何故だか無性に淋しくなった。
ーー結局、ズルズルと下校時間まで保健室に居座っていた。
「さ、そろそろ帰んな。今日一日ここに居たこと、担任が煩く言ってきても無視していいから。いつでも来な。」
「綾ちゃん先生は大人なんだから、私のことより自分が他の先生達からどう思われるかの方が心配じゃないの?」
「そりゃあ、あたしだって多少は気になるよ〜?でも人間がしんどくなるのって、体だけじゃないじゃん。心もしっかり疲れるんだよ。しかもあんた達は思春期真っ只中。大人が今では忘れてるようなことを、現在進行形で考えてて悩んでる。別に逃げたっていいじゃん?あたしはそう思うね。まぁ、いつでも来な!」
綾ちゃん先生は本当に凄い大人だ。こんな事をこんな風に胸を張って言ってくれる大人が、世の中にどれだけ居るだろう。明確には分からないが、極々一部だということだけは分かる。
私はいつか綾ちゃん先生の様な大人になりたい。
「・・・じゃあもし明日もしんどくなったら、来てもいい?」
「勿論!ドンと来い!」
綾ちゃん先生は笑った時、頬骨の辺りに小さく横に線が入る。先生曰く、それも口元のものと同じように笑窪と呼ぶらしい。その笑窪があるから更に先生を可愛くさせているのだろうなと思いながら手を振り、私は保健室を後にした。
ーー自宅の玄関前。私は必ず一呼吸置いて心を落ち着かせなければ、家に入れない。
「・・・ただいま。」
カチャカチャ、と音がしている。あぁ、またか。私は深く溜息を吐いた。
「お母さん・・・ただいま。」
「あ、おかえり。ごめんごめん、帰ってきたの気付かなくて。その辺散らかってるから、足で踏まないように気を付けて。」
どんだけ暴れたらこうなるんだよ。
酒瓶は割れ、その破片でリビングの床がキラキラと光っている。部屋中にアルコールの臭いが充満している。
私が苦虫を噛み潰したような顔をしているのに気が付いた母は、急いで部屋中の窓を開けた。
壁に掛けている額縁も首を傾げ、棚に飾ってある小物や本たちは全て床に落っこちていた。
「・・・アイツは?」
“アイツ”とは父のことだ。血は繋がっているけれど、あの人を父親だと呼んだことはここ数年一度も無い。
「さっき出て行った。煙草を買いに行ったんじゃないかな。」
「・・・そう。」
「ごめんね。」
「何で謝るの。お母さんは悪くないでしょ。・・・手伝う。」
「ありがとう。」
父が暴れる原因は、たかが知れている。酒や煙草が切れた、晩御飯の献立が気に入らなかった、会社で気に食わないことがあった、どうせそのどれかだろう。普通の人は我慢出来るようなことなのだが、父は兎に角すぐキレる。そして気が済むまでとことん暴れ、こちらは手が付けられなくなるのだ。
母と私は、この荒れ果てた風景を目にしても、“何があったの?”なんていう言葉を交わさなくても解ってしまうのだ。
部屋をひたすら片付ける。その間は、無言。二人とも内心は焦っているのだ。父が帰って来る前に終わらせなければ、また不機嫌になり振り出しに戻る。母のためにもそれだけは避けなければならない。
ーー暫くして、玄関の扉が開く。
「おかえりなさい。」
母の声を無視し、怠そうな顔をして言った。
「あー疲れた。亭主のために煙草くらい買って来るのが女房ってもんだろーが!」
いつもわざとらしく声が大きい。その声だけで私達を威嚇し、怖がらせることが出来ると思っている。確かに、内心は怖いのだ。
「酒!」
「・・・はい。」
私はリビングの食卓テーブルの椅子に座って、食欲も無いのに夕飯を食べながら、見たくもないテレビを付けている。何でもないふうに装いながら、身体の神経は全て父に集中しているので、テレビの内容など頭に入る筈が無い。それでも怖がっていることは意地でも悟られたくないのだ。
