鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

私の中の兄妹

物心ついた時から、違和感。

感情や考え方に統一性が無い。今現在の自分が好んでいるものなのに、明日には無関心になっていることも屡々だった。そのものを嫌いになる訳では無い。ただ、興味が無くなるのだ。そんな私を、周りは「飽きっぽい」と一言で片付けた。

傍から見ると分からないだろうが、私の中には明らかにもう一人誰かが住んでいる。でも、赤の他人というより、分身という感覚でもあった。しっくりくるような説明が出来ずもどかしいのだけれど、一つの部屋に本当は一人しか住んではいけないのに、見つからないように二人で隠れて住んでいるようだった。

 

互いの性格は、面白い程に正反対。性別さえも違っていたように思う。軸に居る自分は、人見知りで他人の顔色を伺い、音や光や匂いなどの刺激に敏感で、臆病な人間なのだが、もう片方の私は、勝気で怖いもの知らず、社交的でよく笑い、よく喋り、頭が良い訳では無いけれど、頭の回転が異常に早い人間なのだ。

後者は、何か決断を迫られた時や頑張り時の瞬間などによく現れているような気がする。

 

 

この違和感がより濃くなったのは、小学校低学年の時。

ある日の授業中、床に嘔吐をした子が居た。最初は皆、何が起こったのか状況が把握できなかったのだが、吐物の臭いと共に露骨に嫌な表情をする子や、冷やかす子も出てきたりと様々だった。私はどうしていいのか分からず、怖くて硬直していた。あまり憶えていないけれど、大半の子は私と同じだったように思う。

動物園のような統一性の無い音の中から、嘔吐した恥ずかしさと体調の悪さで泣いている彼女の声が聴こえた時、私の身体は無意識のうちにその子の方へ行き、ハンカチで彼女の口の周りを拭き、他の女子に保健室まで連れて行ってもらい、教室の窓を全て開け、雑巾でひたすら吐物を片付けた。現代はウイルスに対して神経質で慎重なため、素手で吐物を片付けるなんて有り得ないのだけれど、当時は現代のようにそういった知識があまり無かったように思う。私の身体は黙々と動き、誰の声も聞こえない振りをし続けた。

担任はというと、騒ぎ立てる生徒に対して「静かにしなさい!」と頭ごなしに怒鳴るだけの、ただの傍観者だった。普段は「生徒自身の自立心を」なんて偉そうに言っているけれど、本心は面倒臭がりな放任主義なだけなんだろうと、その時、私は一人の大人を諦めた。

 

私は本来、こんなに行動力のある人間では無い。周りから「偉いね、優しいね」と賞賛されようと自身を誇らしくは思えなかったし、吐いたあの子から感謝され好かれようと戸惑うことしか出来なかった。自分が解らず、コントロール出来なかった。確かにやったのは私の身体だけれど、「私」がやった訳では無いのだから。本当の私は、驚いて、怖がって、何も出来ず震えて立ち竦んでいるだけの、ただの傍観者の一人だ。

 

少しずつ、少しずつ、私の中から彼が現れる回数が増えていく。それに比例して、私は彼を軽蔑し、恨み、妬むようになった。

私は誰からも愛されないのに、いつも貴方ばかり愛される。私は私だけのものなのに・・・。いっそ、貴方なんて居なくなればいい。どうして出しゃばるの?ねぇ、何とか言いなさいよ!私が何も出来ない人間だからって、そこから嘲り笑っているんでしょう?!

彼が人から好かれる度に、私はどんどん卑屈で醜い女になった。消えてしまえばいいのは私の方だと内心分かっていながら、私は彼を追い出したかった。

 

 

歳を重ね、時間は過ぎていく。私の願望とは裏腹に、生活はどんどん彼に侵食されていた。彼の社交性を生かし、周りの人間関係が構築されていった。私の友人になってくれる人は良い子ばかりだけれど、いつも私では無く彼を見ていた。上司から「期待している」と褒められるのも、全て彼だった。私だと、「どうした?今日は疲れているのか?」と、皆心配する。きっと上手くいっている筈なのに、全然上手くいっていない気がした。好きな人と交際して愛されても、真からは愛されていない気がしていた。結局、「私」を見せるといつも振られるからだ。私の身体なのに。いつも、寂しかった。

