鳥たちよ、自由に羽ばたいてゆけ

私たちもいつか羽ばたけると信じて

花は、詠う

 

  赤信号で止まる。

後部座席から桜並木を眺めている。

白いような、ほんのりピンクがかったような、何とも曖昧な色をしたソメイヨシノの花弁。

  再び車が走り出すと、景色が揺れる。

規則正しく並んでいる木々が混ざり合い、それらが一本の線になり、スーっと何処までも遠く伸びていくような気がした。

 

「おばあちゃん、見て。満開だよ。」

  隣に座っている祖母に、そっと話し掛ける。

私の声に頷くものの、何も喋らない祖母の目線は、桜を見ているのか、ただボーっとしているのか、不確かだった。

  以前は、明るくて優しくて、よく笑う祖母だった。

近頃は、数分前のことを忘れてしまったり、言葉の意味を理解出来ないことも増え、眉間に皺を寄せたような険しい表情ばかりしている。

「おばあちゃん、昔から桜が好きだったわね。」

  運転をしている母が、私と祖母に話し掛ける。

ミラー越しからでも伝わってくるほど、母は優しい目をして祖母を見ていた。

私の方は、話し掛けても応えてはくれない祖母と隣同士に居る気まずさを紛らわすため、再び桜並木に目線を逸らした。

 

 

 

 

 

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「花詠、上を見てごらん。綺麗だよ。」

  幼い私の小さな手を優しく握り、歩幅を合わせながら、ゆっくり進んでくれる祖母が好きだった。

 

  当時、一緒に住んでいた家の近所には、それは見事な桜並木があり、私はそれを“桜のトンネル”と、ありきたりな名前を付けて呼んでいた。

そのトンネルの中に入り、真ん中のあたりまでやって来ると、必ず足を止めてゆっくり桜を眺める。

それが祖母と私のお約束だった。

  小さな手指を開き、まだ短い腕を桜に向かって目一杯伸ばす。

空の青さが、桜の美しさを際立たせてくれる。

  まるで絵本に出てくる不思議の国にでも迷い込んだかのようで、この時間も、私も、特別なのだと思えた。

自分だけの物語を、都合よく頭の中に思い描いた。

 

「すごーい!綺麗だね!」

「綺麗ね。おばあちゃん、桜が大好きなのよ。」

「私も!でも・・・すぐに散っちゃうのは寂しい。ずっとここに居てくれたらいいのに。」

「寂しい?」

「だって、やっと咲いたと思ったら、今度はあっという間に散ってしまうんだもん。いっぱい風が吹いたり、雨が降ったりすると、もっと早いお別れが来ちゃう。そんなの寂しいよ。」

  好きだからこそ、サヨナラしたくない・・・。

それならば、いっそ最初から無ければいいのに。

「そうね、そうかもしれないね。でもね、花詠。命があるものには必ず始まりがあって、そしていつか終わりが来る。だからこそ、美しいと感じられるのかもしれない。それにね、寂しいという気持ちは、それだけ大好きだったっていう証なのよ。」

  蝶々がヒラヒラと舞うような、優しい祖母の声。寒くて凍えそうな心を解してくれるような不思議な力があった。

  春を呼び寄せる、魔法使いだと思った。そんな祖母が好きだった。

 

「でも、桜が散ると、皆すぐに桜のことなんて忘れちゃうでしょう?そんなの、悲しいよ。」

そうね・・・、と眉を下げて少し困ったように笑う、春の陽気のような祖母の笑顔。

「忘れるということはね、ちゃんと出逢ったということなのよ。ちゃんと、そこに在ったという証。最初から出逢わなければ、忘れてしまうことを恐れたり悲しむことも無いかもしれないけれど、その代わり、思い出して優しい気持ちや嬉しい気持ちになることもないでしょう?」

最初から何も無いより、その方がずっと幸せだと思わない?

そう言って、私の頭を優しく撫でてくれた温かい手は、木漏れ日のようだった。

そんな祖母が好きだった。

 

  祖母が私に掛けてくれた数々の言葉は、幼い頃は難しく感じることもあったけれど、それは私を年齢関係なく対等に接してくれているということだと解っていた。

子ども扱いはしすぎないけれど、ちゃんと同じ目線から世界を見ようとしてくれる。そんな祖母が好きだった。

 

「ねぇ、おばあちゃん。いつか私のことも忘れてしまう?」

「そうね・・・もしかしたら、楽しい夏が来て、秋を涼しく過ごしているうちに、忘れてしまう日が来るかもしれない。」

祖母は私の目線までしゃがみ込み、少し目を伏せた後、私の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「でもね、頑張って冬を越えると、また春がやって来る。そして、またここに綺麗な桜が咲いた時に、思い出すの。花詠と一緒に居られて、こんなに幸せで、こんなに優しい気持ちになれるってことを。大丈夫。きっと思い出すからね。」

 

  それとね、花詠。例え、思い出を忘れてしまっても、永遠に変わらないこともあるのよ。

おばあちゃんは、ずっとずっと花詠のことが大好きだってこと。

それだけは、何があっても絶対に変わらないからねーーー・・・。

 

 

 

 

 

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  ここ数年で認知症が悪化し、自宅での介護が難しくなってきたこともあり、私たち家族と祖母は、離れて暮らすことになった。

元気な頃は、毎年必ず一緒に歩いていた桜のトンネル。

今、その桜並木が数メートル先に広がっている。

あの道に車は入れない。車椅子が上れるようなスロープなども無く、有るのは階段のみ。

せめて桜が少しでもよく見える場所にと、母が車を近くに停めてくれた。

  祖母と2人で歩いていた頃の景色とは、随分と変わってしまった。

それでも、桜並木だけは、今もあの頃のまま。

 

「何か飲み物でも買ってくるわね。」

母は車から降りて行った。

  2人きりの車内。祖母と居ることが、こんな風に気まずくなる日が来るなんて思ってもみなかった。

  何を話し掛けても、何も返ってこない。一方通行で、伝わらない。その度に、傷付いてしまう。

私の、そんな行き場のない言葉や想いなんて、空に消えてスッキリ出来ればいいのに。でも、そんな風に簡単に割り切ることも出来ない。相手が大切な人だと、尚更だ。

  忘れられることがこんなにも寂しいだなんて。想像したことは何度もあるし、そうして寂しさを生み出してみたこともあるけれど、想像はあくまで想像でしか無かったことに気付いた。

  ねぇ、おばあちゃん。私のこと、忘れないで欲しかったよ・・・。

 

「花詠・・・花詠。何処に行ったの?」

  独り言のように呟く声に、私は耳を疑った。

掠れて震えた声。あの頃の、春のような柔らかな声とは程遠いけれど、確かに祖母の声だった。

私の名前を呼ぶなんて、何年ぶりだろうか。それだけで、色んな感情が溢れて胸がいっぱいになる。

「一緒に桜を見に行かなくちゃ・・・。」

  車の窓ガラスに両手を添えながら、桜のトンネルの方を見ている。

この位置からでは、後頭部しか見えない。祖母は今、一体どんな表情をしているのだろう。

「おばあちゃん、私のこと思い出したの?」

  勇気を出して尋ねてみたけれど、やはり祖母からは何の言葉も返ってこない。

そうだった。何度もこんな風な気持ちになってきたんだよ。もう、私の声には応えてくれないんだって。正確には、応えることが出来なくなってしまったんだけど。

すっかり慣れたつもりでいたのに、やっぱり胸は傷む。

  涙を堪えようと瞼を閉じた時、あの頃の祖母の声が、耳の奥から聴こえてきた。

  “大丈夫。例え忘れてしまっても、いつかきっと思い出す日が来るからね。”

