鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

swallow's story

 

それは、私が鍵をかけた二人の物語。

 

 

 

 

 

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高校卒業後、私は社会人になった。就職先は、高校1年生の頃からアルバイトで働いていた飲食店。

私達はそこで出逢った。

彼は、私の働く店と同じ道路沿いにある中小企業のサラリーマンだった。金曜日になると、ほぼ毎週のように職場の仲間と賑やかにお酒を呑んでいる楽しそうな若者たち。彼はその中の一人だった。

何度も来店してくれるお客様のことは、店員としてよく憶えているもので、私はその集団のことも頭にしっかりインプットしていた。

 

 

 

注文ボタンの音がする。呼び出している席の番号を確認し、私は小走りで駆け寄った。

「好きです!付き合って下さい!」

注文を取ろうとした矢先のことだった。

    あぁ・・・酔っ払っているのか。

その時そう思ってしまったのは、彼の耳朶が異常な程に真っ赤だったからだ。急に告白されたことにも多少驚きはしたが、それよりも見事なまでの耳朶に見入ってしまった。

    明太子みたい。

頭の中でくだらない事を考えていると、いつの間にか自分の世界に迷い込んでしまった。

 

 

 

 

 

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耳の奥で、父の怒鳴り声がする。その後を追うように、母の泣き声が聞こえてくる。逃げ場の無い箱の中に閉じ込められている私。早く大人になりたい、箱の外へ飛び立ちたい、と願っていたけれど、いざ出てみれば外の世界も大した事は無かった。

私は、家族団欒というものを知らない。仲の良さそうな家族を見る度、如何してもそれが嘘臭く感じてしまうし、そんなのはドラマや映画の世界のものだけだと思っていた。

我が家は戦場だった。故に、私には愛し合う事で生まれる喜びのような感情が欠落しているように感じていた。

 

愛を知らない欠陥品の人間を、而も赤の他人が「好き」だなんて。相手には失礼な事だが、全身にムカデが這っているような感覚がした。

    気持ち悪い・・・。

この店でたった数回顔を合わせた程度の関係で、一体私の何が分かると言うの。

 

 

 

 

 

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仲間たちが彼を茶化す。その嘲笑のような不快な声が私の耳を突いた瞬間、ハッと我に返った。

「申し訳ありません、仕事中ですので・・・。ご注文がなければ失礼します。」

店員という立場上、強くは断れなかった。穏便に済ませようと愛想笑いをした後、そそくさとその場を離れた。

背後から「フラれた〜!」と彼を馬鹿にする仲間たちの笑い声がする。それが私の背中を突き、余計に気持ち悪くなった。彼はテーブルに顔を伏せ、仲間たちに泣き真似をしてみせている。

    ・・・酔っ払いめ。

若さや酒に任せて悪ノリが過ぎる人間は、私はあまり好きじゃない。此方まで馬鹿にされているような気がした。

 

 

 

 

 

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もし私が逆の立場なら、そんな一件があった後は気まずくなってしまうだろう。然し、以降も彼は何食わぬ顔で来店し、私の姿を見つけると笑顔で手を振り、仕事の隙をついてはこっそり声を掛けてくるようになった。完全に弄られている。「店員と客」という立場上、強気に出られないのが気に食わない。

少しでも彼から逃れるため、私の方も意地になっていた。来店した事に気付くと、忙しい振りをしたり、バックヤードに隠れたり、注文を取るのは出来るだけ別のスタッフに代わってもらったり・・・。そうやって自分なりに防衛してみたが、寧ろ彼はそんな私を見て面白がっているようだった。

 

 

 

    どうすれば諦めてくれるだろう・・・。

もっと他に良い対策は無いかと考えながら、お客様用のトイレへ向かった。この店では、必ず一時間置きにトイレ掃除をするのだ。

急に背後に気配を感じた。振り向くと、まるで子犬のように私の後ろを着いてくる彼。

「あ!えっと・・・トイレ行きたくて!」

白い歯を見せ、少年のように無邪気に笑う彼。それを見ていると、一人だけあれこれ考えている事がついに馬鹿らしくなった。

    遊びに行く位なら、別にいいか。

 

 

 

 

 

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私は一度も恋愛経験が無い。学生の頃に何度か告白されたことはあったが、拒否反応を起こし続けてきた。