「スズメ。勉強はちゃんとしてるのか。」
「・・・うん。」
どうせ世間体が気になるだけで、私になんか興味はない。話し掛けられるだけで更に食欲が失せてしまう。
「ま、女なんかどうせ勉強したって嫁に行って亭主に食わせてもらうんだけどな。精々、今のうちに男に媚でも売っとけ。」
この男は偉そうに何を言っているのだろう。
大体、“女なんか”とは何だ。アンタはその女に毎日飯を作ってもらい、汚いパンツを洗濯してもらい、掃除して整えられた家に帰って来られるんだろう。そうして、何とか生活が成り立っているんじゃないか。家事など何も出来ず、何がどの場所に片付けられているのかも分からない癖に。
母はアンタの奴隷でも家政婦でも無い。家事は人間にとって“日常”で、母はその日常を必死に守っているのだ。
「男とか女とか何時代だよ。阿呆らしい。」
言葉が無意識に口から零れ落ちていた。私が今まで父に口答えしてこなかったのは、自分自身を守るためじゃない。母が悲しみ、苦しむからだ。だが、怒りに任せて遂にやってしまった。
ーー幼い頃、私はいつか男になれると信じていた。根拠はない。だけど、いつか男になって、力一杯に母を守り、母を悲しませるものを全てこの手で倒してやるのだと本気で願っていた。
将来の夢は、お花屋さんとかお嫁さんとか女の子が思い描く様な可愛らしいものではなく、スーパーマンだった。それを言うと幼稚園のお友達は私のことを「変なの」とか「そんなの可笑しい」と笑った。その時の私には、何が変なのか解らなかった。スーパーマンになれば母を守れるじゃないか。
けれど、大きくなっても私は女のまま。男にはなれない。何処まで行っても力の弱い女でしかないのだ。
ーー身体に鈍痛がして我に返る。私は父に腹を蹴られ、突き飛ばされていた。
口答えをするな!と罵声が聴こえる。女のくせに偉そうに、と。
母が泣きながら止めに入っている。
あぁ・・・泣かせてしまった。一番笑っていて欲しい人が、私の上に跨り、私を庇って泣いている。
絶望で全身の力が抜けた。
ーー翌日はプールの授業があった。私はいつも当然のように欠席し、プールサイドの隅で見学をしている。その際、生理だの微熱があるだのと、あの手この手で仮病を使っている。体育の成績も日本史同様しっかり低評価だった。
見学の本当の理由は誰も知らない。水着になると言うことは、先生やクラスメイトに殴られた痕を見られてしまうからだ。こんなこと誰にも言える筈がない。
見学者はテントの中に居るのだが、ギラギラの日差しはそれを突き破り、私は暑さで人知れず汗をかいている。皆は気持ち良さそうにキャッキャと泳いでいる。
そんな光景。私には出来ない“普通”のことを、皆は当たり前に与えられている。それが時に羨ましく映るのだった。
ーー掃除時間。
「もぉ〜疲れたぁ。早く帰りたぁい。」
猫撫で声の女子が言う。私の中での通称は、略して“猫女”。
『まじダルいよね〜・・・。』
猫女の取り巻き達は共感する振りをする。
「ねぇねぇ、岡田さぁん。代わりにゴミ捨て行ってきてくんなぁい?私達今から用事があってぇ。」
岡田さんは大人しく控えめな性格で、クラスではあまり目立たないような存在の女子。移動教室や休憩時間なども一人で居ることが多く、浮いていると言えば浮いている。きっと私ほどでは無いのだろうが。
「え・・・あ・・・私・・・ですか?」
「そうだよぉ。もうヤダなぁ〜。他に岡田って苗字の人居たっけぇ〜?」
悪魔のような顔をして笑う猫女。
「あ・・・えっと・・・はい。」
これは苛めなんだろうか?岡田さんは明らかに困惑し、怯え、嫌がっているように見えるけれど。私は今までこのクラスのことに無関心だったので、今日の今日まで気付こうともしていなかった。