  驚きの余り、瞼を開いて顔を上げた。

桜のトンネルに目線をやった瞬間、車体が揺れる程の突風。

美しい桜吹雪。

祖母と過ごしてきた愛しい思い出が、花嵐と共に空へ舞い上がる。

 

  ご飯を作りながら口ずさんでいた古い歌。

  洗濯物のシワを伸ばす時にパンパンと叩く音。

  試験勉強の時に作ってくれた夜食のおにぎり。

  私のために戸棚に隠していたお菓子の山。

  2人が好きだった花の名前。

祖母が大切な何かを一つ忘れてしまう度、私は心の一欠片が削られていく思いがしてきた。

笑う回数も随分減った。

大好きだった祖母が、別人へと変わっていく気がしてならなかった。

それが、ずっと怖かった。

それでも・・・忘れるということは、出逢ったということ。確かにそこに在ったということ。最初から“無かった”という訳ではないのだ。

今ならあの時の祖母の言葉がほんの少しだけ理解出来るような気がする。

この桜を見て、私の名前を呼んでくれた。過ごした日々を、一瞬でも思い出してくれた。

こんなに幸せなことがあるだろうか。

それすら、またすぐに忘れてしまうことを考えると、胸が張り裂けてしまいそうに辛くて苦しいけれど。

それでも、今はそれ以上に愛しい。

 

「おばあちゃん・・・大好きだよ。」

  出来る限りの力を込めて、祖母を抱き締めた。

私の腕の中に簡単に収まる身体。子どもの頃は大きく感じていたのに。

おばあちゃん。こんなに小さかったんだね。

堪えていた筈の涙が止まらない。

  大きくなった私の背中に添える、温かい手の平。

「おばあちゃんも、花詠のことが大好きよ。」

あの頃と同じ、優しい声だった。

  あぁ、そっか・・・。おばあちゃんは、春そのものだったんだな。

 

  忘れられることはとても辛いけれど、きっと忘れることも同じくらい、もしくはそれ以上に怖いことなのかもしれない。

忘れてしまったとしても、確かに私たちは出逢い、確かにそこに在った。

この先、祖母がもっと変わっていってしまおうとも、思い出は愛しいまま在り続ける。

最初から無い方が良かったなんて、そんなこと、もう思わない。

こんな風に、一瞬で幸せな気持ちにさせてくれる素敵な魔法使いと出逢えて、本当に良かった。

今よりもっと月日が経って、今度は私の方が忘れてしまう時が来たとしても、それでもきっと思い出すだろう。

 

  ねぇ、おばあちゃん。

私も永遠に大好きだからね。

 

 

 

 

花は、詠う

 

何者にもなりきれない何者でもない私へ

 

自由に飛び回る鳥になりたいのに

目がつり上がってるから猫なんだってさ

 

いっぱい笑いたいのに

クールな方が美人なんだってさ

 

思い切り泣きたいのに

みっともないからやめなさいってさ

 

怒りたい時だってあるのに

周りに迷惑をかけるんだってさ

 

あの頃あの子が好きだったのに

同じ性別だから駄目だったんだってさ

 

男でも居たいし女でも居たいのに

白黒はっきりさせなきゃいけないんだってさ

 

選ばない選択肢だってあるのに

女の幸せは結婚と出産なんだってさ

 

一等賞取りたいのに

ベベが可哀想だから皆一緒なんだってさ

 

人と違うことをしたいのに

皆と一緒じゃなきゃ嫌われるんだってさ

 

 

 

誰が決めたんだろうね

この世の声は何の根拠も保証もない

それでもその声に振り回される

名前もない声に勝手に傷付けられる

 

私は

何処に行けばいいのだろう

何を信じればいいのだろう

怖くて何処にも行けないし

何も信じられない

 

 

 

「あなたは大丈夫だよね」

「一人で生きていけるくらい強いから」

「寧ろ強すぎて可愛げがないけど」

あなたは私じゃないのに如何して分かるの

私にだってそんな事分からないのに

 

大丈夫な人なんて居るのかな

だって大丈夫な振りをしていないと

それはそれで面倒臭がるじゃない

 

勝手だな

勝手なことばかり

何も言うな

愛してくれないなら

放っておいてよ

 

 

 

 

私は私として生きていくしかないし

私からは逃げられないのだから

せめて私らしく居られるように

生きていたいだけなんだよ

 

生きていたいだけなんだよ

 

あるバンドの話

 

ここ最近、また寝つきが悪くなってしまった。

薬は飲んでいるのにな。

イマイチ効きが悪いのは、心配事が増えたからだろうか。

と言っても、心配事が増えるような目まぐるしい生活を送っている訳ではないのだけれど。

仕事でちょっと色々あったからだろう。

 

はぁ・・・明日も早いし、もう寝たいのに。

寝たいと思えば思う程、寝れないもどかしさが高まる。遊園地のコーヒーカップが延々と廻っているような感覚に似ている。

やばい。考えていたら少し酔ってきた気がする。気持ち悪い。

もう開き直って寝るのを諦めた方が逆に寝れるかもしれない、と考えている時点でやっぱり寝ることを諦められないことに気付く。

イヤホンコードが複雑に絡み合ったような感情が本当に面倒臭くて死にたくなった。

 

・・・いやいや、怖い怖い怖い怖い。

衝動的に死にたいとか思ってしまった自分が怖い。

然し、どんなに理性的な生き物であっても、何をするか解らない。だから人は他人を殺し、時には自分をも殺す。

それが生きるということなんだろうか。

・・・あぁ、駄目駄目。考えちゃ駄目だ。どんどん堕ちていく。何とか阻止しなくては。

 

 

 

絡まったイヤホンコードを不器用な太い指先で解き、それをスマホに差し込む。

その直後、音楽アプリの画面が浮かび上がってくる。

再生ボタンを押すと、中途半端なBメロから勝手に流れ始める。

 

もう何年も前からずっと、あるバンドの曲を馬鹿みたいに繰り返して聴いている。

おかげで世間の流行歌なんて一つも分からなくなったし、付き合いで行くカラオケの選曲も相当困るようになった。

それでもずっと聴き続けるのは、人間関係が多少ズレてしまう苦よりも、あるバンドの曲を聴かなくなる方が、自分の人生にとって断然苦だからだ。

ある意味、あるバンド中毒、あるバンド依存症。

 

はぁ・・・やっぱり耳心地が良い。尖ってる所がまた良い。丸くなったらなったで結局それも好きなんだけど。

美しく笑えない、容易く泣けない、上手に怒れない、本当の気持ちを素直に伝えられない。そんな自分に、この音や言葉は鋭く突き刺すように痛くて、だけど、それでいて繊細で優しい。


ボーカルの声、よく「変だ」とか「普通じゃない」だとか好き勝手言う人が居るけれど、俺は堪らなく好きだ。

この声を、煮たり焼いたりせずに刺身のままで、しかも醤油もつけずに素材そのものの味をゆっくり味わい尽くしたい位には好きだ。

あぁ、でも食べたら無くなっちゃうから嫌だな。いや、でも、栄養分として体内に吸収されるから、それもそれで幸せかもな。

・・・なんだか物凄く気持ち悪い表現をしてしまった。

まぁ、いいか。別に、口に出して誰かに言っている訳でも、誰が聞いている訳でも無い。想うのは勝手だろ。

 

ていうか、世間はよく「普通」って言葉を多様するけれど、よくよく考えたら普通って何だろうな。

オッケー、グーグル。「普通」とは?

【いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持っていないさま。】

・・・そんなもの、この世の何処にあるの?え〜、あるのかな?例えば、何だろう。何だろうな。思いつかないな。上手く頭が回らない。それもそうか。寝てないし、もう5時だし、変なテンションになっても仕方ない。

・・・え、5時?!

もうそんな時間なの?ビックリなんですけど。あと1時間しか寝れないじゃん。最悪〜。

いかんいかん。懲りもせずに再び寝ることを考えてしまったし、口調がギャルみたいになってしまった。

あぁ・・・今度は足の裏がムズムズしてきた。

 

でもさ、スマホなんかで調べてもよく分かんなかったし、「普通」って取り敢えず凄いことなのかもしれないけどさ、「普通じゃない」って凄く普通だし格好良いと思うんだけどな。人と違うってことがまさしく普通じゃない?

あ、なんか自分もしれっと「普通」を多様してしまった。

まぁ、いいか。

 

たださ、「変だ」とか「普通じゃない」って言う人って、結局「燃えるゴミ」か「燃えないゴミ」かみたいに極端な「好き」か「嫌い」の分別作業をしたいだけであって、個人の意見をまるで世間の意見であるかのように大袈裟に掲げて、ただ気に食わない何かしらを否定したいだけなんだよな。

そっちの方がよっぽど好きじゃない。

誰かを傷つけるだけの言葉なら、最初から要らない。そんな分別する価値も無いゴミみたいな言葉に対して、あのボーカル風に言い返すとするなら「うるせーよ、バーカ。」

ここにきても、上手く怒れない自分をスカッとした気持ちにさせてくれるのは、このバンドの存在だ。

これだから、好きでいるのを止められない。

あーあ、匿名で卑怯に誰かを傷付けてばかりの世の中を「普通じゃない」って言える世の中になりゃいいな。

 

 


雑巾を強く絞ると出てくる、手が悴む程に冷たく濁った水。それは、言葉にできない俺の感情だ。汚れてしまうから、川にも海にも流せない。何処にも行き場所が無かった。

挙句の果てに、雑巾に残っている水が滴り、バケツからはみ出て、綺麗な床を汚してしまうこともあった。

だけど今は、あるバンドの手によって掬われている。

きっと、あの頃の俺みたいに雑巾を上手く絞れなかったり、バケツから水を零してしまうような人がこの世には沢山居るんだろうし、だからこそ、それぞれ誰かに救ってもらいたくなるのだろう。

少なくとも俺のこの行き場の無かった感情は、あるバンドによって掬われて救われている。

そんなこんなで、誰かの「嫌い」は誰かの「好き」なんだよ。

だから、嫌いでもどうだっていいからさ、あんまり「普通」だとか言って否定しないでくれよ。悲しくなるよ。

 

 

 

 

 

カーテン越しからでも分かるくらい、外が明るくなっている。

6時ですね。はい、結局寝れませんでした。もう諦めて起きます。寝てもいないのに起きますよ。

 

カーテンを開けて、薄手の寝巻き姿のままベランダの外に出てみる。

もう5月なのに、冬みたいに風が冷たい。

死にそう。死にたくない。死ぬほど生きたい。

 

耳の奥で鳴っているギター、ベース、ドラムのリズムに合わせて、雀が元気良く歌っている。

イヤホンをしているから鳥たちに音は聴こえている筈もないのに、奇跡的にマッチしている不思議。

寝れなかったけど、まぁまぁ良い朝だったからいっか。

 

さて、仕事に行く準備をしよう。

顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を治して。

寝てもいないのに寝癖がつくなんて変だよな。まぁ、いっか。それが俺の普通だ。

通勤時の満員電車に揉まれながら、今日もまたあるバンドの曲を聴くだろう。だろう、じゃなくて、もう聴くことは決めている。退勤時も、入浴時も、就寝時も、とち狂ったように聴くのだ。

好きだ。好きだなぁ。

死ぬまで一生愛してる。

 

夕焼けに消えた沢鵟

 

「君は本当に可愛いな。」

「大好きだよ。」

「ずっと一緒に居ようね。」

 

その言葉が、その声が、それだけが頼りだった。

この世界の特別にはなれないと知ってから何者にもなれなくなった私が、この先の未来をただ平凡に、けれど幸せに歩いて行くための道標だった。

何者にもなれない私が、何者かになれると思えた。

 

 

 

 

 

ライターで煙草に火をつける。

ジュッと音を立てながら吸い、グラデーションに輝く夕焼け空の境目を探しながら小さく煙を吐いた。

それと同時に、自身の体内から何かが引き離されて行ってしまうような感覚がした。

あれはきっと、私の大切な道標。

それはこんなに些細な吐息で空の向こうへ飛んで行ってしまうような薄っぺらなものだったのだろうか。

 

 

 

「お願いしま〜す。」

右側から声を掛けられ、ティッシュ配りかと思って何気なく受け取ると、安っぽいチラシで拍子抜け。

私にとっては、こんなのただのゴミ屑だ。

もう何もかもペラッペラに見えて笑えてくる。

そんな笑いも直ぐに消える。

力一杯グチャグチャにして、石みたいに固めてゴミ箱へ捨てた。

 

 

 

 

 

あの時、何より信じていたものが、今では何も信じられない。

1日、1年と時間が経過するに連れて、全く違うものに変わって行ってしまったのだから。

私が今眺めているこの空のグラデーションのように、ゆっくりとね。

 

赤から、青へ・・・。

それは、目を見張るような美しさだった。

色の境目など見えないくらいに。

 

だけど、そんな美しさなんてクソ喰らえだ。

私を余計惨めにさせる。

 

 

 

「昔は可愛かったのにな。」

「何で好きになったんだろう。」

「君は1人でも生きていけるよ。」

 

嗚呼もう・・・うるせぇな。

 

 

 

 

 

信号機が青に変わる。

何食わぬ顔をして横断歩道を渡る蟻の大群。

それが大軍となり、私の方に近付いてくる。

私は一人だ。

この大軍に攻められたら、間違いなく殺られてしまうだろう。

 

白旗を立て、青の信号機から背を向けて逃げ出した。

ただ走っている。何かに向かって。

だけど何処まで行ったって、もうあの頃の赤には戻れない。

それだけは解っている。

では一体、私は何処へ向かっているのだろう。

何処へ向かえば良いのだろう。

誰か教えて。

 

私は独りだ。

 

 

 

 

 

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𓄿沢鵟(チュウヒ)

鳥言葉:ささやかな幸せ

 

鶩の答えを探して

 

薄明るくなったカーテンの外。

微かな光にさえ反応して目が覚めてしまう自分に溜め息をつきながら、痺れている左腕を庇いつつ寝返りをうつ。

そっと動いたつもりなのに、少しでも揺れると軋むベッド。

思っていたより大袈裟な音に焦り、隣を見る。

心配を他所に、此方へ身を寄せながらスヤスヤと眠っている。

 