そうすると、いつからか「鉄の女だ」、「高飛車だ」、「可愛げが無い」などと好き放題言われ、好かれていた筈の相手からすぐに嫌われたものだった。

今になって思い返せば、原因は此方にあるのだと思う。然し、当時は掌返しが目に見える度に、心の中から太く尖った棘が生えてくる様な感じがして、私はそれを誰にも触られないよう頑なになっていった。

そんな学生時代だったため、異性と出掛けるなんてことはただの一度も無かったし、男友達なんてものも当然居なかった。

 

 

 

 

 

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初めて二人で出掛けた場所は、水族館だった。

世間一般には、デートと呼ぶのだろうか。それは私の想像を上回る世界だった。控えめに言って楽しい。まるで私自身が水の中で自由に泳ぐ魚にでもなったかのように、見るもの全てが美しく映った。

そんな私の姿を見てニヤけている彼と目が合うと少々癪ではあったが、気付けば私も自然に笑顔になっていた。

「また会ってくれる?」

私に指一本触れず、真っ直ぐな瞳で見つめてくる彼。私よりずっと年上の筈なのに、そんな彼を見ながら不覚にも可愛いと思った自分が居た。

 

 

 

私たちは、友人として色んな所へ出掛けた。時には一泊することもあったが、それでもプラトニックな関係だった。彼は、交わったりキスをしようともしない、手も握らないし髪の毛一本さえ触れてこなかった。此方の気持ちを話した訳でもないのに解ってくれているような気がして、それが何とも心地好かった。

私はいつも「ありがとう係」だった。素直にありがとうと言うと、彼は嬉しいと言って笑ってくれた。

彼は、私が落ち込んだ時、何も言わずただ傍に居てくれる。どうしようもなく哀しい時や寂しい時には、可笑しなことを言って笑わせてくれる。とても優しい人だ。

私は、ほんの少しだけ恋心が解ったような気になっていた。彼との時間は、友人と過ごすのとは少し違う色をしている。例えるなら、パステルカラーのような、ぼんやりと優しい色をした安心感があった。

 

 

 

 

 

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「結婚を前提に、僕と付き合って下さい。」

最初に告白された時と同じ。彼の耳朶は真っ赤だった。今日はお酒を呑んでいないのに。

    あぁ、あれは・・・。

あの日、初めてこれを目にした時の感情と、今のこの感情は、180度違っている。本当はそんな事もうとっくに気が付いていた。私は彼のことが好きだ。好きになってしまっている。緊張するとすぐに真っ赤になってしまう、明太子のようなこの耳朶までも堪らなく愛おしい。こんな気持ち、私は彼に逢うまで知らずにいた。

私の冷えた指で、二つの耳朶を優しく摘んだ。彼の熱が伝わってくる。私はその手を離さないまま、首を縦にして頷いた。

そうして二人が始まった。

 

 

 

 

 

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18歳の私にとっては、7歳も年上の彼は物凄く頼りになる大人だった。小さな子供が下から親を見上げているような感覚に近かったのかもしれない。

私は、実の親よりも彼から教わったことの方が沢山ある。彼は色んな景色を見せてくれた。捨て猫を拾い、餌をやり、世話をするように、いつも私に与えてくれたのだ。

彼は、物知りで、優しくて、賢い。一方の私は、無知で、無力。そうやって二人を比べては、自信を失くすことも増えていった。

彼から与えられる愛が貯まっていく。その愛が詰まった風船は、大きく真ん丸に膨らんでいく。

それでも、ほんの少しの違和感があるのは何故だろう。然し、それは風が吹けば飛んで行ってしまう程の些細な塵のよう。あまりに小さくて見過ごしてしまっていた。

彼の方はと言えば、きっと私のそれとはまた少し形が違っていたのかもしれない。そして、その風船が遠い所へ飛ばされてしまいそうになるのを、必死に繋ぎ止めていたのだと思う。

 

 

 

 

当時の彼と同じ位の年齢を迎えた今なら、少しは理解出来ること。それは古い角質のようにポロポロと出てきた。

人はどれだけ年齢を重ねようとも、簡単には成長しないもの。考え方や価値観も、何か大きな転機がない限りそう簡単には変わらない。

私達の肉体は止まることなく日々老いてゆく。それでも心はなかなか変われない。心と体が少しずつ引き裂かれ、結局心だけ置き去りにされていくような気がして、それがとてつもなく痛いのだ。