周りを見渡して、今のこの教室内の雰囲気を嗅ぐ。女子達はヒソヒソと隣同士で耳打ちをし、男子達はニヤニヤとそれを見ている。
あぁ、これは苛めなのだな。私の中で何かがプツンと切れる音がした。
「自分で行けば?」
父への口答えの件から、明らかに頭がおかしくなっていることに自分でも気が付いている。それでも冷静では居られない。
「え・・・どうしたの?スズメちゃんらしくないよ。」
外野がザワつく。猫女も飛び出しそうな目をして驚いている。
“私らしい”って何だ?あぁ・・・“他人に無関心な私”、ね。
「ゴミ捨ては担当の仕事でしょ。てか、わざわざ人に頼むような大変な仕事じゃないと思うけど。」
「だからぁ〜!私達、用事が・・・」
「ゴチャゴチャうっさいな!今のこの無駄な時間でゴミ捨てしてさっさと帰れよ!」
猫女が喋り終わる前に、私は捲し立てて大きな声を出してしまった。言葉遣いも乱れている。これは完全にやらかしている。分かっているのに・・・。
本当にどうしてしまったのだろう。私の中の冷静な自分は「止めて!」と叫んでいるのに、もう一人の自分が「どうにでもなれ」と言うことを聞いてくれないのだ。
クラスが静寂に包まれる。気まずくなった猫女達は、結局自分達でゴミを捨てに行った。
岡田さんからこっそり「助けてくれてありがとう・・・」と言われたが、100%岡田さんのために言ったとは胸を張れない自分が居た。
ーー翌日の朝。教室に入り、いつものように挨拶をする。この空気、違和感。
男子達はさほど変わらないのだが、女子達は腫れ物を触る様にぎこちないのだ。
あ・・・早速か。昨夜、猫女が女子達に「あいつと話すな」とか一斉メールでもしたのだろうな。私はそれをすぐに察し、平然とした顔で自席についた。
「みんなぁ〜!おは〜ぁ!」
わざとらしい位に元気に教室に入ってくる猫女と目が合うと、般若の様な形相で睨まれた。あの女、もはや猫女ではない。化け猫だ。
「あ、岡田さぁ〜ん、おはぁ〜!」
あれだけ雑に扱っていた岡田さんに優しく接している。私に見せつけているのだろう。
「あ・・・えっと、その・・・おはよ・・・。」
「もぉ〜!岡田さん硬いよぉ〜。友達じゃぁ〜ん!ねぇ〜?」
「あ・・・はい・・・。」
“友達”か。本当に都合の良い呼び方だな。吐き気がする。
岡田さんは困惑し、遠い後ろの席に座っている私に視線を送ってきたが、私は彼女に「こっちを向くな」と無言で首を横に振った。
そうして、いとも簡単に苛めの標的が私に代わったのだ。
ーー人間はこの世で一番恐ろしい生き物。昨日まで散々尻尾を振ってきていた者が、明日には全く違う人間になれるのだ。こういうのを掌返しと言うのだな。私は案外冷静だった。
移動教室の際、後ろから彼女達を追い越そうものなら足を引っ掛けられ、転けそうになる。廊下ですれ違えば、男子には聞こえないような声で“ブス”と呟かれる。階段で一緒になれば、背中を押される。行事などの面倒な役割は、全員から押し付けられる。
私は先生からも好かれてはいなかった。担任も、本当はこの嫌がらせには気付いていただろう。もし本気で気付いていないと言うなら、あの目は節穴だ。大人達は完全に見て見ぬふりをした。私は大人を諦めていたので、なんて事ないように振舞った。
いつでも何処でも平然とした態度を貫いた。私は敵の前で泣いたりするような弱い人間ではない。私は悪くないのだから、こんな理不尽でくだらない事から逃げたりはしない。
大体やることが子供じみている。家でアイツから殴られることに比べたら、こんなの屁でもない。
ーー昼食の時間、私は一人で裏庭に居た。
「あの・・・お弁当、一緒に食べませんか?」
岡田さんが弱々しく私に話し掛けた。
「ごめん、一人で食べたいから。」
私はいつも他人に冷たい態度しか取れない。幼い頃、自分の考えを人に話すと「変」と笑われたことを未だに根に持っているのだ。