僕の愛しい人。

ピンク色に染まった頬をツンツンしてみると、柔らかくて温かい。

長くて濃い睫毛。

ツリーチャイムを奏でるように触れてみるけれど、当の本人は全く気付かず、口を半開きにして眠っている。

なんて可愛い人なんだろう。

少し乱れた長い髪を、優しく掬って整えた。

 

僕の悪戯に気付かないくらい、深い眠りにつける彼女が羨ましい。

一体、どんな夢を見ているのだろうな。

彼女の少しマヌケにも見えるような寝顔をただ見つめるだけで、僕は満たされてしまう。

 

あぁ・・・こんな日が永遠に続けば良いのにな。

何処にでもある恋愛映画のようなクサい台詞が思い浮かんでしまう程に、僕は彼女を愛している。

参ったな・・・、こんなに好きになるなんて。

 

 

 

再びベッドが悲鳴を上げてしまわないよう、先程よりも慎重に身体を動かし、立ち上がる。

トイレから戻ると、サイレンのような彼女の携帯アラームが激しく鳴り始めた。

一度は怪訝そうに薄目を開いてアラームを止めるも、何事も無かったかのように目を閉じて二度寝をしようとする。

コロコロ変わる表情だけで考えていることが分かるくらいに単純で、それに呆れながらもつい笑ってしまう。

 

「朝ですよ。」

ベットの端に座り、優しく彼女の頭を撫でる。

「・・・ふん。」

彼女は少し目を開くと、すぐに掛け布団を上に引っ張り、頭の天辺まで被ってしまった。

こうして頭を撫でると、いつもだったら嬉しそうな顔をして微笑むのに、どうやら今朝はご機嫌斜めの様子。

「あれ、怒ってるの?」

「・・・怒ってる。」

「如何したの。嫌な夢でも見た?」

「・・・貴方の所為。」

「僕?」

「そうだよ。全くもう。」

 

不定期にやってくる彼女の怒りの感情は、時に理不尽なものだ。

それでも、それを腹立たしいと思わないのは、自分にはそういった感情が無いに等しいからだ。

彼女が怒る理由が知りたい気持ちと、そういう感情を素直に出せることへの羨ましさもある。

 

「如何して僕の所為なの?」

理由を尋ねると、もう彼女の口は止まらない。

ちゃんと息が出来ているのか、心配になるくらいだ。

毎回そういう展開になるのも分かっている癖に、ムキになって口を尖らせながら喋る姿が可愛くて、つい同じことを繰り返してしまう。

こういう時の僕は、彼女からすればただの意地悪な男にしか映っていないだろう。

それでもいい。それさえ愛しい。

 

 

 

「貴方は如何して毎晩私に背を向けて眠るの。」

今日の議題は、【寝る時の姿勢ついて】のようだ。

「えー、毎晩ってことは無いと思うよ。」

「毎晩だよ。私がそう感じているんだから。」

「そうかなぁ・・・。でも、一体それの何が気に入らないの。」

その言葉を発した瞬間、彼女は眉間に皺を寄せて眼球を剥き出しにする。

ヤンキーがガンをつける時のようなグレた顔。

そんな迫力のある顔を見ても思ってしまうのだけれど、どんな顔をしていても、結局君はいつも可愛い。

愛しすぎて抱き締めてしまいたくなったけれど、今それをすると余計に怒らせてしまいそうだったので、空気を読むことにした。

「だって、貴方が眠っている時に私が見てるのは、壁みたいな背中ばかりなんだもん!」

「壁?」

つい吹き出してしまった。

確かに僕は背が高くて、身体も彼女に比べたら大きいのは間違いないのだけれど、人の背中を“壁”だなんて・・・。

なかなか失礼なことを口走っていることに彼女は全く気付いていない。

そこがまた可笑しくて、笑いが込上げる。

「何が可笑しいの?!私は真面目に話しているのに!」

「ごめんごめん。」

全く笑い足りなかったけれど、両頬を軽く叩いて、無理矢理に真面目な顔を作った。

 

「貴方は眠りが浅くてすぐに起きてしまうから、私は滅多に貴方の寝顔を見られない。そんなの寂しい。」

あぁ・・・そんなこと考えたことも無かった。

あ、いや、“そんなこと”っていうのは、決して馬鹿にしている訳じゃなく、純粋に感心しているからこその言葉だ。

彼女の目には、そう映っているのだな。

僕が何気無く見落としてしまうようなことを、彼女は真剣に考え、僕とは違う場所で何かを感じている。

彼女のそういう所も好きだ。

 

 

 

何故僕は彼女に背を向けて眠っているのだろうと考えてみる。

寝顔を見られるのが恥ずかしいから?

・・・違うな。

では、寝る位置を替われば向き合って眠れる?

・・・いや、多分、引き続き背を向けて眠ってしまうような気がする。

参ったな、すぐに答えが出ない。

 

唸っていると、彼女は痺れを切らした。

「今夜までに答えを出しておいて。」

そう言うと、不機嫌な顔のままあっという間に支度を終え、さっさと仕事へ行ってしまった。

 

「う〜ん、困ったな・・・。」

リビングで珈琲を飲みながら、換気扇の下で煙草を吸いながら、洗面所の鏡の前で歯磨きをしながら考えてみたけれど、見つからない。

そうこうしている間に自分も出社の時間がやってきた。

今日の宿題は、なかなか大変そうだ。

ふぅ・・・と息を吐いて、玄関の扉を開けた。

 

 

 

 

 

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「確認お願いします。」

“貴方は私に背を向けて眠っている”

「あのー・・・先輩。確認お願いします。」

“そんなの寂しい”

「あの!すみません!」

肩を叩かれ、ビクッとして振り向いた。

「あ・・・驚かせてすみません。確認お願いします。」

「あ、ごめんね。確認しときます。」

「大丈夫ですか?お疲れのようですね。」

「あ、大丈夫。ごめんね、ありがとう。」

不思議そうな顔をした後輩が僕に背を向けて自席へ戻っていく。

 

 

 

あぁ、驚いた・・・。

心臓の音が煩すぎて、耳の中までドクドクしている。

彼女からの宿題の答えを考えていたら、後輩が居たことに全く気付かなかった。

無視したみたいになって、悪いことしたな。

それにしても驚いた。何故か昔から背後に人に立たれるのが得意じゃないんだよな。

理由は分からないけれど、なんか怖くて。

仕事中や外出中は常に気を張っていたのに、今日は油断していた。

らしくないな。

 

・・・らしくない?