人はそれぞれ笑顔の裏で怯えながら生きている。彼はきっと私以上に苦しんでいたのだろう。そんな彼の気持ちは霧がかかった様に霞み、私の方からはよく見えていなかったのだ。

 

 

 

 

 

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いつ頃からだろう。彼は嫌味ばかり言うようになっていた。

「少し太った?体型維持くらいはしてよね。」

「俺はロングヘアの方が好きなんだけどな。」

「女なんだから、もっと可愛い服着なよ。」

「女らしく可愛い声でお願い出来ないの?」

女らしく、女なんだから、女のくせに・・・。その言葉がチクリと刺さる。このまま放っておけば私の心はいずれハリネズミとなり、飼わなければいけなくなるのではないか。自分でも馬鹿だと呆れるような妄想に駆られた。

私は、男らしい貴方が好きな訳では無いし、「男のくせに」なんて思わないのにな・・・。

 

 

 

住んでいるマンションのコンクリートの壁が、老朽化のためほんの少しだけヒビが入ってしまっている。仕事帰りに自宅の階段を上る際、ふとそれが目に入った。私は足を止め、それを指でなぞりながら暫く眺めた。無性に虚しい気持ちが溢れ出す。

噛み合わない私たち。最初は思いもしなかった。一番解ってくれていると思っていた彼から、一番傷付くような事を言われるなんて。

それでも・・・私は彼に愛されたい。私には彼しか居ないのだから。そう信じたかった。

顔も、体も、髪も、服も、声も、心までも全て彼色に染まり、彼の望む私になろうとした。そこまでしても、ほんの些細な衝撃によって雪崩は起きてしまうものだ。二人の時間を重ねていく度、二人は歪んでしまった。

 

 

 

 

 

私が、自分の考えを発言することや、他の男と話すのを異常に嫌がり、それを目にした時には激しく暴言を吐くようになった彼。此方が反発しようものなら、手を上げるようにもなった。あの頃の彼は、もう居ない。

彼が、自分だけ好き勝手に職場の仲間や異性の友人と飲み歩いたり、当たり前のように帰りが遅くなることに対して腹が立ち、些細なことでヒステリックを起こすようになった私。あの頃の私も、もう居ない。

愛しい人だからこそ、私はどんな時も彼の全てを赦してあげられると思っていた。それなのにこの有様は何だ。此処に居る、醜くて惨めな女は一体誰なんだろう。

男性に対してヒステリックに叫び、怒り狂う女性をドラマで見る度、実際にこんな人間が存在するのかと不思議に思っていた。

彼女は、私だったのだ。

 

 

 

 

 

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一人ぼっちの部屋。彼は帰ってこない。

ここ数日、身体が重たい。眠りたいのに眠れない。明日も仕事に行かなければならないのに・・・。

焦る気持ちを少しでも落ち着かせるため、瞼を閉じてみる。瞼の裏に浮かんでくるのは、二人が始まったあの日。

今の私には、彼の熱くて柔らかい耳朶の感触はもう残っていない。それが余計に寂しくさせる。出来るなら、あの日に戻りたい。

    こんな筈じゃなかった・・・。

“あの頃の私と何が違うんだろう”という切ない歌声が、イヤフォンを伝って私の耳に届く。大好きな曲なのに、今日だけは私を責めているように聴こえた。

彼の愛情を受け、あんなに大きく膨らんでいた筈の私の風船が、今ではこの部屋の片隅に小さく萎んでいる。あの頃の私はこんな風になるなんて想像もしなかった。この風船で空を飛び、何処までも行けると思っていた。

    ・・・もうダメなのかな。

 

 

 

「結婚を前提に、僕と付き合って下さい。」

あの時、私に言ってくれたこの言葉を彼は憶えているのかな。あの日からもうすぐ10年が経つんだよ。勿論、口約束だということ位は分かってる。でもね、私はとても嬉しかったの。ずっとそんな日が来ることを願っていた。

 

 

 

 

 

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午前2時を回った頃、玄関のドアが開く。シューズボックスの上にキーケースを雑に投げつける音がする。彼はまたお酒を呑んでいる。きっと機嫌も良くないのだろう。ずっと一緒に居ると、相手が放つ音だけで機嫌も分かるようになるのだな。呑気にそんな事を考えていた。