私の方こそ本当に子供じみている。
「ごめんなさい・・・私のせいで・・・こんなことに・・・。」
長い睫毛を伝って、涙が零れ落ちた。
いいなぁ。そんな風に泣けて。
「貴女のせいじゃない。私がムカついただけだから気にしないで。」
「でも・・・」
「それに私と居るところをアイツらに見られたら、またハブられるよ。それでもいいの?」
「私は・・・」
「早く戻りな。本当に私のことは気にしないで。元々私は一人が好きだし、その方が気が楽だから。」
私は一方的にシャットダウンした。彼女のためにもそうした方が良いと思った。
私が彼女みたいに可愛く瞳を潤ませることが出来ないように、彼女もまた、私みたいに平然とした顔であの教室に居座ることは出来ない。
一人になり、深く溜息を吐く。芝生の上に仰向けに寝転がると、空はまた恨みたくなるような真っ青な色をしている。
「いいことなんて何も無いな・・・。」
ーー何処にも居場所が無い。学校の人達は軍隊で、家の中は戦場だ。何処に行っても私は出る杭で、必ず打たれる。
唯一のオアシスの保健室は、嫌がらせを受けるようになってからは行かなくなった。今逃げると負けた気がするからだ。
もう何もかもに対して意地になっていた。
本当に・・・私は何のために生まれてきたのだろう。何のために生きているのだろう。考えても考えても、出口は見つからない。こんな日々に縋る意味があるのだろうか。
ゴミみたいな人生。捨ててしまいたい。
ーーそれでも、いつものように家路に着く。
一呼吸置いて家に入る。
「誰が食わしてやってると思ってるんだ!」
リビングから大きな声と物音が聞こえる。
その後に、母の悲鳴が聞こえる。
「何やってんだよ!」
殴られて横たわっている母と、更に殴りかかろうとしている父との間に割って入り、必死で止めようとした。
「うるさい!お前は黙ってろ!」
「やめろって言ってんだよ!」
「・・・この出来損ないが!」
突き飛ばされる。それでも立ち上がり、父の前に立ちはだかる。もう誰も私を止められない。
いっそこいつを殺してしまおうか。そんな考えが頭をよぎる程、冷静では居られなかった。
「お前なんか居なくなれ!」
「父親に向かって、何だその口の利き方は!」
「お前なんか父親じゃない!」
「・・・このクソガキ!」
殴られ突き飛ばされているのに、どういうことか痛みを感じない。私はついにスーパーマンになれたのだろうか。この状況下にも関わらず、頭の中ではくだらないことを考えていた。
「お前なんか生まれてこなければ良かったんだ!」
やっぱり、そうなんだな。調度、私もそう思っていたところだよ。血縁者が言うなら間違いないんだろう。
もしも私が生まれてこなければ、両親は二人で今も仲良く暮らしていただろうか。私が生まれてきたせいで、母は私の子育てで手一杯になり、父はそれが面白くなかったのだろうか。もしそうならば、とんだ邪魔者だな、私は。
父は私を突き飛ばし、そのまま家を出て行った。
ーー自宅マンションの屋上は、住民ならいつでも入れるように開放されている。私は深夜に家を抜け出し、時折ここに来ている。
コンクリートの石段の上に座り、ウォークマンの再生ボタンを押す。これは中学に上がったばかりの頃、父に内緒で母がこっそり買ってくれたものだ。それ以来、私の宝物。
母曰く、私は昔から歌うのが大好きで、いつも何処でも歌っているような子だったらしい。だが、いつの頃からか父があんな風になり、私も母も変わり果て、今に至っている。
今は思い切り歌うことも出来ない。大音量で堂々と音楽を聴くことも出来ない。家でも学校でも“私”は居ない。
行く先行く先、八方塞がり。もう何処へも行けない。ていうか、そもそも居場所って何だっけ?