 

あぁ・・・、そうか。らしくないんだ。

彼女を好きになってから、ずっとそうだ。

 

 

 

 

 

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「ただいま。」

玄関の扉を開けると、すごい勢いで此方へ走ってくる彼女。

「おかえりなさい!えっと・・・今朝はごめんなさい。寝起きで機嫌が悪かったとは言え、さすがに言い過ぎました。」

勢い良く頭を下げて謝る彼女。

君は僕に怒った後、必ず自己嫌悪に陥るんだよな。

そういう忙しい所も好きだよ。

「謝ることは無いよ。大丈夫だから。」

僕が笑うと、分かりやすく安堵の溜め息をついて微笑む彼女。

「あのね、今日は貴方の好きなハンバーグだよ。もうすぐ出来るから、手を洗って着替えておいで。」

 

彼女が背を向けてリビングへ戻ろうとする。

僕から離れてしまわないようにその背中を掴まえ、そのまま抱き締めた。

「今朝の答え、見つかったよ。」

彼女の右肩にそっと顎を乗せ、耳元に頬を寄せる。

「せ、背中を向けて眠る理由のこと?」

彼女は積極的で気の強い性格の癖に、奥手で気の弱い僕の方からこういうことをされると、必ず身体を硬直させて緊張する。

本当は、繊細で純粋で、少女のような女性だってことを僕は知っている。

彼女のこういう可愛い所は、そこらへんの男達になんか知られたくなくて、永遠に僕だけが知っていたい。

そんな想いが心の奥の方から外へ溢れ出してしまいそうになる。

この気持ちを逃してしまわないように、彼女を抱き締める腕の力を少し強めた。

 

 

 

彼女を好きになるまで、自分がこんなに我儘で独占欲の強い人間だとは思わなかった。

自分で思っていたより、器が小さくて情けない。

本当にうんざりするよ。

余りにもみっともないから、必死に余裕のある振りをしているだけだ。

心の中ではこんなことを考えているなんて知ったら、彼女は嫌がるだろうか。

・・・嫌われたくないな。

 

「それで、答えって?」

堪らなくなった彼女が控えめに尋ねる。

「今、背後に僕が居て、どんな感じがする?」

質問に質問で返す狡いやり方。

顔は見えないけれど、分かりやすい彼女のことだから、きっと困った顔をしているに違いない。

「うーん・・・少し照れる。だけど、暖かくて安心する・・・かな。」

「うん、僕も同じ気持ちなんだと思う。でも本当はね、背後に誰かが居るのが得意じゃなくて。だから外では気を張っているんだ。多分、ずっと昔から。だけど・・・今朝、指摘されて初めて気が付いた。起きていても眠っていても、何も考えずに背中を見せられるのは君だけなんだ。」

僕はきっと、彼女の温もりを背中に感じながら安心して眠っていたいんだろうな。

彼女だけに寂しい思いをさせておいて、本当に自分勝手で我儘だな。

 

「・・・それが答え?」

「うん。こんな我儘な答えでごめんね。」

抱き締めていた手を離す。

ほんの数秒間、彼女は動かなかった。

どういう風に返事をしようか考えているようだ。

僕は、見つけ出した答えを正直に話したことに後悔は無い。

あぁ、でも、嫌われたくないなぁ・・・。

 

 

 

すると、彼女が突然此方を振り返る。

「しょうがないなぁ。その答え、合格にしてあげる!」

少し怒ったようにも聞こえるぶっきらぼうな言葉だったけれど、頬が林檎のように真っ赤なのを見て、僕は少し安堵した。

リビングへと走り去って行く彼女の背中を眺めながら、この先何があっても彼女を離したくないと、不覚にも涙が出そうになった。

 

 

 

 

 

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彼女の作った美味しいハンバーグを食べて、順番にお風呂へ入り、1時間だけ2人でゲームをして、洗面所に並んで歯磨きをして、同時にベッドへ入る。

「電気消すよ。おやすみ。」

「うん、おやすみなさい。」

僕は彼女に向き合う形で横になる。

「ふふ。」

暗がりの中で彼女の笑う声がする。

「如何したの?」

「あのさ、もう怒ってないから。」

彼女に気を使って向き合っているのだと思ったようで、それが可笑しいと言って笑う。

「ねぇ、後ろ向いて。」

「え?」

「もう・・・いいから!」

半ば強制的に身体の向きを変えさせられると、ベッドも苦しそうに悲鳴を上げた。

少しすると、そっと後ろから抱き締められる。

「こうしてくっついていたら、貴方の匂いがして安心する。それなら私も寂しくない。」

彼女の柔らかい温もりを背中いっぱいに感じる。

あー・・・幸せだ。

 

彼女と出逢ってからの僕は、本当に馬鹿みたいにおめでたい人間になった。

今なら、そこらへんの花が咲くだけで美しいと言って泣けるかもしれない。

彼女に出逢う前の僕を知る人は、“らしくない”と言って笑うだろう。

自分でもそう思うし、自分の中にそんな一面を発見したことへの戸惑いがあるのも確かだけれど、もうそんなことはどうでもよくて、過去の自分なんて全て捨ててしまってもいいと思えるくらいに今が愛しい。

 

 

 

「あぁ・・・こんな日が永遠に続けば良いな。」

恋愛映画みたいなクサい台詞を呟くと、夢の中へと消えた。

 

 

 

 

 

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𓅿鶩(アヒル)

   鳥言葉・・・安心。

 

(2021年、お世話になった皆様へ)

 

晦日がやってきましたね。
個人的には、今年もあっという間だったように感じます。
皆様にとってはどんな1年だったでしょうか。

 

辛いこと、哀しいこと、やるせないこと、もどかしいこと・・・数え切れないほどに有ったかもしれません。

思い出したくないことも沢山ありますよね。

だけど、せめて今日だけは良かったこと、嬉しかったこと、幸せだったこと、頑張れたことを振り返られたらいいな・・・と思いながら書いています。

 

私が今年嬉しかったことは、1月にTwitterを始めてから多くの方々と出逢えたことです。

5月に一度アカウントをお引越しして、大好きだったのに離れてしまった方も居るけれど、現在のフォロワー様も含めて本当に素敵な方々に出逢えたこと、心より嬉しく思っております。

 

そして、私事ではございますが、数ヶ月前よりお仕事を再開しています。
覚えることや慣れることに日々精一杯で、なかなか心に余裕が持てず、休職時のように皆様のツイートに対してリプやいいね等の反応も出来ないことが増え、私自身寂しさや心苦しさもありました。
それでも、なんの事情も知らなくても変わらず優しく接して下さる方々が沢山居て下さり、私はそれが幸せで、ここから消えようかなという気持ちが消えてしまいました。

感謝という言葉では足りない程です。

ありがとうございます。

 

こうして少しずつ歩き出せるようになるまで近くで支えてくれた家族や友人、そして、物理的には遠くからだけれど、いつも優しいお言葉を掛けて下さる皆様。
自分の力だけではなく、私に関わって下さる周りの方々のおかげで今の私があると思っています。

 

今年1年、大変お世話になりました。

私も何か少しでもお返し出来ていたら良いのですが・・・自信はないです(笑)。

こんな私でも宜しければ、今後も繋がって頂けるととても嬉しいです。

 

世の中はコロナの変異株などでまだまだ安心出来る状態ではありませんが、私はいつでも皆様の無事を願っております。

少しずつでも世界が和らいでいきますように。

 

言葉に出来ない気持ちは山程ありますが、キリが無さそうなので、そろそろこの辺で…

 

それでは、どうか皆様が良い年を迎えられますように。

来年もよろしくお願い致します。

空に消えた七面鳥

 

僕は確かに愛されていた。

それが凄く痛かった。

 

 

 

 

 

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12月24日、早朝。

世間は、クリスマスイブ。

夜になれば、今年も浮かれたカップル達や家族連れが街中を色鮮やかに染めるだろう。

僕には無関係なのだけれど。

今日は、今日だけは、この世界で僕1人が色の無い場所で息をしているような、そんな気分になる。

恋人が居なくて寂しいからとかそういう問題では無く、この気持ちは子どもの頃からずっとそうであったから、というだけの理由。

 