居場所が無い。

 

私の身体が滅びれば、彼も一緒に消えてくれるのだろうか。この何処か気持ちの悪い感覚も無くなり、楽になれるのだろうか。いっそ共に消えてしまおうか。

 

 

ある日の飲み会。知人の紹介で、一人の女性に出逢い、初対面で急に言われた。

「貴女には、もう一人誰かが居るのね。憑いてるというよりは、共存している感じがするわ。」

私は驚いて言葉が出なかった。彼女は続けた。

「その人は、多分、男性。勇ましく、勝気な性格をしている。そして、幸福に対して凄く貪欲な人ね。本来、控え目な貴女とは正反対かもしれない。こんな事を初対面の相手から急に言われて、戸惑うかもしれないけれど、悪い事ではないから聞いてね。彼は、貴女のお母さんから生まれてくる筈の命だった。けれど、何かの手違いで生まれてこられなかった。でも、どうしても貴女のお母さんの子供になりたかった。だから、例え成仏出来なくてもいいから、それでも生まれてきたかったみたい。貴女と共に生まれ、共に生きて、二人でお母さんを守っていくと決めたのね。だから、貴女がお母さんを大切に想う気持ちは人より濃くて、幸せになりたいという気持ちも人より強かったんじゃないかしら?貴女は今までそれが理解出来なくて、とても生きづらかったかもしれない。けれど、彼は貴女がピンチの時に守ってくれたこともきっと沢山あると思うの。どうかな?こんな経験が出来る人間は滅多に居ないし、特別で、とても素敵なことよ。」

この人には何が見えているのだろう。私は占い等は一切信じないタチだけれど、初めて他人から見透かされた気がした。誰にも話したことはないのに。怖かった。けれど、初めてちゃんと私を見てくれたような気がして、嬉しかった。こんな気持ちは初めてだ。色んな感情が混ざり合い、私は涙が溢れた。いつも泣けない私が、こんなにも泣くなんて。今思えば、この時泣いていたのは私では無く、兄だったのかもしれない。誰かに見つけてもらえたのが嬉しかったのだろうか。小さな子供のように泣いていた。

 

「一つ覚えていて欲しいことがあるの。貴女がいずれ死を迎える時、貴女は成仏出来るけれど、彼は一度成仏しなかったから、もう出来ないの。だから、貴女が死んだら離れ離れ。貴女は成仏すればまた何度だって生まれ変わることが出来るけれど、彼はもうこれが最後なの。もう、二度と会えない。」

もう、二度と会えない。あれだけ居なくなればいいと思っていたのに。引き離される事に対して、急に心細くなった。

「でも、大丈夫。二人は今世できっと幸せになれる。人より思いが二倍なのだから。」

そう言って、彼女は去った。

 

私は、兄を思った。兄も、私を思ってくれているのだろうか。私はいつも貴方を疎ましく思い、邪魔者扱いしていたのに。私を守ってくれていたの?二人で一緒に幸せなろうと必死だったの?それなのに、私は・・・。

 

 

それから、母に尋ねて、知った。死産した経験があること。性別は、男。私には、兄が居たのだ。全てが繋がった。母は、何故急にそんな事を訊くのか不思議がったが、本当のことは言えずに誤魔化した。きっと、それは生涯云えないのだと思う。母が天国へ逝っても兄とは二度と会うことが出来ないと言ってしまうことになるからだ。そんな哀しいこと言えない。そんな事を言うよりも、私達が生きているうちに、二人で母を幸せにしてあげたい。

 

 

私は、今日も生きている。人知れず、兄と二人で生きている。もう、何があっても消えたいなんて言わない。「そんなんなら俺と代わってくれよ」と兄に怒られてしまう気がするから。

 

私は、相も変わらず臆病者。でも、もう大丈夫だよ。私の中には、勇ましく勝気な兄がいつも居てくれるから。妹の前に立って守ってくれる兄よりも、ずっとずっと心強い兄が、私の中に。