ーー耳元で『ブランコに揺れて』が流れる。
心地良い言葉とメロディが全身を包む。
小さく口ずさんだ。
何も考えず、立ち上がり、フェンスを掴んだ。
飛び越え、屋上の縁に立つ。
下は、真っ暗。上も、真っ暗。
街灯さえも消えていた。
断崖絶壁に居るようだ。
「消えたい。」
衝動的に、そう思った。
私はただ自由に飛びたいだけだった。何処にも行けないのなら何も意味が無い。生きているのに呼吸をさせてもらえないような苦しみが続いている。
きっと死ぬ瞬間は怖く、苦しく、痛いんだろう。けれど、今生きているこの痛みと一体何が違うのだろう。
平気なふりをしていただけで、本当は平気なんかじゃない。
痛い、苦しい、怖い、淋しい、悲しい、辛い。
私だって本当は、子供の様に思い切り泣いて誰かに抱き締めて守ってもらいたかった。
頑張って。
いつもその言葉が大嫌いだった。相手は「頑張って」としか言いようが無いのを解ってはいるのに、勝手に苦しくなって、落ち込む自分が嫌だからだ。
・・・もう頑張れないよ。
私は、目を閉じた。
ーー「お母さんね、スズメのこと大好きだよ。」
「スズメも、お母さんのこと大好き!」
「“スズメ”って名前はね、お父さんが付けたの。スズメがまだ赤ちゃんの頃、こーんなに小さくて、本当に可愛かった。でもね、いつか大人になっても、ずーっと可愛いままなの。雀は小鳥だけれど、それでも一生懸命に羽根を広げて空を飛んで行くの。お友達も沢山居て、歌も歌ったりするの。そんな風に成長してくれたらいいねって、名前を付けたのよ。」
「でも・・・お父さん最近怖い時あるよね。」
「そうね・・・お父さんも生活のためにお仕事頑張ってるから。怖い時もあるけど、本当は優しい人なんだよ。二人で支えてあげようね。」
「・・・うん。分かった!」
「スズメは、お母さんの生きる意味だから。もし悲しくなったり泣きたい時は、お母さんに言ってね。」
「じゃあ、スズメも!お母さんはスズメの生きる意味だね!」
「うん、ありがとう。」
優しい母の笑顔が浮かんで、消えた。
“スズメは、お母さんの生きる意味”
涙が勝手に溢れてきた。
ここで私が死んだら母はどう思うだろうか。この先、上手く生きていけるのだろうか。この先、心から笑うことは出来るのだろうか。
・・・駄目だ。駄目なんだ。死ぬことは許されない。母の生きる意味を奪うことは、私だろうと許されない。一番笑っていて欲しい人だから。
私は再びフェンスを飛び越え、元の場所へと戻って蹲った。声を押し殺して、泣いた。
ーーどんな夜を過ごしても、それでも朝は来る。
あれから私は何事も無かったかのように生活している。あの日のことは私以外誰も知らない。
暫く続いていた嫌がらせも、三年生になるとクラス替えがあり、それ以来無くなった。
あれから父も帰って来なくなった。理由をわざわざ母に訊くことはしなかったが、多分あの日、私が家に帰る前に二人はきっと何かを話していたのだろう。そこで私が帰り、争っているところを目撃したのだと思う。
私は一度も母に「何故別れないの?」と問い詰めることはしなかった。それは夫婦の問題で、私は関与出来ないからだ。
私が生まれるずっと前から、二人は二人として暮らしていたのだ。二人だけの歴史がある。夫婦にしか解らないことがきっとあるのだ。
私は父が嫌いだが、母は父を好きになり結婚したのだから、何処まで行こうとそれは否定出来ない。きっと父は“生活”を守り、母は“日常”を守ってきた。家族が“日常生活”を送るために。
それがいつからかピースを失くして欠けてしまったパズルの様に、幸せが一つ、また一つと、落っこちていってしまったのだ。
ーー私は父を憎んで生きている。人間を嫌って生きている。けれど、憎むというのはとてもエネルギーが要る。心の何処かでは、もっと父を知りたかった、もっと素直に弱い所も見せてくれていたら何か違っていたのかもしれないのに、という悲しみがあるのだと思う。嫌うというのは、もっと私を見て欲しい、私だって普通なんだ、という淋しさから来ているのかもしれない。
苦しみの意味を理解しても、その量は減ってくれない。それでも生きなければならない。最低でも、母の命が終わるまでは・・・何があろうと生き続けなければならない。それも一種の呪いのように思う。
その呪いこそが、今の私の生きる意味。
ーー《少女は真っ直ぐな瞳で私を見た。
「ねぇ、どうして泣いているの?」
私が問いかけると、少女は言った。
「未来の私が泣いているからだよ。」
気付けば私は少女を強く抱き締めていた。そして何度も「ごめんね」と言いながら、一緒に泣いた。
彼女の小さな手を取り、歩き始める。大好きな歌を、二人で口ずさみながら。》