「おかえりなさい。」

「え、部屋掃除してないの?こっちは疲れて帰ってきてるのに・・・気分悪いわ。はぁ・・・もういいや、ビール取って。ていうか言われる前に動いてよ。」

今、私の目の前で文句を言っている人は誰なんだろう。

「悪いけど、私だって働いてるんだよ。しんどい時だってある。一緒に住んでいるんだし、少しでいいから家事も協力してくれないかな?」

急に耳鳴りがし始めて、今自分の話している声すらちゃんと聴こえない。それなのに、彼が溜め息を吐く声だけは聞こえる不思議。

「お前と俺の仕事を一緒にするつもり?そういう事は同じくらい稼いでから言ってよ。毎日俺の方が疲れてるんだから、家事くらいするのが当たり前でしょ。」

あぁ・・・そうか。今のこの人には何を言っても伝わらないし、通じないんだ。なんだか宇宙人と一緒に居るみたい。向こうも向こうで同じような事を思っているのだろうな。

このままでは、好きだった筈の彼を憎んでしまいそうだ。父を憎んで生きていた頃のように。

本当は子どもの頃から分かっていた。人を憎んだって自分が楽になれる訳ではないということを。同じことを繰り返すのはもううんざりだ。

「私たち別れよう。」

本当はこんな悲しいこと言いたくない。

「は・・・何で?俺が悪かったの?言い過ぎたなら謝るよ。こっちも変われる所は変わるし、お互い努力をしようって言ってんの。お前が居ないと俺は生きていけないよ。」

ねぇ、気付いている?こうして二人が言い合う度に、貴方はいつも何処にでもあるような言葉ばかりを繰り返して、私に聴かせるの。そうすれば、何があっても私が赦し、無理にでも笑うと思っているのでしょう。でも、それも今日で全部お終いにしよう。

「一緒に居てもお互い苦しいだけだよ。」

他人に意見するのは怖いけれど、ここで勇気を出さなければ永遠にこのままだ。震える身体を必死で抑える。

「何だよそれ。お前なんか見た目以外何の取り柄もないんだから、俺と一緒に居るしかないでしょ?大体、お前なんかと付き合いたい男なんて一生現れないよ。」

貴方は理性を失うと、私が傷付くような言葉をわざと強く投げつける。でも、本当はそんな事言いたくないんだよね?そんな自分のこと本当は嫌いでしょう?

私はね、貴方のことは大好きだったけれど、貴方と居る自分のことは大嫌いになっちゃったよ。

 

 

 

「お前なんか」、「女のくせに」・・・。

彼が私に投げつけた言葉は、父から言われてきた言葉と同じだった。そういう事を言われる度、私なんか居なくなればいいと思った。

彼が私を殴る力の強さは、父にされるのと同じくらい痛かった。私はきっと人間にもなれなくて、いつも誰かのサンドバッグなんだなと思った。

私が今まで誰のことも好きにならなかったのは、いつかこういう結末を迎えるのが恐ろしかったのかもしれない。それでも彼だけは・・・と思いたかった。

あぁ、でもそれは少し違うのかな。最初はそうじゃなかったものね。貴方をこんな風にさせたのは、貴方のことを上手く愛せなかった私の所為かもしれない。

それでも・・・これだけは嘘じゃない。私は、本当に貴方が好きだった。家族になりたかったんだよ。

彼への想いを抑えた代わりに、止めどなく涙が溢れてくる。然し、私はもう止まらない。止められない。止まってはいけない。

 

 

 

頑なに別れる意思を曲げない私を見て、彼は怒りに任せて私の左頬を殴り、身体を突き飛ばした。叫び声に乗せて酒の臭いがする。突き飛ばされた反動で、私の身体は壁にぶつかった。殴られた方の耳からは、キーンという甲高い音が響き、額からは生暖かい血が流れてきた。

私はサンドバッグどころではなく、クタクタのボロ雑巾だった。あの時観たドラマの彼女より、遥かに惨めな姿。

 

私は家を飛び出した。酷い姿だったけれど、なりふり構わず走って走って走り続けた。私は、彼から逃げている。惨めな自分から逃げている。

今、私は誰よりも一人ぼっちで寂しい筈なのに、向かい風のおかげで涙は乾いていた。

    すべて、終わったんだ。

 

 

 

 

 

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誰も居ない深夜の公園。車の音も聴こえない。

私はブランコへ腰掛け、夜空を仰ぐ。瞼を閉じては開くというような動作を何度も繰り返す。視界は良好とは言えないが、辛うじて見えている。左側の瞼から頬にかけて、まるで自分のものではないかのように感覚が無い。時間が経過し、腫れてきたみたいだ。その所為で、景色はぼんやりとしている。