仕事に向かうため、玄関の扉をそっと開ける。

早朝であるので、近隣住人の迷惑にならないようにゆっくり開閉するのだけれど、錆びきった扉がギギギギ・・・という音を鳴らす。

この扉、どうにかならないかな。そろそろ大家さんにお知らせした方がいいのかもしれない。

階段を下りる際も出来るだけコツコツという靴の音さえ鳴らしたくはないので、忍び足がすっかり上手になってしまい、まるで泥棒のような気分だ。

「・・・さむ。」

独り言を言うようになったのは、歳の所為だろうか。こんな風に、無意識に言葉を発することなんて、若い頃は無かったように思う。

いや、まだ30歳なのだから、世間からすれば十分若い方なのだろうけれど。

 

吐く息が白く染まり、それがマスクの隙間から漏れていく。

空に昇っては消えていく白い息を見ていると、僕の生きている証が何も無い世界へ溶けていくような気がした。

それが嬉しいような哀しいような、上手く説明がつかない感情が渦巻いて、それをそのままわざとらしく白い息にしては、目に見えない感情を量産したつもりになりながら歩いた。

 

子どもの頃は、この時期になると必ずと言っていいほど積雪していたように記憶している。

当時は今よりずっと寒くて、僕はすぐ手足に霜焼けを作っていた。

ホワイトクリスマスなんていうのもそこまで珍しくは無かったのに、そういえば今ではあまり叶わなくなってきたな。

北の方では今でも当たり前にホワイトクリスマスなのだろうけれど、僕の住む地域ではすっかり雪が降ることさえ珍しいものになってしまった。

恐らく、温暖化の所為だろう。

然し、それとは反対に、僕は年々寒がりになっていく。

それもこれも、歳の所為なのだろうか。

 

先程まで真っ暗だった景色が、少しずつ色を付けていく。それに抗うように、街灯は頑張って光り続ける。

そういえば、街灯って一体いつのタイミングで消えるのだろう。考えたことも無かったな。

誰が消すのだろう?

それとも、自動的に消えるのだろうか?

 

どうでもいいことを考えながら歩き続けていると、少しずつ身体が温まっていく。

外出する際に付けていた手袋を外し、コートのポケットへ雑に押し込む。

靴下を片付ける時みたいにちゃんと1セットにまとめてリュックにでも入れておけばいいのだろうけれど、手袋に関してはついこんな風な扱いをしてしまう。

日頃からそんなことをしているから、気が付けばいつも片方の手袋だけ迷子になってしまって、ちゃんとしなかったことを後で悔やむのだ。

道端に落ちている片方だけの手袋を見ると、少し寂しい気持ちになる癖に、それでもちゃんと出来ない僕。そして、そんな人が世の中には沢山居るのだろう。

 

 

 

「おはようございます。」

聞き馴染みのある声がして、振り返る。

「あ、おはよう。」

いつものように無愛想な顔で会釈をする。

「松山さん、今日も早いですね。」

僕とは正反対に、愛想の良い笑顔を振り撒きながら真っ直ぐ此方を見つめる彼女は、同僚の小川さん。

僕は、彼女が苦手だ。

いや、良い子だとは思っているし、別に嫌いな訳ではないのだけれど・・・。

つい最近、僕に好意を寄せているらしいということを不意打ちで他の同僚から聞いてしまってから、どう接していいか分からなくなり、何だか苦手になってしまった。

彼女は全く 何も悪くないのだけれど。

 

「松山さん、今日って予定ありますか?」

それを訊かれた瞬間、何故だか背筋がゾッとして、折角歩いて温まっていた身体が一気に冷めてしまった。

「え・・・今日?」

「あ・・・今日、皆で飲み会しようって話になっていて・・・良かったら松山さんもどうかなって・・・。」

無意識のうちに、僕が眉間に皺を寄せてしまったからなのか、彼女は語尾に近付くに連れて声が小さくなってしまった。

「あー・・・今日は・・・えっと・・・。」

別に予定なんて何も無い。

仕事終わりに、ただコンビニでビールとツマミになるような何かを適当に買って、1人で晩酌をするだけのいつも通りの日なのだから。

でも、何となく今日だけは1人で過ごさなければならないような気がしてしまう。

「あ・・・あ、じゃあ、またの機会に是非!」

彼女は少し寂しそうに笑いながら、小走りで会社へと入って行った。

 

小さくなる彼女の背中を見つめながら、深く溜め息を吐いた。

また1つ、白い息が空へ昇って消えていった。

 

 

 

 

 

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「お前さぁ、本当に今日予定あんの?」

僕の左肩に左手を置き、僕の右肩に顎を乗せ、小さな声で耳打ちしてくるのは、同期の平井。

彼はとても馴れ馴れしい奴だ。

「・・・・・・うん。」

「嘘つけ!何だよ今の間は。お前、嘘下手過ぎなんだよ。」

置いていた左手と顎を離し、僕の背中を軽く叩いてツッコミを入れる。

彼は馴れ馴れしいが、僕はそんな彼が嫌いじゃない。

「だって・・・面倒なんだもん。」

「お前さぁ・・・ちょっとは察しろよ。」

察しろ、とは、きっと小川さんのことだろう。

彼女が僕に好意を寄せていることを僕に教えてきたのは他でもない彼だから、きっと彼女に同情して言っているだろうということくらい、鈍感な僕にでも分かる。

でも、だからこそ行くのが嫌なんだよ、と僕は心の中で叫んだ。

「お前、どう思ってんの?彼女のこと。」

「どうって・・・別にどうも思っていないよ。」

「嫌いなんか?」

「いや・・・嫌いではないよ。可愛いなとは思うし、良い子だってことも分かってる。」

僕がこんなに拒否反応を見せるのは、何も彼女に限ってのことではない。

“僕に好意がある人”が苦手なのだ。友情ならまだしも、恋愛感情を抱かれると如何してもゾッとしてしまう。

「じゃあ、別にいいじゃん。俺だってさ、別に無理に彼女と付き合えって言ってる訳じゃないんだよ。ただ、相手のことをよく知らないんなら、知ってから判断しても遅くはないだろ?それに今日は俺たちだって飲み会に行くんだし、2人きりって訳でもない。フリー同士、皆で楽しく呑もうぜって話!断る理由があるか?」

何も言い返せない。

こうして僕はいつも彼に論破されてしまう。

彼は営業の人間だからか話が上手くて妙に説得力があるし、そもそも彼のことが嫌いじゃないから尚更納得してしまう。

「・・・分かったよ。行けばいいんだろ。」

「よし!よく言った!決まりだからな!変更は受け付けません!」

彼は白い歯を見せて爽やかに笑い、此方に手を振りながら去って行く。

それを横目で見送った後、小さく溜め息を吐いた。

部屋の中での息は透明な色をしていて、残念ながら目には見えなかった。

 

 

 

 

 