それでも、お月様が私を見ていることだけは分かった。

 

 

 

本当の意味では、誰とも分かり合うことなどできないのだろう。二つが一つにはなれないように、ぴったりとハマる人間関係など存在しない。皆、本当は最初からそれを知っている筈だ。

一人で生まれ、一人で死にゆく。どれだけ時間が経とうとも、何処まで遠くへ行こうとも、その事実は永遠に変わらない。それでも愛することを止められないのが、この世に生まれた命だ。

少しでも傍に行きたい。寄り添いたい。同じ目線で微笑みたい。ただ手を繋いでいたい。

 

    私には、もう叶わない。

 

私たちの物語は、ただのバッドエンドだったかもしれない。一番近くに居たかった筈の彼の存在は、私から一番遠くに在ったことに気付くまで、まるで浦島太郎みたいに時間が経ってしまった。

それでも、私は分かっている。彼が私を愛したこと。私が彼を愛したこと。そこには穏やかな日々や幸福な年月があったこと。

それは二人にしか分からないのだから、誰にも否定させたりはしない。もしもその権利があるとするなら、それは私と彼の二人だけ。この世でたった二人だけ。

それでも、出逢えたことに後悔はしない。本当に・・・私はつくづく馬鹿な女だ。

 

彼は今、どんな気持ちであの部屋に取り残されているのだろう。それを思うと、再び涙が溢れた。

私は、彼の元へ戻りたくなる弱い心に鍵をかける。それを右手に握り締め、出来るだけ遠くへ投げ捨てた。二度とその鍵が見つかりませんように・・・。私は強く願った。

私はこれから何処へ行こう。一人なら、きっと何処へでも行ける筈だ。

 

 

 

ブランコから立ち上がり、つま先立ちをしながら空に向かって手を伸ばす。夜空には、走って逃げている時から私をずっと追いかけてきてくれたお月様が居る。

「ねぇ、お月様。私は一人になってしまったけれど、あなたが居るから独りじゃないよね?」

どれだけ大きく背伸びをしても、決して捕まえる事は出来ない程遠くに在る。それなのに、何故こんなにも近くに感じるのだろう。

見上げたまま涙を流す私に向かって、お月様は言った。

「明日のことは、誰も知らない。」

 

 

 

 

 

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それ以降、彼が私の目の前に現れる事は無かった。別れて暫くすると、実家に荷物が送られてきた。段ボール箱の中に綺麗にまとめられた私物だった。きっと彼も、もう私の元へは戻らない事を自分で決めたのだと私は悟った。

 

それから更に月日が経った頃、出勤する為にいつもの道路沿いの歩道を歩いていると、たまたま遠くの方でスーツ姿の彼を見掛けた。会社の人と一緒に居て、私に気付く事無く道を曲がり、すぐに姿を消した。別れた後に彼を見掛けたのは、その一度きりだった。

それでもいい。何処かで彼が生きている。それだけで私は十分だ。もう二度とあの愛しい耳朶に触れることが出来なくても、別の誰かの彼になったとしても。私のことを忘れたっていい。どうか「私」という過去に罪悪感を抱かずに生きていって欲しい。

大丈夫。鍵を掛けた心の中で、私が貴方をいつまでも憶えているから。

 

 

 

 

 

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彼を見掛けた翌日、私は仕事が休みだった。美容室へ行き、腰まで伸びた黒髪を襟足の辺りまでバッサリと切り、念願のショートヘアにした。髪色も久し振りに明るく染めた。

「お疲れさまでした〜!別人になりましたね〜!」

明るく笑う美容師に声を掛けられ、恐る恐る鏡越しの自分を見た。本当に別人みたい。それは紛れもなく私自身なのに、鏡の向こうの自分を相手に少し人見知りをしてしまう自分が居た。

 

    はじめまして、新しい私。

 

 

 

美容室の扉を開けて空を見上げる。お日様が私にジリジリと視線を送っている。手を伸ばして捕まえようとすると、指の隙間から無数の光が零れ落ちた。

私は、また一から何かを掴もうしながら生きていくのだ。昨日の私は、今日の私がこんな風に思えるようになるとは想像もしなかった。

「明日のことは、誰も知らない。」

今は眠っているであろうお月様を思い出すと、自然と笑みが溢れた。

 

ありがとう、さようなら。