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健太郎、こっちにおいで。」

夕焼けが、部屋の中を真っ赤に染めている。

天使のような優しい顔をして微笑み、此方へ手招きをしている。

そんな彼女の顔も、真っ赤に染められている。

優しく美しい顔をしている筈なのに、夕焼け色の所為か何処か不気味さも兼ね備えている。

額から血を流している此方の顔は逆光であるから、今僕がどんな顔をしているのか、きっと彼女からは見えていないだろう。

僕は、蝶々が花の香りに誘惑されるように、ゆっくりと彼女に近付く。

「ごめんね・・・健太郎。愛してるよ。」

痩せ細っている僕を膝の上に乗せると、彼女は右手に持った白いタオルで額の傷口を後ろから優しく庇いながら、余った左手で小さな身体を抱き締める。

壊れたロボットのように、ごめんね、愛してる、ばかりを繰り返す彼女。

白いタオルが、少しずつ赤色に染まっていく。それさえも夕焼け色に同化してしまっているのかもしれない、と僕は思った。

然し、どれだけ色に誤魔化されても、湿った感触は生々しいのだろう。直接タオルに触れている彼女は、大粒の涙を流している。

彼女の生暖かい涙が、僕のTシャツの肩を濡らした。

 

お母さん、僕も愛してるよ。

でも、お母さんの愛は凄く痛いんだ。

身体中に残っている痣よりも、今出来たばかりのこの額の傷よりも。

お母さんの愛が一番痛いよ。

こんなこと思ってしまってごめんね。

僕は愛から逃げてしまいたいよ。

 

 

 

 

 

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「松山さん、次、何飲まれますか?」

遠慮がちに訊いてくる声にハッとした。

「え?・・・あぁ、じゃあ同じものを。」

「ビールですね。了解です。」

「ありがとう。」

「いえ。」

頼りない僕の“ありがとう”という言葉にさえ、頬を赤らめて単純に喜んでしまえる彼女は、本当に僕と同じ種類の生物なのだろうか。

嬉しい、有難い、というよりは、恐ろしい。

“違う”から、恐ろしい。

 

昼間、平井が僕に言ったように、確かに僕は彼女を知らない。

けれど、彼女も僕のことを何も知らない。

それなのに、僕の何が良いと言うのだろう。

もっと他に居るだろう。もっと普通の人が。

普通とは何かなんて、いざ聞かれても明確には答えられないけれど、少なくとも“普通”とは、消えない痣だらけの身体を隠すためにクソ暑い夏場でも長袖のYシャツを着ていたり、前髪を長く伸ばして額の傷を隠していたり、こんなに沢山の隠し事をする人間でないことだけは断言出来る。

 

僕は、彼女が恐ろしい。

彼女が、というより、自分の愛を疑いもせずに“正義”だと信じて真正面からぶつけてくるような人間が恐ろしい。

知れば、この恐怖心は消えるだろうか。

知るために、傷つけ合うのを覚悟して心に触れてみた方が良いのだろうか。

 

「はい、ビール来ましたよ。」

「あ、ありがとう。」

僕は彼女の乙女心に気付かない振りをして、中ジョッキを勢い良く飲み干す。

彼女は、目を真ん丸にして僕を見ている。

驚きすぎて生唾を飲み込んだ彼女の喉の音が聞こえてきそうだった。

 

「あの・・・訊いてもいいですか?」

何も訊かないで欲しいけれど、そんなこと言えないよな。

「うん。何?」

「あの・・・彼女とか好きな人とか、いらっしゃるんですか?」

本当、そんなこと訊かないで欲しかった。

「居るよ。」

「・・・え、あ・・・そうなんですね・・・。」

本当に分かりやすく落胆する彼女に、流石の僕でも罪悪感が込み上げてくる。

「あー・・・でも、もう傍には居ない。僕は、彼女から逃げたから。」

あぁ・・・視界がぐるぐると回る。

 

 

 

 

 

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夕焼けが、部屋の中を真っ赤に染めている。

僕は、西日に向かって正座をさせられている。

この両足はとうに痺れているけれど、崩すことは死んでも許されない。

今回は、彼女の方が逆光になっていて顔が見えない。

然し、容易に想像はつく。

きっと、悪魔のような顔をしているだろう。

だからこそ、見えない方が都合が良い。

悪魔になっている時の彼女ほど、恐ろしいものはこの世に無いとさえ思う。

震えるほど恐ろしいけれど、涙を流せば更に逆上させてしまうため、僕は必死で堪える。

そんな僕を見下す彼女。

「何でお母さんの言うことが聞けないの!」

愛と憎しみが上乗せされた女の力は、想像する何十倍も痛いということを、きっと世の中の大半の人間は知らずに生きられるだろう。

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・。」

「あんたなんて産まなければ良かった。消えてよ!」

 

すっかり感覚が無くなってしまい、言うことの聞かないような足で無理矢理立たされ、ベランダの外へ追い出される。

洗濯されないまま薄汚れて、所々破れている薄っぺらなTシャツ姿の僕。

 

今日は、12月24日。クリスマスイブ。

夕方から雪が降るだろうと天気予報で言っていたから、きっと世間はホワイトクリスマスになると呑気に喜んでいるだろう。

僕と同じくらいの歳の子たちは、サンタさんからのプレゼントが楽しみだなんて言いながら、幸せに笑っているだろう。

 

 

 

見上げると、牡丹雪。

その大勢の雪たちが、武器も持たない僕に殴りかかってきては体力を奪っていく。

今日のこの色鮮やかな世界の中で、色の無い世界に居るのは、きっと僕、ただ1人だけ。

 

あぁ、全部お母さんの言う通りだ。

僕なんて生まれてこなければ良かった。

痛いだけの愛なら、知らないままの方が良かったな。

ネロとパトラッシュのように、僕のことも天使が迎えに来てくれたらいいのに。

あ・・・でも、あれは仲良く2人で逝ったんだっけ。

独りなのは、やっぱり僕だけだ・・・。

 

 

 

地面に雪が薄ら積もり始めている。

ここから落ちれば、あの世に逝けるだろうか。

2階だから、高さは無い。

最悪、骨折するだけで終わりだろうか。

ただ痛いだけで、終われないのは一番嫌だ。

 

どころで、一体何時間此処に居るのだろう。

空はすっかり暗くなってしまった。

他所の家から零れる光と、消えかかりそうに点滅する頼りない外灯だけが僕の姿を微かに照らしてくれ。

落ちようか、落ちまいか・・・。

身を乗り出したり引っ込めたりする。

ベランダの錆びた柵を持つ。

冷えきっていて手が悴む。

気付けば、霜焼けが出来ている。

雪が積もり始めたゴミの山に乗っている、素足の指先も同様に。

 

ふと、地面から視線を外す。

買い物帰りだろうか。右手にビニール袋を下げ、赤いコートを着た白髪のおじいさんが、不思議そうな顔をして此方を見上げている。

そりゃあ、不思議がるのも当たり前だよな。

クリスマスイブの日に、夕方18時頃の暗いベランダに、季節外れのTシャツを着た小学生の子どもが身を乗り出しているのだから。

 

果たして、このおじいさんは天使だろうか、悪魔だろうか・・・。

早送りのビデオのように、短時間でグルグルキュルキュルと考えた。

そんなことをしても、到底正しい答えが出る筈も無い。

まぁ、もう、別に正しくなくてもいい。

どうせ、正しく生きたことなんて、生まれてから一度も無かったのだから。

僕が願っていることは、ただ一つだ。

 

ガタガタ震える顎を必死で抑えながら、声を出さずに口元を出来るだけ大きく動かす。

“た す け て”

頼りない灯に照らされた僕の口元は、おじいさんには見えただろうか。分からないけれど、諦めずに何度も云った。

声にならない言葉。

“た す け て”

おじいさんは、一瞬、眉をひそめて首を傾げたが、その後すぐに目を見開き、何かを思いついたように少し早歩きをしながら何処かへ消えて行った。

果たして、おじいさんは天使だろうか、悪魔だろうか。

いや、赤いコートを着て白髪だったから、もしかするとサンタさんかもしれない。

そうだったらいいな・・・。

僕は目を閉じた。

 

 

 

どのくらい時間が経ったか分からない。

サイレンの音が鳴り、それが少しずつ近付いてくるような気がして、薄目を開いた。

パトカーと救急車の赤い光がぼやけて見える。

幻覚だろうか、綺麗なイルミネーションに見えた。イルミネーションなんて一度も本物は見たこと無いのに。

遠のく意識と共に、あの光だけが僕の希望であったし、母を裏切ってしまった罪悪感の色だった。

 

 

 

母は、確かに僕を愛していた。

でも、それは痛かった。

僕も、母を愛していた。

それでも、僕は逃げ出した。

 

ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・

 

 

 

 

 

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「松山さん・・・松山さん。」

肩を揺さぶられてハッとした。

いつの間にか机に伏せって眠っていたようだ。

「あれ・・・いつの間に寝てたんだろう。皆は?」

「先に出ちゃいました。2軒目に行くって。」

「あぁ・・・そうなんだ。付き合わせてしまってごめんね。僕たちも出ようか。」

「あの・・・大丈夫ですか?」

「・・・何が?」

心配そうな顔をしてハンカチを差し出してくる彼女を、僕は不思議な顔をして見た。

「泣いてるから・・・。」

は?泣くなんて有り得ない。どんな冗談だよ。

鼻で笑いながら頬を触ってみると、確かに頬は濡れている。

「え・・・あれ、何でだろう。」

驚きと恥ずかしさの余り、望んでもいない笑みが溢れる。泣くなんて、僕らしくない。

あの頃の夢を見たからだろうか。

でも、あの頃でさえ僕は一度も泣かなかったし、泣けなかったんだ。

それが如何して今更になって・・・。

「無理して笑わないで・・・。」

今度は彼女の頬が濡れているのに気付く。

僕はいつの間にか笑うのを止めて、ただその涙に目を奪われていた。

 

彼女の涙は、一体、どんな意味を持っているのだろう。

僕の涙には、一体、何の意味があるのだろう。

母の涙は、一体、何を意味していたのだろう。

 

「私、松山さんが好きです。」

僕は、僕が嫌いだ。

「松山さんが私のことを好きじゃなくても、そんなことどうでもいいです。いや、良くはないけど・・・いいんです。それでも・・・私は貴方が好きです。」

僕は、母の愛から逃げた。だからそんな自分が嫌いだ。

「好きだから・・・貴方が哀しいと、私も哀しい。」

なぁ、愛って何だ。

愛とは、いっそ殺して欲しいと願ってしまうくらい、痛いものだろ?

じゃあ、彼女の愛は・・・?

「ごめん・・・僕はもう、誰のことも好きになれない。」

その真っ直ぐな視線から目を背けることで、母がくれた愛とは違う形をした彼女の愛を見ないようにしている僕は、きっと卑怯だ。

そんなこと、自分が一番よく分かってる。

「それでもいいです。それでも、私は貴方のことをもっと知りたい。」

子どものような彼女の小さい手が、ゆっくりと此方の方へ伸びる。

それが僕の前髪をそっとかきあげ、黒ずんだ額の傷に優しく触れる。

何故、彼女はこの傷を知っているのだろう。

拒絶したいのに、魔法をかけられたみたいに動けない。

必死に隠していたつもりだったのに、簡単に気付かれていた。そして、簡単に触れられてしまっている。

 

彼女の指は冷たくて、暖房が付いた部屋で火照っていた額は心地良い。

知られること、触れられることをずっと恐れていたのに、いざ触れられると意外と嫌じゃないことを知ってしまった。

お酒の所為なのか、暖かすぎる部屋の所為なのか、僕はきっと正気じゃない。

 

なぁ、心地良いって何だよ。

此処はずっとずっと痛かった筈だろ。

 

「本当の僕を知ったら、きっと嫌いになるよ。」

また無理して笑ってみる。でも、きっと哀しい顔をしているだろう。子どもだった頃の僕みたいに。あの日、ベランダの柵を乗り越えようとした時の僕みたいに。

 

僕は、彼女が怖い。

彼女が、僕を真っ直ぐ見つめるから。

僕は誰のことも見つめられないし、誰からも逃げ続けているから、僕から逃げない彼女が怖い。

 

「私が今まで見てきた貴方も・・・それだって、本当の貴方ですよ。」

優しく傷を撫でながら、彼女が微笑む。

別に、彼女の言葉が沁みた訳じゃない。

そんな訳ないのに、年甲斐もなく泣いた。

子どもの頃からずっと貯金してきた涙を、今日で全部使い果たしてしまうかと思うくらいに。

 

これはきっと酒の所為だ。

酒の所為だ。

 

 

 

 

 

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「送ってくれてありがとうございます。」

白い息を吐きながら、丁寧にお辞儀をする彼女。

「いや、此方こそ・・・今日はみっともない所を見せてごめんね。」

冷たい空気に触れながら歩いたことで酔いが覚め、今になって恥ずかしさが込み上げてくる。

「いいえ、私は嬉しかったです。」

店の中で男にわんわん泣かれて嬉しいだなんて、彼女はやっぱり変だ。普通じゃない。

でも、やっぱり、普通って何だろうね。

「小川さんって変わってるよね。」

自然に溢れた笑みが、白くなって空に消える。

「そうですか?普通ですよ。」

彼女の笑う声も、白くなって空に消える。

 

僕は、いつか誰かに話せるのだろうか。

あの日の、あの頃の、あの愛の話を。

いずれ話せる時が来たとしても、その相手が彼女なのかどうかもまだ分からない。

 

そして、誰かの愛を受け止められるのかということも、僕が愛を生産出来る人間なのかも、まだ分からない。

何も分からない、頼りない僕だ。

だけど、分からないことを分かった振りをして生きることはしない。

 

「じゃあ、また月曜日に。おやすみ。」

「はい、おやすみなさい。」

 

 

 

1人の帰り道。

寒さの余り、コートの両サイドのポケットに手を突っ込む。

あ・・・そういえばポケットに手袋を入れっぱなしだった。

今日は両方とも迷子になることなく無事だったみたいだ。

 

冷えた指に手袋をはめながら歩く。

雪が降り始めてきた。

ほんの小さな雪だから、明日はホワイトクリスマスにはならないだろうな。

本物のイルミネーションの前を通り過ぎた時、やっぱりあの時の赤い光はイルミネーションなんかじゃなかったと笑えるくらいに綺麗だった。

 

少しずつ街灯の数が減っていくのは、自宅が近づいてきたサインだ。

空を見上げる。

小さな雪たちが僕に向かって突進してくるけれど、あの頃のように殴りかかってくるようには見えなかった。

白い息を吐く。

空に昇っていき、消えていった。

 

僕の生きている証が、空に溶けていく。

先程まで一緒に歩いていた彼女の生きている証や、見ず知らずの誰かの生きている証も、全部、この暗い空の中に溶けていくのだろう。

例え、それが見えなくなったとしても。

 

 

 

 

 

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𓅦七面鳥・・・12月24日のバースデーバード。

   鳥言葉:利他の精神。